第三百五話 キャレの受難

「どういうつもりだ!? 貴様ッ!」


 頭の上から降ってくる怒号どごうに、キャレはただただ青くなってひれ伏すだけだった。何か弁明を…とは思うものの、声が喉でつまって出てこない。


「一体、どこの家の者だ? 名を名乗れ!!」


 問われてもキャレは言えなかった。もしここで名乗れば、自分がグレヴィリウス小公爵の近侍であることを説明せねばならない。そうなれば、きっとアドリアンにも迷惑がかかる……。

 キャレは目をつむって、どうかこのまま穏便に済むことを願った。怒鳴るだけ怒鳴って、なんであれば蹴られてもいいから、そのままあきれて帰ってくれないだろうか…?

 キャレがひたすら頭を下げている間に、いつの間にかシモン公子こうしの近侍たちがやって来たようだった。


「いきなり姿を消されたので、あわてましたよ」

「どうです、首尾は? ダーゼ公女とにはなれましたか?」


 聞き覚えのある名前に、キャレは素早く頭の中で記憶を繰った。そうしてすぐに、アドリアンに来ていた招待状の一件を思い出す。



 ―――― ダーゼ公爵閣下の息女は、確か来年で十一歳ですよ。小公爵さまよりも、一つ年下……



 ニヤニヤ笑いながら言っていたテリィの顔が浮かぶ。

 そう言えばテリィは…と頭を下げたまま辺りを見回したが、今日に合わせて新調したというゴテゴテした飾りの靴は見当たらなかった。どうやらいち早く逃げたらしい。本当に……妙なところですばしこい。

 だがテリィのことなど、すぐに頭から消え去った。今、キャレの頭を占めているのは、テリィでもなければ、目の前の大公子でもない。幻のように現れて去った、あの美しい少女のことだった。

 キャレは泣きそうになった。やっぱり高位貴族ともなれば、あんな人並み外れた容姿のお姫様もいたものだ。もしアドリアンがあの公女様を見たら、一瞬で恋に落ちるに違いない。きっと目の前の公子も、あの公女様の気を引きたくて、悪戯しようとしたのだ。近侍たちの言葉からも、それは感じ取れる。

 しかし公子シモンは、近侍たちの言葉にムッとなって言い返した。


「フン! 誰が公爵の令嬢ごときと知り合いたいものか! あんな高慢で無礼な女。大公家に対しての礼儀をわきまえておらぬから、ちょっとばかり懲らしめようとしたら……もっと無礼な奴がいたんだ、コイツが!」


 シモンはそう言って、キャレを指差す。シモンの近侍たちの視線がキャレに刺さった。


「なんだコイツ……」

「貧相なチビだな」

「見ろ、あの頭。揃え髪(*おかっぱのこと)なんぞして、いまどき時代遅れな……」

「いや。まだ五歳かそこらなのかもしれんぞ」


 ヒソヒソと、キャレにだけ聞こえるように囁く誹謗ひぼうが、上から降ってくる。

 あからさまな悪意に、キャレが首をすぼめて縮こまると、頭にべチャリと何かをなすりつけられた。さっきの白鳥の飴細工であることは、すぐにわかった。おそらくあの麗しい姫君相手に、成功できなかった腹いせだろう。

 キャレはみっともない自分の姿を想像し、恥ずかしさと情けなさに、ますます小さく固まった。そのみじめな様子を見て、シモンを始めとする近侍たちがケラケラと嘲笑あざわらう。

 急に近侍の一人が、グイとキャレの襟首を掴んで顔を上げさせた。

 その姿を見て、キャレの背筋がゾクリと冷える。

 黒い肌に、きつく編み込んだ暗い金髪ダークブロンド。橙色の瞳。一目見てわかる。皇家こうけにおける最強の近衛隊とも称される、山岳民族シューホーヤ。大公家公子ともなれば、彼らのような優れた身体能力を持つ者を近侍とできるのだろうか。


「オイ、お前。その髪の色からすれば、東の……シャンゼ辺りの出だな?」


 そのシューホーヤの近侍に問いかけられ、キャレは驚いた。まさか自分の髪の色から、出自を言い当てられると思っていなかったのだ。


「シャンゼ? どこの家門だ?」


 シューホーヤの少年の後ろで、シモンが他の近侍に問いかける。

 キャレはギュッと目をつむった。頼むから、思い出さないでほしい…!


「東部はセイデン侯爵とバルディアガ伯爵、メーアー伯爵……」


 キャレは内心ホッとした。

 シャンゼ地方の中でも、オルグレン家の領地は、グレヴィリウス家からは飛び地となっているので、なかなか思い浮かばないらしい。

 しかし目の前のシューホーヤの近侍は、キャレの顔色をじっと窺っていて、背後の近侍たちからはとうとう出なかったその名を告げた。


「飛び地がありますよ。確か、ファルミナ。グレヴィリウス公爵家だったか……?」

「グレヴィリウス!」


 途端にシモンが激昂する。

 キャレの顔色が変わったのを見て、シューホーヤの出身と思われる近侍は不敵に笑い、グイとより強く襟首を掴み上げる。


「どうやら正解のようです。公子様」

「おのれ! またしてもかッ。いちいち鬱陶しい奴め!!」


 シモンは憤然と言ってから、無遠慮にキャレを眺め回し、フフンと笑った。


「なんだ、お前。もしかして、あの忌々しいグレヴィリウス小公爵の近侍か? ……あーあ、そのようだな。これは」


 目敏く襟に留めたグレヴィリウス家の紋章のブローチを見つけられて、キャレは観念した。もうこれで……隠しようもない。

 苦痛に顔を歪め、泣きそうなキャレを見て、シモンはひどくたのしそうに笑った。


「ふぅん。あいつ、こういうのが好みなのか。澄ました顔して、近侍を選ぶときには、趣味が出るな」


 さわさわと頬を撫でられて、キャレはゾッとした。鼻先が触れるくらい近くまで顔を寄せられ、思わず叫ぶ。


「い、嫌だッ!!」

「うわっ! 唾が……コイツっ」


 シモンは飛び退すさると、キャレのつばきのかかった頬を手で拭い、怒鳴りつけた。


「ファル! こいつを痛めつけろ!!」

御意ぎょい


『ファル』と呼ばれたシューホーヤの近侍は、キャレを地面に叩きつけるように投げると、うつ伏せになった背をドスリと踏みつけた。

 シモンはしゃがみこんでキャレの顎をつまみ上げると、この状況にすっかり陶酔したかのように断罪した。


「今回については、完全にお前の失態だぞ。小公爵に告げ口したくばするがいい。こちらも正式に抗議するまでだ」

「……お、お許しください」

「ふん。あいつと違って素直じゃないか……」


 シモンは笑いながら、ベシリとキャレの頬を打った。


「まったく、主従ともども僕を苛立たせる……」


 返す手で反対の頬も打つと、シモンの指輪がキャレの頬を引っ掻いて血が垂れた。

 シモンは満足げに立ち上がると、それまで何もせずに控えていた三人の近侍たちをチラと見た。合図を受けて、近侍たちはそれぞれにキャレの背中やら脇腹やらを容赦なく蹴り始める。

 キャレは耐えた。

 こんなことはどうってことない。慣れている。公爵家に来てからは平穏だったが、元々、自分はこうして蔑まれる存在だった。だから慣れている……平気だ……。

 キャレは丸く身を固めながら、痛みをこらえるために、必死で言い聞かせた。


「やめろ!」


 朦朧もうろうとなりかけたときに、鋭い声が響いた。

 すぐにそれが誰かわかった。

 涙でぼやけた視界に、アドリアンが駆け寄ってくるのが見えた。

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