第二百二十三話 ゲームはまだ始まらず

「まだ、何か?」


 ヴァルナルが困惑して尋ねると、公爵は軽く溜息をついた。


「夫人については、もはやそなたと結婚したゆえ如何いかんともし難いとはいえ…オヅマをどうする?」

「オヅマは…当然、私の息子として育てるつもりです」

「それで済むと思うのか? 都に行けば、皇帝陛下の覚えめでたいそなたが、放っておかれるはずもない。当然、新たな夫人のことも、その連れ子のことも、口さがない貴族スズメどもの格好の話題となろう。が母子を目にすれば、そこにいるのが自分の息子であることは、誰よりも早くに察せられるであろう。もし、自分に卑賤の血が混じった息子がいるなどと知れば、あるいは ――― を考えられるやもしれぬ」

「まさか……」


 ヴァルナルは呆然とつぶやいたが、公爵のどんよりと曇った顔は晴れない。

 しかし暗い雰囲気をかき混ぜるかのように、ルーカスがのんびりと言った。


「失礼ながら、私はそうは考えませんね、公爵閣下」


 公爵はジロリとルーカスを見つめる。鳶色の瞳は憂鬱そうであった。


「……申してみよ」


 ルーカスは軽く目礼すると、「さて」と言って、おもむろに立ち上がった。


「我らだけであれば、もはやなどと、まだるっこしい呼び方をする必要もないでしょう。通り名でお呼びすることに致しますよ。ランヴァルト大公でございますが、先程の男爵夫人の話を聞いていても、大公はおそらくミーナ殿に深い愛情を持っておられたと思うのです。下女相手に戯れに手を出したなどというものではなく。そのような女であれば、あの大公のこと、などという無体なことはなさらぬと考えます。むしろ私が危惧するのは、大公がオヅマのことを知って、己が父親であるという主張をしてこられたときのことです」


 ヴァルナルの顔は強張り、公爵は変わらぬ表情のままルーカスに問いかけた。


「あの大公が、下賤の血を引く者を己の息子などと認めると思うか?」

「確かにランヴァルト大公は貴きご身分にございますが、一方で非凡異才をお好みになられる方でございます。自らに利する者であれば、その身の上が卑しくとも関係なく引き立てるでしょう。あの素性もわからぬ側用人が、いい例ではありませんか」

「…あの生意気な小僧にその価値があると?」

「お忘れでございますか? 公爵閣下。オヅマは稀能きのうを発現したのです」


 公爵はそこでハッとしたように硬直した。

 ルーカスは公爵からヴァルナルへと視線を移しながら話を続ける。


「オヅマの発現させた稀能が『千の目・まじろぎの爪』であっただろうというのは、ヴァルナルの推測に過ぎませぬが、もしそうであれば、大公から教えを受ける機会を与えようと言っておられたではありませんか。ただの小僧であったとしても、素養があれば、ランヴァルト大公はその技を伝えるために、熱心に教育されるでしょう。ましてそれが自らの息子となれば……当然の権利を主張してくると思われます」


 帝国において、子供のは父親にある。

 それまで母親によってのみ養育されたとしても、父親が子供を自らのものとして所有の権利を主張したときには、子供と母親が引き離されることも珍しくなかった。


 公爵は当然のように頷いた。


「そうなれば、オヅマを大公家へと送ることになるであろう」

「それはできません!」


 即座にヴァルナルは叫んだ。「私たちは家族です。家族の一人が欠けるなど、許容できません!」


 公爵はしかし冷たく言った。


「そうして強硬に反発して、大公側から誘拐犯と訴えられたらどうする?」

「誘拐? なぜ、そんな…」

。夫人をはじめ、お前も責を問われる可能性がある」


 ヴァルナルは唖然となった。もし、本当にそんなことになれば、問題は自分だけでは済まない。公爵閣下にも迷惑をかけることになる。

 だが、あの鷹揚なる大公殿下が、本当にそんな狡猾な真似をするだろうか?


 少し考えてヴァルナルは苦しげに息を吐いた。


 先程ルーカスも言っていたように、大公自身にミーナへの愛情があったのは間違いないように思える。もし、かの方が本気でミーナを取り戻そうとしたとき、あるいは多少強引であっても手段を選ばぬかもしれない。

 そうなれば、自分に抗うすべなどあるだろうか?

 いや、それよりも、今は大公殿下の名誉のために身を隠しているミーナが、あちらから関係を戻すことを望まれたとき、拒む理由などあるだろうか……。


 顔色をなくして佇立するヴァルナルに、ルーカスがバン! と背を叩いた。


「そう暗く考えるなよ。まだ大公あちらは何もご存知ない。知っているのは我らだけだ。つまり、ゲームを始める権利はこちらにあるということだ。公爵閣下も、将来有望な騎士見習いをみすみすくれてやるつもりもないでしょう? 小公爵様とてお気に入りだというのに」


 公爵は息子の話題に軽くピクリと眉を動かしたが、むっすりと黙ったままだった。


「しかし、ミーナの気持ちがまだ大公殿下に残っていたとしたら……」


 ヴァルナルは頭をかすめた可能性がみるみる膨らんで、小さな声でつぶやく。

 ルーカスは腕を組んで、弱気になっている友にあきれた視線を向けた。


「いたとしたら…なんだ? どうぞと差し上げるわけか? さっき家族が云々言ってたくせして、もう降参か?」


 ヴァルナルは拳を握りしめ俯いた。

 ミーナの気持ちを尊重しようという良心と、誰にも渡したくはないという執着が激しくぶつかって、自分でも自分の気持ちをどこに置けばいいのかわからない。


 また悩みはじめた友人に、ルーカスはあきれたように言った。


「おいおい。本気で悩むか、お前。いいか? 女ってのは、けっこうあれで薄情な生き物なんだ。新しい男が出来たら、綺麗サッパリ前の男のことなんざ忘れてしまうものなのさ。お前の前妻だってそうだったろうが」

「………彼女はそもそも俺を好いてもいなかった」

「そうだったか? ま、いずれにしろ、そうそういつまでも昔の男を思い続ける女なんてのは、いないのさ」


 ルーカスは自らの経験に基いて結論を出したが、それでもヴァルナルはミーナの言動を思い返して、自信なげにつぶやいた。


「しかし…さっきは何度も思い出していたと」

「俺の見るところ、ミーナ殿のあれは女として恋い慕うというより、育ててもらった恩を感じているだけだと思うがな」

「それは……そうか…な…?」

「ま、いざ再会してランヴァルト大公がお前よりいい男に思えたら、そりゃそっちに行くかもしれん」


 ルーカスの指摘に納得して、少しだけ安堵しかけたのも束の間、意地の悪い親友はニヤリと笑ってすぐさま蹴落としてくる。

 からかわれているとわかっていても、ヴァルナルはガックリ肩を落とした。


「おぉーいッ!!」


 いつになく卑屈になりがちな友の背を、ルーカスはバンバン叩いて励ました。


「しっかりしろよ、ヴァルナル・クランツ! 会う前から及び腰でどうする」

「そうは言っても……その昔、大公殿下は公爵閣下と共に宮中でも有名な美男として並び称されていたではないか。いや、今だって大公殿下を慕う御婦人は多いと聞くし…」


 ヴァルナルがブツブツ言うと、負けじと(?)ルーカスも胸を張った。


「大公だけではない。公爵閣下だっていまだに園遊会に招かれるたび、渡してくれと俺に文を預けにくる貴婦人が列をなしているぞ」

「……なにを馬鹿げたことを」


 さすがに脱線が過ぎる二人の話に、公爵はあきれかえった溜息をついた。鬱陶しそうに伸びてきた前髪を掻き上げて、ヴァルナルをギロリと睨む。 


「そもそも、結婚する前からわかっていたのだろう? 大公の側女そばめと知っていても妻としたのであれば、今更、己の容色と較べて落ち込む時期はとうに過ぎておろうが。まったく、これがあの勇猛無双と呼ばれるヴァルナル・クランツとは…」


 公爵は馬鹿馬鹿しくてたまらぬといった感じで吐き捨て、深く寄せた眉間を揉んだ。

 項垂れるヴァルナルと対照的に、ルーカスは肩をすくめてうそぶいた。


「戦場で悪鬼と恐れられる男であってもこうなってしまうのですからな。まことに女というのは偉大な生き物です」


 公爵はうんざりしたようにルーカスを手で制した。この男はいつも男女の話となると、やたらと饒舌になる。


「ともかく…ルーカスも言ったように、ゲームの手札はほぼこちらにあるのだ。肝心要のお前のはらが定まっておらねば、方策もたたぬ。ヴァルナル・クランツ、お前はどうしたい?」

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