第二百九十四話 『夢』の話(1)

「あ…」


 オヅマは森の中に切り拓かれた街道を歩いている途中で足を止めた。

 巨大なアカスギの木の脇に、旅の守護神であるイファルエンケの小さな像がある。いや、像らしきものと言ったほうがいいのかもしれない。長年の風雨にさらされて、もはや顔も判別できなくなったそれは、知らない人間が見れば、ただのデコボコした岩にしか見えないだろう。


 アールリンデンまであと一日といった旅程。

 そろそろ日暮れに近い時間帯。


 急に足が止まったオヅマに、グフゥとカイルが不思議そうにいななく。

 先を歩いていたエラルドジェイが振り返った。


「どうした?」


 尋ねられて、オヅマはどう言うべきなのか逡巡した。

 おそらく明日にはアールリンデンに到着する。今日がエラルドジェイと過ごす最後の晩になるだろう…。


 昨夜、泊まった宿でエラルドジェイは言った…… ―――――



「ま、とりあえずアールリンデンに着いたら、俺の仕事も終了だな」

「仕事?」

「婆様に頼まれてたんだよ。お前をアールリンデンまで送ってやってほしい、って。婆様も、それはお前の新しい父親? に、頼まれたとか何かで、ブーブー文句言ってたけど」


 オヅマはすぐにわかった。

 ヴァルナルがオヅマに持っていかせた親書。そこにおそらく書いていたのだろう。考えてみれば、行くときにだってわざわざマッケネンを護衛につけてきたヴァルナルが、帰りの心配をしないはずがない。


「まぁ、俺もアールリンデンに用があったから。ついでだし」

「ラオのとこ?」


 オヅマは反射的に尋ねて、ハッとした。

 ラオとは、アールリンデンにホボポ雑貨店という店を構える、少々気難しいが面白い店主だ。

 だが当然、オヅマは

 また、エラルドジェイが怪訝に首をかしげる。


「俺…お前に言ったっけ? ラオのこと」

「なんか…チラッと…聞いた気がして……」


 オヅマは適当にいなしたが、顔はやや強張っていた。

 蝋燭も消したあとで、二つあるベッドにそれぞれ寝ていたから、気付かれることはなかったが、きっとエラルドジェイは腑に落ちなかっただろう。ルミアのところにいる間に、ラオの話など一切出てくることはなかったはずなのだから。

 それきり何も聞かず、エラルドジェイは眠りについたようだった。オヅマはホッとしながらも、どこか寂しい気持ちで眠った…… ―――――



 いつまでも立ち尽くしているオヅマに近づいてくると、エラルドジェイもまた像に気付いたようだった。


「なに、お前。これが何なのか、わかってんの?」

「ん……」


 オヅマははっきりと答えられなかった。

 その像は、実はその先に裏街道へのルートがあることを示すものだった。

 帝都へと向かう正規の街道に沿う裏街道は、まったく別のルートが続いているわけではなく、要所に設けられた関所を避けるようにして出来上がったものだ。ゆえに、ある場所から裏街道へと抜けて、関所をやり過ごし、再び正規の街道へと戻るようになっている。

 裏街道への出入口を示すものは、こうしたイファルエンケの像であったり、旅人たちへの雨しのぎにと作られた掘っ建て小屋であったり、時にはよくよく目を凝らして見ないとわからないような、卑猥な言葉が彫られた岩であったりする。


「なに、お前。帝都に行ったことあるのか?」

「いや…」

「なんで行ったことないのに、に反応するんだよ。誰かに聞いたのか?」

「………」


 オヅマは黙ったまま、あたりを見回して誰もいないことを確認すると、ガサガサとイファルエンケの像の後ろの草藪を割って入っていった。カイルが少し不満そうにいなないたが、オヅマに連れられ、仕方なさそうに草を踏み、細い枝を折りながら進んでいく。


「おいおい。なんでわざわざ…。お前なんかが、使う必要ないだろー?」


 エラルドジェイは呼びかけながら、オヅマの後についてくる。

 細い獣道を歩きながら、オヅマの脳裏にはの中、エラルドジェイと共に帝都へ向かっていた日々が思い浮かぶ。



 ―――― オヅマ、こっちだ。こっちに美味うまい水が飲める場所があるんだ……



 やがてたどり着いた場所は、小さな滝壺だった。

 岩場から染み出した水がチョロチョロと流れて、岩の窪みに溜まっている。人間だけでなく動物たちの水飲み場でもあるので、今も栗鼠りすのような動物が飲んでいたが、オヅマが近づくとあわてて逃げていった。


「ここを知ってるとはな。教えてもらったのか?」


 エラルドジェイは意外そうに言いながら、水をすくってゴクゴクと飲んだ。「あー…うまい」


 オヅマは本当においしそうに水を味わうエラルドジェイを、懐かしげに見つめた。



 ―――― ここはな、別名の泉って呼ばれてるんだ。普通に街道を歩くようなヤツらには、一生飲むことはできない。だから、誰にも言うなよ。



 あの約束は守った。オヅマは誰にも言わなかった。

 けれど、あの後再びこの場所を訪れたときには、もう水はれて落ち葉が積もっていた。


「あぁ……」


 オヅマが頷くと、エラルドジェイは手の甲で口を拭いながら、皮肉るように言った。 


「まったく、誰だよ。公爵家の近侍なんかに、ここを教える馬鹿は。しかも、ホイホイと俺みたいなならず者に教えてやがる。こういう場所は普通、よっぽど信用している人間にしか教えないもんなんだぜ」


 オヅマはグッと拳を握りしめた。


「俺に…ここの場所を教えたのは、あんただよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る