第二百九十一話 詠唱
「いや、もう来ないけどさ……」
慌ただしく去っていくサクの背中を見送って、オヅマはつぶやく。
正直、やっていることは立派なんだろうが、また会って話を聞こうとは思えなかった。どうにもあのテの人間と話すのは苦手だ。根本的に自分とは合わない気がする。
エラルドジェイも似たようなものなのだろうか……と隣を見ると、エラルドジェイはいつになく険しい表情で立っていた。
「おい、どうし……」
尋ねかけると、エラルドジェイは急に踵を返して歩き出す。
「え? あ……オイ」
あわててオヅマは後を追ったが、途中、廊下を歩いていると、フワリと何かの匂いが漂ってきた。
濃厚で甘ったるい、頭が
オヅマは反射的に鼻と口を腕で押さえた。しかし隙間を縫って忍び込んできた、べっとりとした匂いは、ゆっくりとオヅマの中に浸透してくる。
キィィンと、奇妙な耳鳴りが聞こえ始め……
「…うッ!!」
急に、頭を殴られたかのような激痛が走る。
オヅマはその場にしゃがみこんだ。
先を歩いていたエラルドジェイが怪訝に振り返る。
「どうした?」
呼びかけてくるエラルドジェイの声が遠くなり、その姿も歪んだ。
頭の中からも外からも、ガンガンとひっきりなしに叩かれているかのように痛い。そのうち頭が痺れたようになって、キーンと高い耳障りな音が耳奥を刺す。
閉じた瞼の裏には蠢く影……。
バサリ、と何かに包まれる感覚……。
低く響く不気味な歌……。
「オヅマ!」
エラルドジェイの声に、かすかにオヅマは目を開いた。
目が回る。ぐるぐると回っている。ひどく気分が悪くて、冷たい汗が全身から噴き出た。
倒れたオヅマの周りに集まった人々が、ざわざわと何か言っている。
「……ここで休養していきなさい」
「あとでサク先生に診てもらって…」
「大丈夫だ。あの先生はとてもいい人だよ…」
降ってくる老若男女の声に混じって、遠く奥深い場所から聴こえてくるのは、妙に間延びした
―――――
―――――
そのままゆっくりと引きずられるようにして、強烈な眠気が襲ってくる。
だが目を閉じてはいけない。どこからか、誰か……懐かしい声が、必死で呼びかけてくる。
―――― 目を開けて。目を開けなさい、オヅマ。
―――― 苦しくとも、眠ってはいけない……
―――― 起きなさい。……エラ……ド……イに…助けを……借り……て……
その声が響くと、痺れた頭に稲妻のような痛みがはしった。
オヅマは奥歯を食いしばり、無理やり目を開けた。声が正しいかどうかよりも、これ以上、遠くから聞こえてくる、気味悪い
言われた通りに、エラルドジェイの腕を掴む。まるでそれが、ただ唯一の命綱であるかのように。
「こちらに連れてきて下さい。とりあえず私が診ましょう」
いつの間にか先程の青年医師エルッケがやって来て、エラルドジェイにオヅマを奥に運ぶように指示していた。
オヅマは痛む頭を押さえながら、その指の間から彼を見た。
暗い緑色の細い目。
その目と目が合った途端、夢が囁いた。
――――― 大丈夫にございます、
夢の中、恍惚とした顔で、オヅマを見上げてくる男の顔は、今よりも少し老けている。その目に宿る狂気じみた尊崇に、オヅマはゾッとした。
「嫌だ!」
叩きつけるように叫んで、立ち上がる。だがすぐに足がガクリと萎える。
かたわらのエラルドジェイに
「行こう、ジェイ…早く……!」
エラルドジェイは困惑しているようだったが、頷いてオヅマを支えた。
「お待ちなさい! そんな状態で」
エルッケが立ち塞がろうとするのを、オヅマはギロリと睨みつけた。
「失せろ! お前の手助けは要らぬ!!」
少年とは思えぬ凄まじい気迫に圧倒され、エルッケは腰を抜かした。
隣にいたエラルドジェイは、一瞬、オヅマの瞳に閃いた金の光に気付き、それとなく長い袖で隠す。
「コイツの心配なら無用だ。俺
いつものように皮肉めいた笑みを浮かべて、エラルドジェイはオヅマを引きずるように外に出た。
***
旧神殿へと続く草の茂る小道の脇で、オヅマは盛大に吐いた。
ようやく一息ついたときには、全身汗でびっしょりで、さっきまでとは別の意味で気持ち悪かった。
少しよろけながら、神殿の柱の一部であったらしい朽ちた石台の上に腰掛ける。
「どうしたんだよ、お前。いきなり」
エラルドジェイが水の入った革袋を渡しながら尋ねてきた。
オヅマは受け取って、水をゴクゴク飲むと、一息ついた。口の端に垂れた水を拭いながら、軽く頭を振る。外に出て、あの匂いから逃れると、不思議と頭痛は収まった。
「わかんねぇ…あの匂い嗅いだら、なんか、いきなり頭が痛くなって」
「あぁ、あれな。妙なヤツだったな。俺もあんなの初めてだ」
「初めて? あんたが?」
エラルドジェイは、ある種の後ろ暗い薬 ―― 麻薬や毒薬などに精通している。外傷治療などにおいて使用されることのある麻酔薬なども、その範囲に入るものなので、たいがいは知っていた。
「なんか言ってたな? ゴハとか…なんだゴハって」
エラルドジェイは腕を組み、ブツブツとつぶやく。あそこで使っていた薬の名前らしいが、昔、村で薬師の婆の手伝いをしていたオヅマも、あんな香をかいだことはなかった。
オヅマは酸っぱい唾を飲み込んで、視線を落とした。
本当に自分でも訳が分からない。
これまで見てきた夢は、なんとなく自分という存在を感じられたのだが、今の夢にはまったく自分がなかった。まるで他人の夢を無理やり見させられているかのようだった。
考えていると、また吐き気がしてくる。
オヅマは深呼吸してから、話を変えた。
「ジェイ、あんたも何かあんのか? あの先生のこと、なんか睨んでたような気がするんだけど」
オヅマが尋ねると、エラルドジェイは眉を寄せた。ポリポリと、軽く鼻の頭を親指で掻く。
「まぁ…なんだか気に食わないんだよ、ああいうのは。『先生』なんて呼ばれて、上から救ってやってる気になってるようなヤツは」
「ふぅん」
「ま、いいことしてるんだろうけどな。ここの『先生』とやらは。たぶん。世の中にゃ、看板だけ同じように掲げて、悪どいことするヤツもいるから…」
何か理由があって嫌っているらしいことはわかったが、エラルドジェイはそれ以上は言わなかった。
「で、どうする? 今日のところは、領主様のお屋敷に戻るか?」
エラルドジェイはまだ顔色のよくないオヅマを
「いや、行くよ。もう大丈夫だ」
明るく言って立ち上がる。
このまま屋敷に戻って寝かされたほうが、よっぽど考えてしまいそうだった。もう一度、水を口に含み、軽く口内を
粘りつくような甘い香りから逃げるように、オヅマは足早に歩き出した。
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