第三百九十四話 主なき部屋

 公爵 ―― エリアスは冷えた部屋の中に一人佇んでいた。

 家具にかけられた布の上に、埃がうっすら積もっている。

 既にその部屋の主がいなくなってから十年以上が過ぎ、時折、エリアスが訪れる以外では、長く閉じられたままの、開かずの間となっていた。


 ギィと扉が開いて、堆積した埃が揺れる。

 エリアスは振り向かなかったが、そこにいるのが誰なのかはわかった。

 扉が閉まり、鈍いランプの光の中で立っていたのは、ルーカスとヴァルナルだった。


「……謝罪に参りました」


 ヴァルナルがひざまずいて頭を下げる。

 エリアスは鬱陶しげに振り返り、ボソリと言った。


「無用だ」


 しかしヴァルナルは首を振った。


「私が謝罪に参ったのは、オヅマの……我が息子の無礼ではございません。これまで、長きにわたって、公爵様に不忠であったことを詫びに来たのです」

「……不忠?」


 エリアスが物憂げに眉をひそめる。

 ヴァルナルは深く頭を下げると、静かに申し述べた。


「これまでの間、公爵閣下が間違った行いをしておられたのに、私は諫めることを致しませんでした。主君の間違いを、勇気を持ってただすが家臣の務めであるのに、私はその務めを果たさずにおりました」


 真摯しんしなヴァルナルの言葉に、エリアスはしかし頬を歪めた。


「皮肉か? ヴァルナル」

「……閣下」

「不明なあるじに愛想も尽き果てたか……」

「……公爵閣下、どうか ―― 」

「いよいよ皇帝にでも乗り換えるか? それともあの息子を連れて大公の元にでも下るか? いっそ妻も差し出して……」

「エリアス様!」


 ヴァルナルは色をして立ち上がったが、そのときルーカスがエリアスの頬を容赦なく打った。


「いい加減になさい、閣下」


 冷たく言って、ルーカスは項垂れて立ち尽くす公爵を厳しく見据えた。

 しばしの沈黙があって、不意にエリアスが笑い出す。


「ハハ……ハ……とうとう腹心にまで手をあげられるとは……落ちぶれたものよ。もはや閣下などと呼ばれるも、おかしなことよな」


 投げやりに言い放つエリアスに、ルーカスはどこまでも冷静であった。


じる必要はございません。私は『まことの騎士』です。グレヴィリウスの『絶対なる忠誠者』にして、閣下に『直言することを許されし』唯一の人間です。そう閣下が決められました」

「……リーディエがそうしろと言ったからだ」

「えぇ。公爵夫人はまこと、慧眼にあらせられました。今、このときですらも、その思慮深さには頭の下がる思いです」


 そう言ってルーカスは、部屋の奥にある椅子に向かって恭しく頭を下げた。生前、その椅子に座りリーディエが執務を行っていた姿を懐かしく思い出す。


「長く不明であったのは、公爵閣下ばかりではございません。オヅマの申す通り、我らは甘えておったのです。小公爵様の寛大なる度量に。傷ついた子の痛みに無頓着であり続け、情けなくも、今日、あのようなことを言わせるに至ってしまいました」

「今更、小公爵に許しを乞えと言うのか? 親とも認められておらぬ私が……何を言えるというのだ?」


 エリアスは問いながら、視線をさまよわせた。その場にいるはずの、いたはずの誰かに向かって、答えを求めるかのように。

 しかしルーカスは迷い、戸惑うエリアスをきっぱりと撥ねつける。


「小公爵様のことよりも先に、閣下には為すべきことがございます」

「なに……?」


 ルーカスはスタスタと先程見ていた椅子のところまでいくと、腰の剣を抜いた。


「ルーカス!」


 ヴァルナルが叫び、呆然と固まるエリアスの前で、椅子が無残にひしゃげて二つに割れる。ルーカスは何度も剣を振り上げて、椅子としての原型をとどめぬ姿になるまで、叩き斬った。


「我らは過去のリーディエ様を思うあまり、今、かの方が残してくれたものを見失っていたようです」


 ルーカスはやや息を乱しながらつぶやいた。

 ゆっくりと戻ってくると、虚ろな瞳のエリアスの前に立って告げる。


「リーディエ様は、もうどこにもおられません…………。閣下、彼女はもう死にました。どれだけ追い求めようと、形見として残された小公爵様を遠ざけようと……彼女がもどって来ることはございません!」


 叩きつけられたルーカスの言葉に、エリアスはビクリと震え、呆然と問いかけた。


「お前は……平気なのか?」

「…………」


 ルーカスは答えず、ヴァルナルに顔を向けた。


「クランツ男爵。北の塔に向かい、小公爵様にお戻りあるよう伝えてもらえるか?」

「……いいのか?」


 ヴァルナルはチラとエリアスを見たが、悄然と公爵は項垂れ、聞こえているのかも判然としない。


「何らのとがもなく……という訳にはいかずとも、あのまま過ごさせるわけにもいかんだろう。公女様もご心労で寝込まれてしまったというのに……」

「公女様にはミーナがついているから、そう心配せずともよい」


 穏やかに笑って、さりげなく妻自慢するヴァルナルに、ルーカスは苦笑した。


「あぁ……確かにな。男爵夫人が今ここにおられるのは誠に心強いことだ。ひとまず北の塔にいる坊やたちには、自室にてそれぞれ謹慎するよう申し伝えてくれ」

「わかった」


 ヴァルナルは頷くと、エリアスに一礼して部屋を出て行った。


 扉が閉まると同時に、エリアスはその場に力なく座り込んだ。

 どんよりとしたランプの明かりの中、埃が浮遊して積み重なった時間をかき乱す。


 ルーカスは暗い顔でエリアスを見下ろしていたが、やがてフゥとかすかな吐息を漏らすと、ランプを持って静かに扉へと向かった。


 ドアノブに手をかけたルーカスに、エリアスが弱々しく問うた。


「ルーカス。私は……お前からリーディエを奪ったのか?」


 ルーカスはしばし固まった。

 喉奥に詰まった感情がぐるぐると渦巻く。

 苦く笑って振り返ると、いつものようにおどけた口調で言った。


「……まさか。最初から私など、相手にもされておられませんでしたよ」


 そのまま扉が閉じられると、部屋は再び闇となった。


 一人きりになったエリアスを慰める奇跡は起きない。


 涙に濡れた視界の先に、粉々になった椅子の残骸があった。

 もはやそこに座る人は、とうの昔に亡い。

 わかっていた……。

 わかっていたのだ……。


 かすかな嗚咽が主のいない部屋に沈んでいった。

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