第四百三話 試験準備(1)

 薄墨空うすずみそらの月を過ぎて、いよいよ本格的な冬となる遠陽とおびの月を迎えると、雪も深くなり、一年のうちでこの一ヶ月間だけは朝駆けもなくなる。レーゲンブルト騎士団は恒例の雪上野営に向かい、オヅマら近侍の面々は留守番を言い渡された。


 今回、一応表向きは小公爵アドリアンを始めとする近侍らへのいましめとして、レーゲンブルト騎士団での特訓が言い渡されてはいたが、実質上は帝都のアカデミーに向けての学習が主な目的であった。


 こちらに来てからみっちりと、文字通り朝から晩まで授業が行われ、いよいよアカデミー試験まで半年をきる頃になると、教師らは学習の総括を終えてレーゲンブルトを去った。

 彼らは彼らで、次の家庭教師先を見つけるための就職活動もせねばならないから……ともっともらしい理由を言ってはいたものの、実際にはこれ以上雪が深くなる前に、この帝国最北の地から逃れたかったというのが本音のところだろう。


 現在はおよそ半月に一度のペースで、課題を送って添削してもらい、同時にまたたっぷりの課題を受け取って解いていく……という指導方法がとられている。

 普通の貴族の若君であれば、それで十分な試験対策と言ってよかった。よほどに品行に問題があったり、学習意欲が極端になかったりしない限り、貴族子弟は合格することになっているから。

 だが、グレヴィリウス公爵家においては、先の晩餐でも公爵が言っていたように、ただ入学すればよい、とはならない。


「なーんで一般試験まで受けないといけないんだよぉ」


と、テリィがこぼすのは、緑清りょくせいの月に行われる貴族子弟向け試験だけでなく、平民にも門戸が開かれた一般入試までも受験せねばならないからだ。

 こうした一般入試に臨む者達のレベルは相当に高かった。

 というのも身上書しんじょうしょ自薦書じせんしょあわせて、教師からの推薦書、アカデミー認定の各種試験の成績表、あるいは自主研究論文等の書類を送って認可を受けないと、受験資格すら与えられなかったからだ。


 この一般入試を受験することなく、公爵の言っていた『一葉いちようをとる』ほどの成績を修めることは不可能だった。

 貴族子弟は優先的に入学できても、勉学における優劣については考慮されない。

 多くの場合、受験者の中で高等クラスと呼ばれる百位以内に入るのは、なべて一般入試における成績優秀者で、その上で『一葉をとる』のであれば、その中でも五十位以内の高等上位に入らねばならない。

 そのためアドリアンなどのように、貴族であっても実績を必要とする者は、一般入試を受けねばならないのだ。


「だったらもう一般試験だけ受ければいーじゃんかよー」


と、オヅマがげんなりして言うと、マティアスがいつもの鹿爪らしい顔ですげなく返す。


「馬鹿者。貴族子弟には専門の試験項目があるだろうが。キエル式礼法に、礼文辞れいぶんじ筆麗術ひつれいじゅつは必須だ」


 礼文辞は貴族的なマナーに則った挨拶、儀典における文章のことで、手紙を書く際の初頭の時候挨拶などに代表される。筆麗術というのは、文字通り美しい文字を書く技術のことだ。


 オヅマはケッと吐き捨てた。


「……礼儀作法はともかくとしたって、字なんか読めりゃいいじゃねぇか」

「やかましい! 先生も仰言おっしゃっておられただろうが! お前の書く字が下手くそなせいで下の者たちが読み間違えたら、領内の混乱を招くこともあるのだぞ! 古くは……」

「ハーイハイハイハーイ」


 大きい声で返事して、オヅマは早々に切り上げた。

 仕方なく筆写作業を続けるが、やっぱりまったくやる気がでない。同じ字を何回も何回も書いて、もうなんか字が虫か何かに見えてきそうだ。


「君らまで巻き込んですまないね」


 アドリアンは申し訳なさそうに言った。

 近侍らは必ず小公爵と同じ試験を受けねばならない。

 これはもうそういうものと、問答無用で決まっていた。アカデミー側が小公爵自身だけではなく、近侍らまで受け入れるにあたっての絶対条件と言ってよい。

 だから小公爵である自分がこだわらずに、貴族試験のみで良しとすれば、近侍たちの負担も減るのだ。

 そうとわかっていてもアドリアンには、一般入試を受けねばならない理由があった。

 それは公爵ちちからの命令という以上に、二番目の継嗣であるハヴェルもまた一般入試を受け、五十位には入らないまでも、そこそこの成績だったからだ。


「ハヴェル公子は何位だったんだ?」

「八十二位」

「うっわ、微妙。これでお前が七十位とかだったとしても、なんか威張れねぇな」

「当然、五十位以内だよ。それ以外、考えてない」


 アドリアンがめずらしく敵愾心てきがいしん剥き出しに言うので、オヅマは少しだけ驚いた。


「ははーぁ。なんかお前、小公爵様らしかったぜ、今」

「どういうことだよ、それ」


 アドリアンは苦笑しつつも、手を止めない。

 既に課題はやり終えて、今は試験とは別に、一般入試において提出する予定の小論文の資料に目を通しているところだった。


「もうなんか……お前のその資料とか見てるだけで吐きそう……」


 オヅマはうんざりしたように言ったが、アドリアンは五歳の頃から後継者教育を受けてきていたので、細かい文字で綴られた難しげな文章も慣れたものだった。


「そう? 僕のはわりと簡単だよ。幸いレーゲンブルトに来たお陰でテーマも決まったし。資料も豊富だし」


 アドリアンはこちらに来てから行政官などの案内で領地の視察もして、ドゥラッパ川の氾濫はんらんについて調べることにしたという。

 定期的に起こるこの氾濫による被害と、反面、耕作における利点などについて、残された記録の比較や実地検分なども行った上でまとめるらしい。

 行政官も小公爵がこうしたことに興味を持ってくれたことが嬉しいようで、毎日のように資料を持って来ては、長いこと話し合っていた。


 この小論文はアドリアンだけでなく、マティアスやエーリク、テリィも提出することになっており、それぞれにテーマを決めて取り組んでいたが、帝国史について書いていたマティアスとエーリクは、思うように進まず嘆息する日々だった。


「ジーモン先生に聞いてなかったっけ?」


とアドリアンが尋ねたのは、オリヴェル付きの家庭教師のジーモン教授は歴史学の大家たいかでもあり、元はアカデミーで教鞭をとっていたので、きっと力になってくれるだろうと思っていたからだ。

 アドリアンらを教えていた教師らが去ったあと、歴史とルティルム語、それに数学については、それぞれオリヴェル付きの家庭教師にも勉強をみてもらっていた。


 だが、問われたマティアスはムッと顔をしかめた。

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