第四百五話 試験準備(3)

 さて一方のオヅマは、マティアスの小言から逃れて、そのトーマスのところへと向かっていた。


 黒角馬くろつのうまの原生種の生育環境について追加で調査するということで、再び帝都からこちらに来ていたトーマスは、以前研究班が根城にしていた東塔の一部屋に仮住まいしている。


 数人の研究班の面々と一緒にやって来たトーマスは、オヅマと再会した途端、ニヤニヤ笑って宣告してきた。


「よぉ、オヅマ氏。君、今年はいよいよアカデミーを受けるらしいじゃないか。しかも付随ふずい論文ろんぶんを送るんだって? 坊ちゃん……アドリアン小公爵様から聞いてるよ。そんな君のために、僕が問題を出してやろう」

「は?」

「どうせ君のことだ。あれやこれや調べ回って論文なんて書くよりも、とっとと答えの出るような問題をこなすほうが楽だろう?」

「まぁ、それはそうだけど」

「だろう? じゃ、明日から毎日、僕の部屋に来るように」


 ということで、オヅマは毎日一度トーマスの部屋を訪ねて、トーマスの出す問題をひたすら解くという謎の授業を受ける羽目になっていた。

 もっともトーマスが研究に没頭している間は相手してもらえないので、実際は毎日というよりも不定期ではあったが。


 廊下を歩いていると、トーマスの部屋から何やら怒鳴っているような声が聞こえてきた。


「いい加減にしろ! 僕を研究対象にする気か!?」


 オヅマは眉を寄せた。

 トーマスと似た声だが、トーマスではない。馴染みのある声……となると、可能性のあるのは一人しかいない。

 オヅマがその人物の姿を思い浮かべるのとほぼ同時にトーマスの部屋の扉が開いて、その人が現れた。


「ビョルネ先生……どうしたんですか?」


 オリヴェル付きの医者であるロビン・ビョルネが、険しい顔でギロリと睨みつけてくる。だが、すぐにオヅマだと気付いたのか、あわてたように無理矢理な笑顔をつくった。


「あぁ、いや。オヅマ……公子。すみません。少々、興奮してしまいまして」

「いや。兄弟ゲンカ?」

「ハハ……まぁ、そんなものです」


 ロビン・ビョルネは引きつった笑みを浮かべて去ろうとしたが、オヅマの横を通り過ぎたところで扉が開き、トーマスがヒョッコリ顔を出す。


「あー、ロビーン。せめてさぁ、本だけでも読みなって」


 ロビンはしばし固まってから振り返った。

 その額には青筋が浮かび、表情も再び剣呑としたものになっている。


「人の気も知らないで……」


 怒りを押し込めた声は小さかったが、トーマスには聞こえたらしい。

 ふてぶてしいくらいにのんびりと、トーマスが言い返す。


「そんなことないよー。俺はお前のことは、お前以上に知ってるさー。小さい頃からずっと、何であれば母さんの腹の中から一緒なんだからさー」


 わざとなのか間延びした口調で言うトーマスに、ロビンは瞬時に怒りが沸騰したようだった。


「あぁ……だから嫌いなんだよ! そういうところが大っ嫌いなんだ!!」

「おや、まぁ……ひどい言われよう」


 激昂するロビンに対して、トーマスは悠然としていた。その余裕綽々たる態度も、ロビンには業腹ごうはらものだったのだろう。それでもオヅマのいる前だと思うのか、ブルブルと握りしめた拳を震わせて怒りを押し込める。


「そうやって人のことを決めつけてかかって……せっかくここに来て、平穏に過ごしていたっていうのに……お前が来たせいで、滅茶苦茶だ!」


 最終的には怒りを抑えられず、ロビンはトーマスに怒鳴りつけて去って行った。


「……怒られちった」


 トーマスはあれだけ弟から怒りをぶつけられても平然としたものだった。肩をすくめると、部屋に入っていく。

 オヅマも後に続いた。

 トーマスはロビンに渡そうとしていた本を、そこら中に積み上がっている本やら書類やらの上に適当に置いたが、すでに高く積み上がって崩れそうになっていたせいで、ドサドサと落ちた。オヅマは何気なく落ちた本を拾って、チラと表紙に目を落とした。


「『多面性理解の方策』……なに? また新しい研究?」

「うん? そうねぇ……」


 トーマスは思案しつつ、オヅマの持っていたその本を取り上げると、自分の頭の上に乗せた。そのまま器用に歩いて、いつも通り冷めた紅茶の入っている、大きなカップを手に取る。


「図形の本?」

「ハハッ、そうだな。ま、ある種、図形だよ。図形だと思って見たら、それもまた発見があるのかもね」


 トーマスは本を書棚に戻すと、「さて」と机に置いてあった一枚の紙をオヅマに渡した。


「今日の問題。例題読んで、解いてね。明日までに持って来て」

「うわ……証明かよ」

「苦手だよねぇ、オヅマ氏。いや、苦手というよりも面倒くさいんだよね、きっと。頭の中でどんどん進んでいくのに、手が追いつかないから、苛々しちゃうんでしょ?」

「そんなんじゃねぇけど。まぁ、面倒臭いのは面倒くさい」

「ま、お頑張んなさい。全部やりきったら、全部の解答をまとめて人物考査票と一緒に提出すればいいから」

「こんなんで、アドル達のやってる小論文の代わりになるのか?」

「なるんだよねぇ、これが」


 トーマスはニヤニヤ笑って、長い髪をまとめた三つ編みをいじる。

 オヅマはやや白けた目でトーマスを見て言った。


「そういう感じが嫌われるんじゃねぇの?」

「うん? ロビンのこと? 大丈夫だよ。あれはちょっとした癇癪かんしゃくみたいなもんだから。もっと困ってることは別なんで」

「……マッケネンさんのこと?」


 オヅマが尋ねたのは、ここに来てからというもの、トーマスはわかりやすくマッケネンに付きまとって、しかもちゃっかりヴァルナルにヘルミ山に同行する騎士として任命させたりしているからだ。

 前に、それこそさっきのロビンではないが、「職権乱用をするな!」とマッケネンにも怒鳴られていた場面に出くわしたことがある。


「あの人、温厚だけど……怒ったら本当に怖いんだぞ。あんまりフザけ過ぎないほうがいいと思うけど」

「おやまぁ、心配されちゃったよー。ま、大丈夫。ケンカするほど仲がいいって言うでしょー?」

「そういうのはね、当事者が言っちゃ駄目なんだよー。トーマス先生」

「ハハハ。それ、僕の真似ぇ? 上手だねー。誰かさんよりずっと……」

「はぁ? 誰かさんって……」


 オヅマが聞き返そうとすると、トーマスはぐいぐいとオヅマの背を押して、扉へと追いやった。


「ハイハーイ。今日のトーマス先生は終了致しましたー。明日のお越しをお待ちしておりまーす」


 いつもながら茶化したように言って、トーマスはバタンとドアを閉める。

 問答無用だ。

 こうして邪魔者を追い出したあと、それこそ何かに取り憑かれたように研究とやらに打ち込むのだろう。食事するのも忘れる勢いで。


「っとに……双子だってのに、こうも極端かね」


 オヅマはあきれたように言うと、トーマスからもらった問題の紙をピラピラ振りながら、学習室へと戻っていった。

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