第二百二十二話 迷いの中の選択

「出来上がりましてござります」


 ミーナはしとやかにお辞儀したが、入るなり床に跪いたヴァルナルに気付いて目を丸くした。ヴァルナルはごまかし笑いを浮かべて、あわてて立ち上がり、ソファに腰掛ける。

 ミーナは釈然としなかったが、従僕がカップに黒い液体を注いでくれたので、まず公爵に運んだ。


「公爵様はそのままでお飲みになられますか?」

「……あぁ」


 公爵は返事しながらも、ミーナの質問の意味がよくわからなかった。というのも、彼が今までに飲んだことのある珈琲は、いつも出されたものをただ飲むだけであったから。

 ミーナは無表情な公爵のささいな疑問など知ることもなく、ルーカスとヴァルナルにも勧めた後に、ミルクの入った器をヴァルナルの珈琲の横に置いた。

 すぐにルーカスが見とがめる。


「なんだ、それ。お前だけ」

「いや、苦くて」


 言いながらヴァルナルが珈琲にそのミルクを入れると、ルーカスも公爵も驚いたように目を見開いた。


「ミルクなんぞ入れて、大丈夫なのか?」

「あぁ。まろやかになって飲みやすい」

「ふん。俺ももらおう」


 ルーカスは残りのミルクを入れると、色の変わった珈琲を見て眉をしかめた。


「これ、本当に大丈夫なんだろうな?」

「自分で入れておいて今更」

「いや。雨が降ったあとの川みたいに濁ってるからさ。まるでドロ…」


 さすがに淹れてもらった人を目の前にして泥水と言うのは気が引けたのか、ルーカスはあわてて弁明した。 


「失礼、男爵夫人。私も珈琲を飲んだことはあるのですが、さすがにこのような珍奇な飲み方を見たことがなかったもので」

「えぇ、そうだと思います」


 ミーナは頷いて微笑んだ。


「昔、これを初めて飲んだときにとても苦くて、私が勝手にミルクを入れたんです。だから、正式な飲み方かと聞かれれば違うのでしょうね」

「初めて…というのは、いつの頃だ?」


 不意に割り込んで尋ねたのは公爵だった。


「それは…」とミーナは答えかけて、急に口を閉じた。

 微笑んでいた顔が急速に緊張を帯びる。

 しばしの沈黙のあとに、目を伏せて謝罪した。


「申し訳ございません。遠き記憶ゆえ…つまびらかに思い出せませぬ」


 公爵は心細げに佇むミーナを厳しく見つめつつも、咎めることはなかった。

 カップの中の黒い液体を一口含む。以前に淹れてもらったものと同じ味だった。

 苦味と、後口に残るわずかな酸味。鼻腔に入り込む燻した豆の芳醇な香り。


「確かに、聞いていた通り男爵夫人は珈琲を淹れるのがお上手なようだ」

「お褒めに預かり恐縮にござります」

「不思議なものだ。私が以前に飲んだ時と同じ味がする。実はその時は大公殿下がお手づから淹れて下さったのだ」


 ハッとミーナは息をのんだ。

 その場で小さく身をすぼめるミーナを見て、ヴァルナルは立ち上がると、そっと肩を抱いた。  


「公爵閣下…」

「私は事実を言ったに過ぎぬ」


 素知らぬ顔の公爵に、ヴァルナルは苦しげに懇願した。


「お汲み下さい。先程も申した通り、ミーナは息子のオヅマにも告げるつもりはないと言っているのです。それもの迷惑とならぬ為です」

「まったく…」


 公爵はあきれたようにフッと皮肉げに頬を歪めた。


「男爵夫人はともかく、お前も嘘をつけぬ男よな、ヴァルナル。適当に言い繕うこともできたであろうに」

「それは……」

「男爵夫人は西方のターディの民の血を引き継いでいるらしいな。今は散り散りとなって、民族としては失われたが、嘘なき民タード=イ・ェリアと呼ばれる種族のさがゆえ、嘘をつくよりは沈黙を貫くということか」


 ヴァルナルは公爵がそこまで知っていることに驚いた。


 ミーナの家系は曽祖父の代に西方地域の山奥から出てきて帝都に移り住んだ。

 ミーナは幼い頃に流行病はやりやまいで亡くなった両親の代わりに育ててくれた祖父母から、古き民族の歌や習俗などを教えられるでもなく覚えたのだという。

 その中でも独特なのが言霊ことだま信仰で、口に出した言葉は力を持ち、不吉なことを言えばその通りになってしまう…というものだった。


「迷信でしょうが、もし何かあったらと思うと…迂闊なことは言えなくて」


と、話をしてくれたのは結婚後のことなので、ヴァルナルも知ったのはつい最近だった。


 ミーナは俯いていたが、何度か逡巡した後、沈痛な面持ちで口を開いた。


「お許し下さいまし。私の過ちでありました。何も知らぬ子供だったのです。幼き頃よりひとかたならぬ厚意を受けて、勘違いして…お慕い申し上げました。けれど許されぬことでした。あの子を身籠ったときに、自らの浅慮あさはかさに気付かされたのです。これ以上、迷惑をかけてはならぬと…」

「それで今に至るも申し出なかったと? 騙されて奴隷にされても、助けを求めなかったのか?」


 公爵は厳しい口調で問うていたが、とび色の瞳は痛々しくミーナを見つめていた。言葉だけでは推し量れない公爵の本心を感じて、ミーナは少し気持ちが安らぎ、素直に言った。


「……ありました。あの子を生んだばかりの頃は、どうすればいいのかわからなくて、とにかく縋りたい一心で、門前まで行って、門番に頼んだことも。当然、その場で追い返されました」


 ミーナはそこまで話してから、苦い笑みを浮かべた。


「情けない話でございます。先の夫が亡くなったときも、気が動顛していたのでしょう。一度は都に向かおうとしていたのです」


 ヴァルナルは驚いた顔でミーナを見つめる。その視線を感じて、ミーナは顔を上げると、ふわりと微笑んだ。


「オヅマに感謝しております。あの子がここに連れて来てくれなかったら、私はきっと今も不安の中で揺れて、縋ってしまっていたかもしれません。つらいとき、苦しいときにはいつも、幼い私を慈しんで育てて下さった日々を、思い出さずにはいられなかったから」

「ミーナ…」


 ヴァルナルは懐かしそうに言うミーナの腰を、無意識に引き寄せていた。


 公爵は仲睦まじい新婚夫婦から目をそらすと、ぬるくなった珈琲をゴクゴクと飲んだ。

 コトリ、とカップを皿に戻し、ミーナに問いかける。


「あと一つだけ夫人に聞く。そなたを育ててくれた恩義ある家から出たのは、そなた自身の選択によるものか?」


 ミーナは公爵の厳しい視線を受け止めてから、フッと目を伏せた。

 唇を一度強く噛みしめ、苦い記憶を思い起こす。

 やがて静かに話した。


「……さとされたのです。私があまりにも無知であったので、自らの身分をわきまえるように言われました。私のような下賤の身から、の血を継ぐ者が生まれたとなれば、の品位にきずをつけることになる…と。厳しいお言葉でしたが、それでようやく気付いたのです。ですから…」


 再び面を上げ、公爵の鳶色の瞳から目を逸らさずにミーナは言った。


「迷惑とならぬ為に、自らの意志で出ました」


 公爵はしばらくその薄紫色の瞳と対峙したあとに、軽く息をついた。


「男爵夫人の決意は尊重しよう。以降はヴァルナルと話すことがある。退がってよい。ハンス、お前もだ」


 公爵の言葉にミーナはホッとした顔になり、深々と頭を下げた。いつも旨とする礼儀作法からは少々逸脱していたが、その分、素直な感謝を表していた。


 ミーナが去り、従僕がカップ類を片付けて部屋を出ると、ヴァルナルもまた、深々と公爵に頭を下げた。


「ありがとうございます、公爵閣下」


 しかし公爵の表情は厳しい。

 眉間に深く憂いを刻み、ボソリとつぶやいた声は重かった。


「事はお前が思うほど簡単ではない」

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