第三百五十九話 帝都の出会い(3)
その名称はかろうじて、アドリアンの口の中に封じられた。あわてて両手で口を塞いで、道行く人々に聞かれることのないようにしたからだ。
大公ランヴァルトは、心底仰天しているアドリアンに、ニコリと微笑んだ。
「久しいな、小公爵。元気そうで何より」
「……どうして」
アドリアンは思ってもみなかった邂逅に混乱していた。
どうしてこんなところに大公殿下がいるのだろうか? 警護の人も連れずに……?
「今は忍びできているのだ」
ランヴァルトはアドリアンの心を見透かしたかのように言った。
確かに言われてみれば、ランヴァルトの姿は質素なシャツとズボンに、薄っぺらなフード付きの上着を羽織っただけの、一般的な平民の格好だった。
「まさか、お一人なのですか?」
ざっと見回してもそれらしき警護の騎士がいないので、アドリアンが心配になって問うと、ランヴァルトは不思議そうに首をひねった。
「私に警護の者が必要か?」
「それは……」
「我が臣下は優秀であるが、いまだ私に
あまりにも堂々とした言いように、アドリアンは言葉もなかった。
確かにこの国において、剣や体術などの勝負でランヴァルトに勝てる人間などそうそういるわけもない。強烈な自負に圧倒されながらも、それは嫌味に聞こえなかった。むしろ穏やかで深みのある声同様に安堵感を与え、同時に尊敬に近い好もしさを感じた。
ランヴァルトは再びフードを目深にかぶりながら言った。
「それにしても……小公爵は誠に臣下思いであられることだ」
ランヴァルトは先程のアドリアンの言葉を聞いていたのだろう。フードの奥の紫紺の瞳が、やさしくアドリアンを見つめている。
しかし今のアドリアンは素直に喜べなかった。
ふと脳裏にさびしそうな顔をして、レーゲンブルトに旅立ったキャレ……カーリンが浮かぶ。
暗い顔になってうつむくと、ランヴァルトがポンと肩を叩いた。
「立ち話も嫌いではないが、場所を変えたほうがよかろう。よろしければ、ご一緒していただけるかな?」
「あ……はい」
アドリアンはほとんど反射的に返事していた。断るという選択肢すら思い浮かばなかった。エーリクもサビエルもただただ驚いてしまい、
ランヴァルトは大通りの道から、細く伸びた路地の奥へと入って行くと、こぢんまりとした店の前で立ち止まった。
だがランヴァルトは躊躇することもなく、その店の扉を開けた。中は薄暗く、少しだけひんやりとしていた。
「もうそろそろ涼雪石は必要ないだろう」
入るなり、ランヴァルトが言うと、受付のカウンターに腰掛けていた店の主人とおぼしき男がのっそりと立ち上がって、トボけた顔で首をひねる。
「左様ですかな? 私などは、まだまだ暑いような気もするのですが」
と言うのは、彼のでっぷりと太った体を見れば想像ができた。ぴっちりしたシャツの
ランヴァルトはフンと笑って、店主の肉付きのいい胸を指でグイと押した。
「それはお前が年がら年中、一枚多く毛布を巻いているせいだ」
「おぉ、ひどい言われよう」
「嘆くなら、少しは動け。日がな一日、ここで本ばかり読んでは砂糖菓子ばかり食っておるから、そうも太るのだ」
「ヤレ、ハァ……耳の痛きことを言われますなぁ……」
アドリアンは緊張していたのだが、思わず始まった店主とランヴァルトの軽妙なやり取りに、思わずぷっと吹いてしまった。店主がピクリと顔を上げて、
「ゾルターン、こちらはグレヴィリウス家のアドリアン公子だ。アドリアン、こちらはこの茶寮の主人であるゾルターンだ」
「初めまして、公子様」
ゾルターンはニコリと商売人らしい笑みを浮かべてお辞儀する。見たときから丸顔で細い目をしたその姿は、時折公爵邸の庭の隅で日向ぼっこをしている丸猫を思い起こさせたが、笑うとますます似ていた。
「初めまして、ゾルターン」
アドリアンはつられるようにニコリと笑って、手を差し出した。
ゾルターンはまさか貴族のお坊ちゃんから握手を求められるとは思わず、びっくりしたように手を泳がせたあとに、あわてて服で手汗を拭ってから、恭しく握手した。
「恐縮にございます、公子様」
「挨拶が済んだのなら、我らは二階に行く
言ってから、ランヴァルトは勝手知ったる様子で、受付横の階段を上って行く。心配そうなサビエルとエーリクに「大丈夫だよ」と声をかけてから、アドリアンはランヴァルトの後に続いた。
二階は壁際に書棚が並び、大きな窓近くにゆったりとしたソファが置かれてあった。窓の向こうには、紅葉と黄葉が美しく入り混じった楓が、秋の風に葉を揺らしている。その色とりどりの葉の間から青い空と、運河を行き交う
ぼんやり見ているアドリアンに、ランヴァルトが朗らかに呼びかけた。
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