第四百一話 アドリアンの誠実(1)

 ヴァルナルに呼ばれ執務室に入った途端に、アドリアンは覚えのある匂いに鼻をヒクヒクさせた。


「小公爵様、どうぞこちらへ」


 十日に一度ほどの間隔で、ヴァルナルはアドリアンを呼んで話をする。とくにこれといったことではない。領主館内での生活に不都合なところはないか、学業の進度、近侍らの様子などについて、雑談をする程度のことだ。

 ただ、注意深く聞いているのはわかっている。

 それはヴァルナルがアドリアンとの会話について、おそらく公爵へ報告しているからだ。

 それが公爵ちちからの要請であるのか、それとも腹心たるルーカスの進言なのかは知らないが、アドリアンとしては素直にあったことを述べるだけだ。


 だがその日、アドリアンはヴァルナルの執務机にあった飲みかけのカップの中に、帝都でよく見ていた同じ色の液体を見つけて、思わず尋ねてしまった。


「ヴァルナル、それは……珈琲だよね?」

「おや、ご存知でしたか?」

「あぁ……何度か飲んだことがある」

「小公爵様が珈琲を? 苦くはないのですか?」

「いや、だって、ヴァルナルもミルクを入れてるじゃないか」

「これはミーナが私のために、飲みやすいようにと考えてくれたものでして」

「……え?」


 アドリアンはまたドクンと心臓がはねるのがわかった。だが幼い頃からのしつけによって、その動揺が顔に表れることはない。


「お恥ずかしいことながら、私にはあの飲み物を黒いまま飲むというのが、なかなかに難しく……」


 ヴァルナルはいい大人が苦い程度のことで敬遠するのが恥ずかしいと思うのか、ポリポリと頭を掻きながら、小さい声で言った。


「飲むのに難渋しておりましたら、ミーナがこのようにミルクを入れることを勧めてくれましてね」

「ミーナ……男爵夫人が……?」

「小公爵様もミルクを入れてお飲みに?」

「えっ?」

「いえ、普通は皆あのまま飲みますから……よくこれがミルクを入れた珈琲だとおわかりになられましたね」


 ヴァルナルは話しながらカップを持つと、中に残った液体を混ぜるように軽く揺らす。

 アドリアンはなぜか妙に焦って、言い訳するかのように早口で言った。


「あ、あぁ。その、僕も子供だからと言って、ミルクと蜂蜜を入れてもらったんだ。……皇宮こうぐうで」

「ほぉ! 確かに蜂蜜を入れれば甘くて、子供であっても飲めそうですな。いや、気の利いたもてなしだ。さすがは皇太子殿下の園遊会であれば、細かきことまでも徹底していることです」


 珈琲は昨年頃から帝都では庶民でも飲むようになってきてはいたが、まさか小公爵が屋台の珈琲を飲むはずはないと思っているのだろう。まして子供相手ということも考えれば、皇太子殿下主催のあの園遊会で出されたと思ったのかもしれない。


「あ……うん」


 アドリアンはだが、否定しなかった。

 本当は園遊会で出されたものではない。『七色蜥蜴とかげの巣』で、ランヴァルトが苦くて吐きそうになったアドリアンのために、わざわざ給仕に命じて持ってこさせたのだ。


 再び生じた大公とミーナの接点に、アドリアンは目を背けた。

 何かひどく腹の中が重苦しい……。


 そこからのヴァルナルとの会話は、どこか上の空だった。

 アドリアンはともかく早くこの場から立ち去りたくて、ややいつもよりも素っ気ない態度になってしまった。


「……大丈夫ですか? あまり顔色がすぐれぬご様子ですが」

「あぁ、そうだね。昨日、少し本を読みふけっていたせいかな。寝不足なのかもしれない。すまないけど、もう部屋に戻ってもいいかな?」


 普段、多少の熱でも隠すアドリアンが、珍しく自分の不調を訴えるので、ヴァルナルはあわてて切り上げた。


 騎士に部屋まで送って行かせるというヴァルナルの申し出を、アドリアンは笑って固辞すると、逃げるようにその場から立ち去った。部屋に戻るなり、寝椅子カウチに倒れるように凭れかかると、そのままずるずると横になって突っ伏する。


「どうなさいました?」


 サビエルが驚いたように声をかけてきた。

 常日頃から居住まいについてきちんとしているアドリアンが、戻ってくるなり寝転がるなど相当なことだった。


「医者を呼びに……」


 扉へと向かおうとするサビエルを、アドリアンは鋭く呼び止めた。


「いい! 体調が悪いんじゃない!」


 苛立ったその声音に、サビエルはますます目を丸くしたが、そこは年長者として、少年であるアドリアンにそっと寄り添って声をかける。


「いかがなさいましたか? よろしければお話し下さい。わたくしでございますから」


 従僕があるじの相談に乗ることはない。彼らは基本的にその場にいないものとして、主の目にも、心にものないように行動することが求められた。主の悩みを聞いても、それはとしてであり、は口外しない。


 アドリアンは自分がサビエルに八つ当たりしていると気付くと、途端にバツが悪くなった。それでも、この従僕が文句を言ったり、あきれたように溜息つくことはない。以前までいた者たちのように。


 アドリアンはのろのろと起き上がると、ぼんやりと言った。


「……言ったほうがいいだろうか? 大公殿下と……」

「それは……」


 サビエルは眉を寄せた。


 大公殿下とアドリアンとの交流については、秘密裏に行うことが双方の間で合意している。

 その場にはサビエルとエーリクも控えていた。

 公爵家と大公家に残る過去の因縁によって、おそらく現公爵始め、家令やサビエルの父であるルーカスも、跡継ぎたるアドリアンが大公家当主と親しくつき合うことは望まないだろう……と。

 ゆえにこそ、いまだにアドリアンがランヴァルトに書き送る手紙も、宛先は『七色蜥蜴の巣』の主人・ゾルターンになっているのだ。


 だがサビエルは勘違いしていた。

 このとき、アドリアンが言わねばならない……と考えていたのは、公爵家の者に見つからぬように、ランヴァルトと会っていたことではない。

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