第三百九十七話 ミーナへの要請

 オヅマたちのレーゲンブルト行きに関しては急遽決まったことであったが、ティアの処遇については既に晩餐前に決まっていたらしい。

 オヅマがルーカスのを受けている頃、ミーナはルンビックに呼ばれて思いもよらぬお願いをされていた。


わたくしが……公女様のお世話を?」


 思わず聞き返して、辺りを見回す。

 もしかすると他に人がいるのかと考えたのだが、家令の執務室に招かれたのはミーナ一人であった。

 ヴァルナルは既に事情を聞いていたので、レーゲンブルトのネストリに宛てて、準備を進めるよう手紙をしたためているところであった。

 ルンビックはおごそかに頷いた。


「左様。既に公爵閣下におかれては、公女がレーゲンブルトにて逗留されし折から、そうした心積もりであられたようであるが、一応、私にも確認するよう申しつけられましてな。それで過日の晩餐において、姉にも同席してもらったわけで」


 公爵が風邪で寝込んでいる間に、ミーナとヴァルナルはルンビックに招かれて共に食事したことがあったのだが、確かにその席にはルンビックの姉なる老婦人も同席していた。いかにも厳粛なルンビックと違い、物腰柔らかでやさしげな印象の、おっとりとした品のある女性であった。

 まさかそこで品定めされていたとは……。


「勝手に人柄を観るなど、礼に外れた行為であったことは認めて謝罪致す。だが公女様に、このグレヴィリウスを名乗るに値する、然るべき立ち居振る舞いを教えるともなれば、素養、人品ともに優れたる者を選ばねばなりませぬ。実のところ、公女様がこちらに戻られる前にも、複数の婦人方に声をかけて、それとなく審議しておったのです。姉と共に」


 ミーナは驚きつつも、少し安堵していた。

 あのヴァルナルですらも、当初、ティアに対して少しばかり警戒……あるいはかすかな拒否感を滲ませていた。それはティアの母親に対する悪印象のせいで、娘のティアにまで似た感情を持ってしまったのだろうが、普段の公明正大なヴァルナルの性格からすると、やや考えだった。ヴァルナルですらもそうであるならば、今までティアを娘と認めず会うこともしなかった公爵が、果たして公女としてしっかり面倒を見る気があるのか……と、ミーナは少し気を揉んでいたのだ。


 しかしこうして家令に指示して、きちんと公女の教育について考えていてくれたということは、いずれ世間的にも、正式に娘として紹介するつもりであるのだろう。色々と諸問題はあるだろうが、親子が親子として自他共に認めるのであれば、少しずつであれ、わだかまりも解消していく道は残されている……はずだ。


「家令様のご見識に異論を申すつもりはございませぬが、わたくしなどはただ、自らの行いにじることなきよう務めるのみにございます。他者に……まして、グレヴィリウスの公女様にはんを垂れるような礼儀を身につけているとも思えませぬ」


 ルンビックはこうした受け答えですらも滲み出る気品に目を細めた。


「なにを仰言おっしゃるか。かように話していても、爺もまだ行いに愧じることがあると気付かされるほどであるというのに」

「まぁ……そのような」


 ミーナはルンビックの少しだけ茶目っ気を交えた冗談にクスッと笑った。

 ルンビックも微笑み返してから、コホンとわざとらしく咳払いして話を戻す。


「ま、私の識見は措くとしても、姉には多少なりと分別がございましてな。あれは昔、皇宮の一級女官であったのです」

「まぁ……」


 ミーナは心底驚くと同時に、懐かしい憧れが湧き起こった。


「そんなに素晴らしい方がいらっしゃっていたというのに……わたくし、粗相をしておりませんでしたでしょうか? お恥ずかしい限りですわ」

「いやいや。全く……姉にしては珍しく、小言らしいことも言わず……」


 審査終了後の評議において、ルンビックが見つけてきた婦人らに対しては、それこそとどまることを知らぬほどに、挙措・会話の一つ一つに文句をつけまくっていた姉が、ミーナについては一言。


「まぁ、よろしいんじゃございませんか」


 礼法については自分よりも数倍厳しく、そもそも専門家といってもいい姉が、何も言わぬということは、相当な高評価といってよい。その分、同席していたヴァルナルについては、いくつか気になったことはあったようだが。


「さすがは皇宮こうぐうの慎ましき菊花(*皇宮の一級女官の別称)と呼ばれる方ですね。礼がありながら、相手を威圧することのない、なごやかなる立ち居振る舞いでいらっしゃいました。わたくしなど及びもつきませぬ」

「いやいや……」


 ルンビックはやや興奮したように姉を褒めそやすミーナに少しばかり戸惑った。

 こうまで姉に心酔するのであれば、あるいは姉の言っていたことは当たっているのかもしれない。

 クランツ夫妻との会食のあと、ミーナについて協議していたときに、姉が言ったのだ。


「クランツ夫人は、何処いずこかで一級女官になるための教育をされていたのだと思いますよ。よほどによい教師がついたか、あるいは皇家こうけに連なる人から直接教えを受けていたのやもしれませぬ」


 姉曰く、皇宮の一級女官は貴族古語を扱うが、言語知識だけでなく独特の発音も行う。皇宮関係者のみに伝わるもので、聞く者が聞けばすぐにわかるのだという。単純に古語を研究する学者とは違うのだ。


「失礼だが、男爵夫人はどこでそのような修身を学ばれたのであろうか?」


 ルンビックは単純な興味から問いかけたのだが、それまで少女のように嬉しがっていたミーナが、急に顔を強張らせるのを見て、すぐさま撤回した。


「あ、いや。今更、詮無きことを聞いた。お忘れいただきたい」


 ミーナのその辺りの事情についての詮索は不要、とルーカスに言われていたことを思い出す。この場合の『詮索不要』はつまり『詮索するな』と同義であった。


「ともかくも姉からの推薦もあって、公爵閣下は公女の世話をあなたに任せたいと仰言おっしゃっておられる」

「そのような……わたくしなどよりも、家令様の姉君のほうが相応ふさわしゅうございます」

「いや。姉は足も悪く、十分に行き届いた指導ができぬは恥になると言うて、そうした礼儀作法の依頼はすべて断っておりましてな。翻意させることは難しい。まこと……老人というは頑固でな」


 そう言ってルンビックは嘆息する。

 自分はその頑固な老人からは外れているとでも言いたげに。


 いずれにせよミーナは固辞した。

 自分にはレーゲンブルトに残してきた子供たちがいる。マリーのことも、ましてオリヴェルは元気になってきたとはいえ、まだ時折体調を悪くして、薬の服用も続いている。ミーナがアールリンデンで、実質的なティアの世話人となってしまうと、子供達二人に寂しい思いをさせることになる。それだけは避けたかった。

 しかし家令はそのことについては、問題ないと笑った。


「もちろん公爵閣下は男爵家の事情についても、十分に了知しておられる。サラ=クリスティア様にはレーゲンブルトに行っていただく。そこで夫人より、貴族令嬢としての心得全般、礼儀作法の指導を受けてもらう」


 ミーナはまた驚いた。まさか公爵がそんな気の利いた取り計らいをして下さるとは、思いもよらなかった。

 ルンビックはミーナ側だけの事情でないことも素直に話してくれた。


「正直、サラ=クリスティア様のお立場は微妙なものがある。この公爵邸にいては、要らざる風聞を持ち込んで波風立てる者もおろう。まだ母も亡くして間もないことでもある。今は落ち着いて過ごせる環境が必要で、その上でいずれ公女としての披露目のときまでに、十分な礼儀を身につけてもらいたい。その役割を果たすにおいて、男爵夫人のご助力を願いたいのだ」

「それは……」


 ここまで周到に考えてくれていることに、どうして異議を唱えることができるだろう。

 結局、ミーナはサラ=クリスティアの世話人の役目を引き受けた。ここまで自分を認めてもらったのであれば、これ以上の固辞は失礼であろう。


「かしこまりました。不肖の身ではございますが、公女様の美しき成長のたすけとなれるように、誠心誠意、尽くして参ります」



 こうして五日後には小公爵様御一行と、ティア、もちろんカーリンも一緒に、レーゲンブルトに向かうことになった。



***



 で、現在。


 オヅマはレーゲンブルトにいる。

 目の前にはティボの呼びかけに集まった馬の群れ。

 黒角馬くろつのうまとの交配が進んで、ほとんどはこちらに来て生まれた交雑種の二世だ。


「オヅマあぁーッ!!」


 遠くから自分の名前を呼ぶ声に、オヅマは眉を寄せた。


「オヅマあぁーッ! 筆写の宿題は昨日までにやっておくように言ったろうがーッ」


 マティアスの怒鳴り声が、今日も今日とて、薄曇りの空に響く。


「親分。また呼びに来てるよ」

「……行きたくない」

「大変だぁねぇ……」

「そう。大変なんだよ、俺。せっかくこっち戻ってきたってのに……朝駆けの後は、座ってずーっと勉強なんだぜ。体動かしてたらまだしもさ、そんなもん、暖かい部屋で軽食まで用意されたら、もう寝るしかないじゃんか」


 ティボは一緒になって渋い顔をしてから、フフッと笑って言った。


「頑張って! 親分!!」

「…………へーい」


 オヅマは仕方なく返事すると、怒鳴るマティアスへ向かって歩き出した。

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