第百五十二話 軽くなった心

 急なヴァルナルの話に、オヅマは頭が真っ白になり、しばらく固まった。


 いったい、今日のヴァルナルはどうしてこうも立て続けにオヅマを驚かせ、気持ちをざわつかせるのだろうか。

 正直、これ以上聞きたくない。逃げ出したい衝動にかられた。 


「……オヅマ」


 呼びかける声に、あの冬の日の神殿のことを思い出す。


 母のことを好きなのだとヴァルナルに言われた時から、遅かれ早かれ、こういう状況が訪れるだろうとは覚悟していた。そのせいでこの数ヶ月は、ヴァルナルに対して以前のように親しく接することができなかった。認めたくないというより、どう話せばいいのかわからなかった。だから遠ざけて後回しにするしかなかったのだ。

 だが、もう逃げられない。


 オヅマはヴァルナルを睨みつけるように凝視して、問いかけた。


「………母さんに、言ったんですか?」

「あぁ。一応、了承もしてもらっている」

「母さんが? そんなの聞いてない……」


 オヅマはこの数日の母の様子を素早く思い返す。しかし、まったくそれらしい素振りはなかった。母の性格であれば、そんな重大事を息子である自分に隠しているだろうか…?

 だがヴァルナルはすぐに、その疑問に答えた。


「ミーナには私からお前に話すと言ってあったんだ」

「あぁ…」


 ヴァルナルから口止めを頼まれていたのであれば、わからなくもない。

 それでもオヅマは複雑だった。

 思わず溜息ともつかぬ吐息がもれる。


「オヅマ」


 俯いて黙り込んだオヅマに、ヴァルナルは言葉を選びつつ話しかけた。


「お前が、私を父親として認めないだろうとはわかっている。だが、私はお前達と家族になりたいと思っているんだ。さっき…ミーナに厳しい態度になったのも、正直、腹が立ったからだ。おそらく理由はお前と同じだ」


 オヅマはピクリと顔を上げる。厳しい顔のヴァルナルと目が合った。


「………あの野郎のこと、殴りたくなるくらい…ですか?」


 さっきまでの気持ちが再燃しかけて、思わず口汚くなる。

 しかしヴァルナルは咎めることもなく、頷いた。


「……誰もいなけりゃ半殺しにしてただろうな」


 ヴァルナルは口元に笑みをたたえつつ、グレーの瞳は剣呑な光を浮かべていた。

 さっきのことを思い出したのか、手の甲に筋が浮かぶほど強く肘置きを掴んでいる。


「………」


 不思議なもので、目の前で自分よりも怒り狂っている人間がいると、対照的に気持ちが落ち着くらしい。

 オヅマはさっきまで冷静に見えていたヴァルナルが、実は相当怒りを秘めていたことに、少々面食らっていた。しかもその理由はオヅマと同じだと聞いて、嬉しいような、よくわからない気分だった。


「俺は……変わりません」


 ようやく出てきたのは我ながら素っ気ない言葉だった。


「母さんが決めたなら、俺は反対はしません。でも、レーゲンブルトここに来た時からずっと、俺の目的は騎士になる、それだけです」

「あぁ…わかっている」


 ヴァルナルは少しだけ寂しく思いつつも、笑って頷いた。

 やはり、オヅマは『父親』を認めないらしい。根強い『父』への不信は、先年亡くなった養父からの虐待だけでなく、自分と母親に手を差し伸べることのなかった実父の薄情も含まれているのかもしれない。


 ヴァルナルはある程度予想していた。

 今は形式的なだけの関係でもよい。時間をかけて育てていくしかない。


「それでいい。私もお前が騎士になることを望んでいる。今は座学ばかりでつまらぬこともあるだろうが、上級騎士になるなら、そうした勉強も必須だからな。頑張ってくれ」


 マッケネンからオヅマが騎士としての爵号を与えられる上級騎士を目指していることは聞いていた。最初は嫌々だった勉強も案外と真面目に取り組んでいて、物覚えもよく、なにより知識を増やすことに貪欲だと。

 これまで教育の機会が与えられず、本人も必要ないからと遠ざけていただけで、実は知能としては同年代の少年らに比べて高いだろう…とは、新たに雇った数学教師トーマス・ビョルネの評価だった。


 オヅマはヴァルナルからの激励に無言で頭を下げた。


「お話は、それだけですか?」


 固い表情のまま尋ねると、ヴァルナルが頷く。


「あぁ。呼び止めて済まなかったな」


 オヅマは立ち上がると、ピシリと姿勢を正した。右手を握りしめて拳をつくると、その腕を直角に曲げて胸の前に突き出し、軽く顔を俯ける。上位者への騎士礼だ。まだ子供ながら、一年の成果で所作はなかなか様になっている。

 そのまま半回転して出て行くのかと思ったが、扉の前でオヅマの足が止まった。


「……どうした?」


 ヴァルナルが問いかける。

 オヅマはしばらく逡巡してから向き直った。


「あの……」

「なんだ?」

「母さんのことなんですけど…」


 オヅマの暗い表情にヴァルナルは一瞬、不穏な予感がした。

 やはり反対なのだろうか…と、顔が強張りそうになりながら、それでも鷹揚に促す。


「うん? どうした?」

「母さんは…自分さえ我慢すればいい、って思っちゃうんです」

「………」

「いつも、そんなふうに我慢ばっかりしてるから、時々、見てるこっちが腹が立ってくるんだけど…だから……あの」


 オヅマはうまく言葉が出てこなかった。

 口籠る少年の姿に、ヴァルナルはフッと微笑んだ。 


「あぁ…そうだな。そういうところは大いにある。お前はよくわかっているな、オヅマ。だから、ずっと母親を支えてきたんだな」


 何気ないヴァルナルの言葉に、オヅマは不意に泣きそうになった。


 ずっとコスタスの暴力から母と妹を守ってきた。

 父が死んで、レーゲンブルトここに来ることに決めてからも、自分の選択は合っていたのかと…何度も自問自答した。

 いつも母と妹の幸せを願いながら、自分が母達の人生の行き先を決めてしまったという後ろめたさがあった。だからこそ自分には、絶対に母達を幸せにする責任があるのだと…ずっと思ってきた。


「これからは、私も一緒に支えていきたいんだ。お前一人では、少々荷が重かろう?」


 不思議なことに、ヴァルナルに言われて初めて、オヅマは自分が背負っていたものが重かったのだと実感した。

 軽くなった心がじんわりと温かい。

 涙が浮かび上がってくるのを感じて、オヅマはグッと唇を噛みしめた。


「…………失礼します」


 そのまま返事ができずに、頭を下げて執務室から出た。


 我ながら素直じゃないとは、わかっている。

 ヴァルナルは一方的にオヅマらから母を取り上げようとしているのではない。一緒に歩もうとしてくれているのだ。

 その心遣いをオヅマは十分に感じ取りながらも、単純に喜べなかった。


 一方、ヴァルナルはオヅマが出て行った途端に、ヘタリと背もたれに体を投げ出してホゥと息を吐いた。

 相当に緊張していたらしい。

 それでも顔は自然と緩む。


 思っていたよりも強硬な反対はなかった。

 少なくとも嫌われてはいないようだから、まだ望みはあるだろう。……

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