第百七十話 母が守るもの
異変に気付いたのはマリーだった。
オリヴェルとマリーは、白っぽい半透明の体からゆっくりと黄緑色に変わっていく、孵化したばかりの蝶を目を輝かせて見ていたのだが、いきなりマリーがミーナの去っていった方角へと首を向けた。
「………お母さん」
「え? どうしたの、マリー」
オリヴェルも同じ方向を向いたが、そこにマリーのつぶやいた人の姿はない。
「お母さんの声がした。なんだか、怒ってる声」
「え?」
マリーは次の瞬間には走り出した。
「待って、マリー!」
オリヴェルもあわてて後を追う。
途中で息が苦しくなって、少し嫌な予感がした。
最近では滅多となくなっていたが、こうしていきなり激しい運動をすれば、また以前のように倒れてしまうかもしれない。
だが、普段はオリヴェルの体調を一番に考えてくれるマリーが急ぐからには、よほどのことなのだろう。
一方、マリーは必死になって走っていたが、普段あまり歩くことのない道だったせいか、張り出した木の根に足をひっかけて転んだ。
その間にオリヴェルが追いついて、マリーに手を差し出した。
「大丈夫、マリー?」
激しく肩を上下させながら、それでも自分を気遣うオリヴェルを見て、マリーはハッと我に返った。
「ごめんなさい、オリー。走らせちゃって」
「いいよ。早く行こう。心配なんでしょ?」
「うん……」
それでもマリーはオリヴェルの無理にならない速度で、小走りに急いだ。
ポプラの並木道を抜けたところで、男の
「………哀れに思って声をかけてやったというのに、……これだから卑しい者は。少し優しくすればすぐにつけあがりおって!」
オリヴェルとマリーは、男に腕をとられて項垂れるミーナの姿に、真っ青になった。
マリーが母を助けようと飛び出しかけるのを、オリヴェルはあわてて止めた。口に手をあてて、声を封じる。
「マリー、静かに……!」
オリヴェルはマリーの耳元でささやく。
マリーが戸惑った顔で振り返ると、オリヴェルは冷静に言った。
「マリー。すぐに誰か……騎士に知らせて。朝駆けから戻ってきているはずだ。それまでは僕がミーナを助けるから」
「………」
マリーは首をブンブンと振った。
あの男は危険だ。母に対してひどいことをしたのだから、オリヴェルにだってするかもしれない。
しかしオリヴェルは悲しげに微笑んで言った。
「マリー、僕はもう走れない。君に行ってもらうしかないんだ」
話している間にも、男が「来いッ!」とミーナの腕を掴んで引っ張って行く。
「早く!」
オリヴェルはマリーを来た道に押しやって、自分は足元に落ちていた拳ほどの石を拾った。
マリーは一度だけ振り向いて、コクンと頷くと、駆け出した。
◆
「早くミーナを離せ!」
オリヴェルは叫びながら石を投げたが、石はギョルムの手前で落ちてしまう。もしミーナに当たったらと思うと、思いきり投げることをためらったせいもある。
自分の目の前で力なく落ちる石を見て、ギョルムはせせら笑った。
「なんだ、細っこいガキだな。石ひとつ、まともに投げることもできぬとは。軟弱者め」
その言葉にオリヴェルは歯噛みして、手に掴んでいた石を今度は力をこめて投げる。鋭い軌跡を描いた石は、直接ギョルムには届かなかったが、地面を跳ねてギョルムの脛に当たった。ギョルムは顔を顰めて、当たった脛をさすりながら、激怒した。
「こッ…ンの小僧めがッ! 思い出したぞ、貴様。あの領主の息子だな!? 父親ともども無礼な奴らだ。私は皇帝陛下より命を受けてここに派遣されたのであるぞ。私に石を投げるのは、陛下に向かって投げると同じこと!」
「うるさい! 貴様こそ、そのバターを塗りたくったような頭を、父上の前で下げることになるさ!」
「こッ…の…」
ギョルムの怒りはオリヴェルに向かい、一歩、足を踏み出す。
しかし今度はミーナがギョルムの腕をがっしりと掴んだ。
「やめてください! 若君に何をする気です!?」
「このッ、クソ
ギョルムはバタバタと腕を上下させて、ミーナの手を振りほどこうとしたが、ミーナは固く掴んで離さない。自由のきく手でミーナの頭をグイグイと押しやっても、必死で抵抗してくる。苛立ちが極みに達し、ギョルムは容赦なくミーナの頬に平手を浴びせた。
一発。
二発。三発。
痛みと衝撃で、ミーナの意識が一瞬遠のく。
それでも手を離さないミーナに、ギョルムの怒りは倍増した。
ミーナの髪を引っ掴んで荒々しく揺さぶると、とうとうミーナの手がギョルムの腕から離れた。ギョルムはミーナを地面に叩きつけるように投げ倒し、足で頭を蹴りつけようとする。
ギョルムの凶行に唖然として動けなかったオリヴェルは、そこでようやく我に返ると、震える声で怒鳴りつけた。
「なにするんだ! この野郎!」
オリヴェルは低く背を屈めて走ると、ギョルムの腰に飛びついた。
引き剥がそうとギョルムは腰を動かしたが、オリヴェルはしっかり掴んで離そうとしない。
「こッ…の、クソガキめが!!」
ギョルムは吠えるように叫びながら、オリヴェルの背中に拳を叩き込んだ。
「おウッ!」
オリヴェルはうめいて、その場にくずおれた。
初めて人から受けた暴力に、背中の痛み以上に恐怖と怒りと悔しさで、呆然と凍りつく。
ギョルムはオリヴェルの赤銅色の髪を見て、領主であるヴァルナルを思い出した。あの男の息子だというだけで、ひどく苛立たしく腹立たしく、憎々しい。
グイ、とオリヴェルの襟を両手で掴んで絞め上げる。
「全く腹立たしい…。わざわざこんな辺境に派遣されて、身分もない卑賤の女と、成り上がり者の息子風情にこのような辱めを受けるとは!」
「……ク…っ…離…せ」
オリヴェルはギョルムの腕を掴んだが、貼り付いたかのように動かない。
息が苦しい。
だんだんと意識が朦朧としてきた。
一方、ミーナもまだ頭がクラクラしていた。
薄暗い視界にオリヴェルの首を掴むギョルムの姿がボンヤリと見える。
「や…めて……」
本当は意識は眠ろうとしていた。
しかしミーナは抗った。
今、自分が気を失えば、オリヴェルが殺されてしまう。
その危機意識は、ミーナに古い記憶を
―――― このクソガキがッ! 殺してやる!
―――― やめろ! やめろ! マリーになにするんだぁっ!
泣き叫ぶマリーを乱暴に掴む
その夫の足にまとわりつき、蹴られるオヅマ。
赤ん坊のマリーを放り投げる夫。
あわてて拾ったオヅマが体勢を崩す ―― !
―――― うああぁぁぁぁっっ!!
凄まじい悲鳴。
あの時、ミーナが立ち上がることさえできれば、あんなひどい火傷を負うことはなかったのに。
守れなかった。
母親なのに、子供を守ってやれなかった。
二度と、しない。
二度と、私の息子にこれ以上の苦痛を与えることは…………
ミーナは立ち上がると、フラフラと歩いて、ほとんどすがるようにギョルムの腕を掴んだ。
「やめてッ! やめなさいよッ! 私の子供に何するのッ!!」
顔は紫色になり、必死に怒鳴りつけるほどに髪は乱れた。
ギョルムは一瞬、ミーナの幽鬼のような迫力に怯えたが、舌打ちしてその腹を蹴りつける。
ウッ、とうめいてミーナは地面に尻もちをついた。
腹を押さえながら再び立ち上がろうとして、ふと地面についた手の先に固いものが触れる。
見れば、壊れて半分になった白煉瓦だった。
祠の修理のときに捨てられた一部だろう。
ミーナはその煉瓦を手に取ると、ギッとギョルムを睨みつけて立ち上がった。
「やめてッ!」
ミーナは煉瓦でギョルムの背を打った。
「離せッ! 離しなさいッ!! 私の子供を傷つけるなら、殺してやるッ!!」
恨みと憎しみをこめて叫びながら、ミーナはひたすら煉瓦をギョルムの背に叩きつける。
「うぐッ…」
痛みに顔をしかめ、ギョルムはオリヴェルの襟を離した。
ようやく苦しさから解放されたが、オリヴェルは力なく地面に倒れ伏した。
視界の隅で、
「よくも! 私の息子に……許さない! 許さないわ!!」
ゆっくりと視界が暗くなっていく。
オリヴェルの目から涙がこぼれ落ちた。
ミーナ……やめて。もう、いいから。
もう、僕は大丈夫だから。
もう、傷つけないで……。
もう、傷つかないで……。
お願い……。
お母さん…………。
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