第百七十二話 言えない秘密

「ミーナ……大丈夫だ」


 ヴァルナルはミーナに優しく声をかけた。何度も。

 ミーナはヴァルナルに体を預けたまま動かない。

 気を失っているのだろうかと、ヴァルナルが少し腕の力を緩めて下を覗き込むと、視線に気付いたミーナが顔を上げた。

 ヴァルナルは思わずミーナの頬に触れた。

 ギョルムに何度も殴られた頬は赤く腫れている。口のには血が滲んでいた。


「あの男……」


 怒りに震えた言葉の先は言わなかった。

 傷ついたミーナに聞かせられるものではない。

 乱れた髪の間に見える薄紫の瞳からは、涙がとどまることなく流れていた。


「ミーナ…」


 ヴァルナルはミーナの乱れた髪を耳にかけてやり、頭の土汚れを軽く払ってやる。あふれる涙が伝う頬を両手で包み込むと、血の気のない唇を親指で撫でてから、そっと口づけした。


「…………」


 唇が離れると、ミーナはパチパチと何度かまたたきをし、涙に濡れた目でぼうっとヴァルナルを見つめた。

 少しはにかみながら、ヴァルナルが微笑む。

 その笑顔にミーナは温かな喜びを感じると同時に胸が痛んだ。

 泣きぬれた顔が悲しげに歪む。ごめんなさい、と声にならない言葉が口から漏れ出た。


「ミーナ?」


 ヴァルナルが問いかけると、ミーナは目を逸らして、そっとヴァルナルの胸を押しやった。


「……申し訳……ございません」

「ミーナ、なぜ謝るんだ? 君は何も悪くない」


 ヴァルナルは自分から離れようとするミーナの手を掴んだ。


「いいえ!」


 ミーナは大声で、断固として否定する。


「大恩ある領主様に私は……故意でないとはいえ、暴力を振るいました。許されぬことです」

「私の胸に煉瓦を叩きつけたことか? 他愛ない。あの程度のこと」


 ヴァルナルは笑った。

 快活な笑顔に、またミーナの胸が痛む。再びうつむいて、声を詰まらせながら懸命に言葉を紡ぐ。


「どうか……私を許さないでください。私は許されるべき人間じゃないんです。領主様のことも、ギョルム卿のことも……ひどいことをしました」


 ギョルムの名前が出て、ヴァルナルは顔をしかめた。


「あの男について君に罪などない。どうせ君に不埒ふらちをはたらいたのだろう? それにオリヴェルにも……。君は息子を守ろうとしてくれたのだろう?」


 ヴァルナルはおよそ何事が起きたのかを想像できた。

 どうせあの男は懲りもせずにミーナに言い寄ったのだ。それをミーナが拒否して揉めていたところに、オリヴェルとマリーが居合わせたのだろう。


 しかしミーナは頭を振ると、弱々しく懇願した。 


「私を罰して……責めは私一人にお収めください。どうか、オヅマは……オヅマのことだけは、かねてよりのお話どおりに養子としてお迎えくださいますよう、お願いします。勝手を申しますが、どうか、あの子の希望を潰さないでやってください……」

「…………うん?」


 ヴァルナルはひとしきり聞いてから、首をひねる。「養子?」


 ミーナは下を向いたままコクンと頷き、か細い声で言いつなぐ。


「はい。どうか……あの子は領主様を尊敬しております。どうか騎士として、このまま育ててやってくださいまし。どうか……どうぞ、よろしくお願いいたします」


 ヴァルナルはしばらく思考が停止し、何度かまたたきしてからやっと我に返る。コンコン、と眉間を軽く指で叩いて、フゥと溜息をもらした。


「養子…か、そうか……そういう解釈だったんだな」


 自嘲の笑みを浮かべて、ヴァルナルはしばし無言だった。

 長い沈黙に、ミーナはそろそろと顔を上げる。


「領主様?」


 首をかしげたミーナの無垢にも思える勘違いに、ヴァルナルは苦笑した。


「ミーナ、私としてはオヅマと養子縁組して親子になるつもりはなかったんだ」

「え?」

「私は……君と結婚して、オヅマとマリーの父親になりたかったんだ。そして君にはオリヴェルの母親になってほしかった。そのつもりであの時も話していたんだが、そうだな。たしかに養子縁組という形の親子もあるわけだから、君が勘違いしても無理はない」


 ミーナはヴァルナルが何気なく言った言葉が、幻聴なのかと思った。


「……結婚?」


 思わずつぶやくと、ヴァルナルが頷く。


「あぁ、そうだ。私は君と一緒になりたいんだ。君と一緒に……子供たちを連れて祭りにもまた行きたいし、長い冬の夜を皆で賑やかに過ごせたら幸せだとも思う」


 そこまで言ってから、ヴァルナルはおもむろに片膝を地面につき、垂直に曲げた膝の上に腕を乗せて、頭を垂れた。

 それは貴人への礼儀であると同時に、正式な結婚を申し込むときの所作だった。


「辺境の、貧しい領地の領主だ。華美な暮らしは約束できないが、君はささいな日常の幸せを知っている人だと思う。どうか……結婚してほしい」


 ミーナは答えることができず、固まった。

 ヴァルナルが顔を上げる。グレーの瞳は真剣で冗談を言っているのではない。

 こんな冗談を言うような人間でないことは、ミーナもよくわかっている。わかるからこそ、拒むしかなかった。


「………できません」


 ポツリと言って、涙がこぼれる。


「ミーナ!」

「できません! 私はそんな……領主様と結婚できるような身分ではありません!」


 この期に及んでもかたくななミーナに、ヴァルナルは少しだけ苛立った。

 グイ、とミーナの手を掴む。


「私は、君の身分について問題にしたことなんてない。私が聞きたいのは君の本心だ!」

「……私は……」


 ミーナは苦しげに顔を歪めた。

 言わなければならないことはわかっているのに、その言葉は本心じゃない。


 アナタノコトハ、好キジャナイ。

 モウアナタトハ、会ワナイ。  


 別れを伝える言葉は、ミーナの喉で引っ掛かって嗚咽おえつする。


 ヴァルナルはミーナの手を包みこみ、自分の額に押し当てて、静かに懇願した。


「頼むから、うんと言ってくれないか? 私はオヅマも、マリーも、オリヴェルも、皆で一緒に幸せになりたいんだ。そこに君がいないで、どうやって皆、幸せでいられるんだ?」


 ミーナの脳裏に子供たちの姿が浮かんだ。

 暖炉の前で、冗談を言い合ってふざけて遊ぶ子供たちを、穏やかに見つめるヴァルナルと……その隣に自分がいれたら、どれほどに幸せだろうか。


 ヴァルナルは顔を上げると、ミーナの手をギュッと握りしめた。


「ミーナ、私は、君を愛している。誰よりも」

「………」


 触れられた部分から伝わる温かさが愛おしい。

 震えて求めそうになる。

 真摯しんしなヴァルナルの視線を避けるように、ミーナは地面に転がった白煉瓦を見つめた。


「ご覧になったでしょう? 私は、ギョルム卿を……下手をすれば殺していたかもしれないんです」


 さっきまでの狂ったような自分を思うと、尚の事ヴァルナルに相応ふさわしくない。

 だがヴァルナルの表情は変わらなかった。


「そんな理由で私が納得すると思うのか?」

「…………わたしは、領主様には……ふさわ……しく……」


 言っている間にも、自らの心に反した言葉は喉奥で萎んでいく。


「逃げないでくれ、ミーナ」


 ヴァルナルが勇気づけるように、握っていた手に力をこめる。

 ミーナはとうとう観念するしかなかった。

 ずっと避けて、認めずにきた自分の本心。決して許されないのだと戒めて、諦めた気持ち。

 それでも最後の最後に、避けられない問題がミーナを迷わせる。


「私は……誠実ではありません。あなたのことを愛していても、あなたに全てを話すわけにはいかないのです。きっと……死ぬまで、あなたに話すことのできない秘密を抱えています。不実だと……思われませんか?」


 ヴァルナルはフッと笑うと、立ち上がってミーナを抱き寄せる。もはや抗うこともせず、ミーナは身を任せた。


「言わなくていい。私も無理に知ろうとは思わない。隠し事があることが不実だとも思わない。私にだって……君に言えないことはある。戦地でのことなど、一生、誰にも言いたくないものだ」

「それは……当然のことです。ご領主様は戦って苦しい思いをされたのですから」

「あぁ。だから秘密なんてものに、こだわらなくていい……ということだ」


 ミーナの目はそれでも愁いに沈んでいた。この選択が愛する人を苦境に追い込むことになりはしないかと……。

 ヴァルナルはつい、とミーナの顎をつかんで持ち上げた。


「心配しなくていい。たぶん、私はわかっている……君の秘密を。確信はないが、おそらくね」 


 ミーナは目を見開いた。「どうして……?」とつぶやきが漏れる。


 ヴァルナルはミーナの頬を愛しげに撫でて微笑んだ。


「色々と、重なることが多かったんだ……」


 オヅマの稀能きのう『千の目』から始まって、ミーナの磨かれた所作、まだ一般的でなかった珈琲豆を知っていたこと……。

 その都度、脳裡に現れた人を、ヴァルナルはもはや無視できなかった。

 偶然というには、条件が揃い過ぎている。

 それはオヅマの容姿の点も含めて。

 の人もまた、頭部の手術をして禿頭とくとうとなる前には、亜麻色の髪であったと聞いている……。


「私の想像の通りであるなら、君が頑なにその秘密を守る理由もわかる。だから、言わなくていい」

「……う…っ…」


 ミーナは一気に気持ちが緩んだ。

 薄紫色の瞳から、また涙があふれ出す。

 ようやく安心していい場所にたどり着いたような、自分を長く縛っていた鎖から解き放たれたような気分だった。


 もう一度、ヴァルナルと唇を重ねてから、ミーナは温かく広いその胸に抱かれて、ようやく幸せになることを受け入れた。

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