第二百六十八話 グレヴィリウス家の夜会(15)
「この者はお前の近侍か?」
エリアスはルイースについての処分が済むと、またアドリアンに向き合った。アドリアンの斜め後ろで、額をこすりつけんばかりに平伏するキャレを、ジロリと見つめる。
キャレは公爵の視線が自分に向けられているとわかっただけで、ますます恐縮して体を固くした。心臓が凄まじい勢いで拍動して、冷や汗が止まらない。頭だけが熱く煮え
「……キャレ、謝罪……謝れ、早く…」
マティアスがヒソヒソと囁き声で促してきて、キャレはハッと顔を上げた。途端に冷たく冴えた公爵の目が自分を射る。
「あ…う……」
キャレは頭が真っ白になって、もう言葉を紡ぐこともできなくなった。
その場にいた者たちの視線がキャレを責め立てた。
怪訝に見つめてくるアドリアンの目ですらも、キャレを追い詰めてくる。
呼吸することすら、ままならなくなってきた。……
「……キャレ?」
アドリアンは思わず声をかけた。
あまりにも顔色が悪い…というより、もう真っ白だった。
キャレの異変に気付き、いち早く動いたのは意外にも公爵であるエリアスだった。
キャレの前に屈み、息も絶え絶えとなっている口を大きな手でフワリと覆う。
そのときにはキャレはもう意識が朦朧となっていたが、低く呼びかける公爵の声だけが聞こえた。
「ゆっくりと息を吐け、長く……」
苦しげに顔を歪めながら、キャレはひたすら公爵の言う通りにした。
ゆっくりと、長く、息を吐く。吐ききってから、静かに鼻から息を吸う。
平坦な声は、まるで神官の読み上げる
徐々に呼吸が整い出すと、今度は急激な眠気に襲われる。
なにか大きなものに包まれた心地よさに、そのまま身を委ねたかった。
かすかに開いた目に、アドリアンと似た端正な顔立ちの男が映る。
――――― 本当に、似てる…小公爵さま…
そんなことを思いながら、キャレは気を失った。
いや、眠った…と言った方が正しいのかもしれない。
夜会のことを考えると胃がキリキリ痛んで、昨夜はロクに眠れなかったのだ。
その上、いよいよ夜会が始まると兄に脅迫され、礼儀知らずの令嬢相手には大喧嘩。さすがに心身ともにクタクタであった。
「……手慣れたものにございますな」
寝入ったキャレを抱くエリアスの背後から声をかけたのはルーカスだった。
エリアスはジロリと見やって尋ねた。
「どうであった?」
「大したことではございません。今日、ここで宴会があるのを聞きつけた者どもが、おこぼれに
ルーカスは公爵の警護として高座の隅に控えていたのだが、警備の騎士たちから門前で騒ぎが起きていることを聞き、向かったのだ。
この時期、帝都の貴族の家では大小の宴会が開かれるが、新年前の気を良くした貴族たちの懐が緩むのを見越して、物乞いの類が集まる。それは珍しいことではなかったが、警備の騎士たちをも騒然となるほどのものであったのか、責任者であるルーカスに報告が来たのだった。
「少々、面倒な集団が居座って、やれ神の恩恵云々と御託を抜かすので、蹴散らそうとした騎士たちとちょっとした騒動になったようです。私が出張ってもよかったのですが、ちょうど暇そうにしていたクランツ男爵に任せてきました」
ヴァルナルが聞いていれば、おそらく目を白黒して「勝手に押しつけて帰ったくせに!」と抗議したことだろう。だが、今ここで聞かずとも、エリアスは二人の間に起きたおおよその経緯を理解していた。
「相変わらず、貧乏籤を引く男よ」
「ま、美しく賢明な奥方を娶った代償であれば安いものでしょう。――― エーリク」
ルーカスは楽しげに言って、アドリアンの背後に控えていたエーリクに声をかけた。
「いつまで公爵閣下に近侍の介抱をさせるつもりだ? 早く運べ」
エーリクはあわてて中腰になって駆け寄ると、公爵の腕の中で眠りについてしまったキャレを抱きかかえた。
そこにいた面々に一礼して、小走りに出て行く。テリィも重苦しい雰囲気から逃げ出すために「付き添います」と言い訳して
アドリアンは信じられない光景に呆然としていた。
あの公爵閣下が、あの父が、アドリアンの近侍をしばしの間とはいえ、その腕の中で介抱していたのだ。
目の前で自分を鈍く見つめる人と同一人物なのか? と疑いたくなる。
一方でエリアスは久々に間近に息子の顔を見て、驚いて目を何度も
急に気分が重くなって、視線を伏せる。
無言で立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。
アドリアンはそれ以上の叱責がないことにまた驚きつつも、あわてて叫んだ。
「あ…ありがとうございます! 父上」
エリアスはビクリと立ち止まったものの、結局振り返ることなく出て行った。
「なにか面白いことがあったようですね」
ルーカスがのんびりと言った。
本来であれば警護のために公爵に
「あんまり面白くないよ…」
アドリアンはさっきまでのことを思い出し、げんなりした。
自分と同じ年の近侍と女の子の引っ張り合いに巻き込まれるなど、二度とゴメンだ。一から話すのも疲れそうで、アドリアンは話題を変えた。
「それより『手慣れたもの』って?」
「は? 何がでございましょう?」
「とぼけないでよ、ベントソン卿。さっき、キャレを介抱している公爵様に『手慣れたものですね』って言ってたじゃないか」
「あぁ…」
ルーカスは笑うと、やや意地の悪い顔になった。「知りたいですか?」
「勿体ぶらないで下さい、ベントソン卿」
横から言ったのはマティアスだった。
彼はキャレとルイースの言い争いを止めようとしたのだが、頭の中で理論武装している間に、公爵の登場で沈黙を余儀なくされたのだった。
ルーカスはやたら真剣な顔の近侍に肩をすくめた。
「そう大したことでもございません。昔、公爵閣下も小公爵として近侍を従えておられましたが、その中にああした発作を起こす癖のある者がおりましてね。あるときにリーディエ様から発作が起きたときの対処法を教えていただき、それからは閣下自ら介抱されるようになったのですよ。何度かやっているうちに、いつの間にやら、その近侍の発作もなくなりました」
「公爵様が?」
アドリアンとマティアスはほぼ同時に聞き返し、顔を見合わせた。
ルーカスはハハハと笑ってから、アドリアンの肩をポンと軽く叩いた。
「そのように
「え?」
アドリアンはギョッとした。
目の前で見たことすら信じがたいのに、自分がその対象であったなど有り得ない。
「嘘だ。そんなのあるわけない」
「いえいえ。さすがに覚えておられないでしょうが……まだ揺り籠の中に眠っておられるような頃に、ひどい癇癪を起こされて、夜中にずーっと泣いておられたのです。閣下がたまたま声をききつけて、見に行かれて……」
ルーカスは語りながら思い出す。
わずかな灯りの中で、ぎこちなく赤ん坊を抱いたエリアスの姿。
泣き叫ぶ小さな小さな息子相手にも、真面目くさった顔で「息を長く吐け…」と、リーディエに教えてもらった通りにつぶやいていた。
「泣き疲れて眠られるまで、お抱きになっていらっしゃいましたよ。ようやく眠ったのを見て、乳母に任せて帰られましたが…」
実際にはエリアスはアドリアンが眠りにつくと、ルーカスに預けて去ってしまった。自分が息子をあやしたなど、認めたくもないかのように。
アドリアンは初めて聞いたその話に、ひどく複雑な気持ちになった。
今まで父に対して愛情を感じたことはない。そもそも愛情のある人だと思わなかった。あったとしても、向ける相手は死んだ公爵夫人に対してだけで、たとえその
「僕は…覚えてない。知らないよ」
アドリアンはポツリとつぶやき、悄然とその場から離れた。
マティアスが追いかけようとするのを、ルーカスは素早く腕を掴むとニヤリと笑った。
「何があったか、聞こうか」
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