第百五十話 ヴァルナルの苛立ち

「それで…何があった?」


 ヴァルナルが尋ねると、ミーナが再び頭を下げて謝った。


「申し訳ございません。自らの職務を全うせずに、領主様にご迷惑をおかけしました」

「謝罪はいい。何があったかを聞いている」


 ヴァルナルの少し冷たい言い方に、ミーナは困ったように言い淀む。胸が引き絞られるように痛み、泣きそうになった。


「あの野郎が母さんを呼びつけたんです」


 代わりに憮然として答えたのはオヅマだった。

 ミーナはオヅマを見て、軽く首を振って黙るように目で訴えたが、オヅマは気づかないフリをした。


「あの野郎、しつこかったんです。これまでにも何度か母さんを呼びつけて。だから、また呼ばれて行ったって聞いて、俺、嫌な感じがしてあの野郎の部屋に抗議しに行ったんです」

「抗議をしに行ったというより、喧嘩を売りに行った…と言ったほうが正しいと思うがな」


 冷静にたしなめるカールに、オヅマはカッとなった。


「だって、母さんが叫んでたんだ!『やめてください』って」


 ヴァルナルは即座に立ち上がった。


「なにかされたのか!?」


 おそらく剣を持っていたら鞘から抜いていたことだろう。それくらいヴァルナルの全身から怒気が溢れていた。


「……なにも。腕を掴まれて…少し…驚いただけです」


 ミーナはヴァルナルの顔をまともに見れなかった。静かに申し述べる声も震える。


「母さんは悪くないです。あの野郎が…」


 またオヅマが割り込むと、ミーナはオヅマの服を引っ張った。黙るように、無言で諭す。

 オヅマは唇を噛みしめると、そっぽを向いた。


 ヴァルナルは再び椅子に腰掛けると、頭を垂れるミーナを見つめ、ひどく苛立った。

 黒角馬の研究班が来て、その人数の多さに領主館の人手が足りなくなっているのはわかっている。ミーナが忙しくしている同僚を手伝おうと思うのは当然のことだった。だが……


「ミーナ…顔を上げてくれるか?」


 ヴァルナルは言ってから、顔を上げたミーナを見つめて深く溜息をついた。


貴女あなたにお願いしているのは息子の世話だ。そのことはわかっていると思う。今回、使用人が足らず、皆が忙しいので手伝おうとした貴女の気持ちを否定する気はない。厨房での手伝いなどは随分助かっていると、ソニヤからも聞いている。それについては許そう。だが…ギョルム卿に呼ばれたから行く、というのは手伝いではない」


 ミーナは恥ずかしくなった。

 召使いとしての領分を、ミーナは十分にわかっている気でいたが、ヴァルナルに諄々と諭されると、自分が出過ぎた真似をしたのだと身に沁みてくる。


「ギョルム卿からの言葉を貴女に伝えた人間にも問題はあるが、私は貴女には毅然と断ってほしかった。それを問題視する者がいるのであれば、私が秩序を教える必要があるだろう。このレーゲンブルトにおいては、客人の用命に応えることよりも、私の下知に従うことが最優先とされるべきだ。違うか?」

「……その通りにございます」

「では、自らの職責を全うするように。………下がりたまえ」


 ヴァルナルが重々しく言うと、ミーナは深く頭を下げてお辞儀した後に執務室から出て行く。扉が閉まる前のミーナの小さく萎んだ背を見て、ヴァルナルは拳を握りしめた。


 本当は―――――


 あのか細い体を抱きしめて、怒鳴りつけてやりたかった。

 なんであんな男のところに行ったのか、と。

 召使いという立場上、断りづらかったのはわかるが、その優しさを誰にでも向けてほしくはない。ましてたびたび部屋に呼びつけてくる男など、下心があるのがわからないはずがなかろうに!


「……エッラです」


 黙り込んでいたヴァルナルに、オヅマが言った。顔を上げると、不満げにオヅマは言葉をつなぐ。


「母さんにギョルムの野郎……ギョルム卿が呼んでるから行けって言ってきたのはエッラです。それで自分はのんびり茶を飲んでました」


 ヴァルナルは溜息をついた。

 カールはやれやれと肩をすくめると、ヴァルナルに進言した。


「一度、ちゃんと皆を集めて言っておいた方がよろしいのでは?」

「そうだな。この数ヶ月は色々と目まぐるしくて等閑なおざりにしていた…私も悪いのだ。近く、使用人達には帝都からの研究者らへの対応について、私の方から直接指示することにしよう。彼らはこの館において居候であって、客人ではない、ということも含めてな」

研究班あちらにも、一応言っておいた方がよろしいのでは?」

「そうだな…総勢のまとめ役であるラナハン卿と、学者側からも代表として誰か一人、出てもらおう。騎士の訓練にも支障をきたしているようだし、今回の研究が全てにおいて優先されるなどと考えてもらっては困る」

「執事殿に会合の段取りを頼みますか?」

「いや。ネストリも新たに雇い入れる使用人の面接などで忙しい。すまないが、お前がやってくれ」

「承知しました」


 カールはすぐに執務室を出て行った。

 残されたオヅマは目の前で次々に決められていく物事をただ見ているしかなかったが、領主としてテキパキと処理するヴァルナルの姿に、今更ながら感心していた。

 少しばかり格好良くも見え、引き換え、さっきの自分の行動がひどく子供じみて恥ずかしい。


「あ…じゃあ、俺も…」


 ペコリと頭を下げて出て行こうとするオヅマを、ヴァルナルは呼び止めた。


「待て、オヅマ。お前、授業はどうした?」

「………すみません。無断欠席しました」

「そうか…」


 頷いてから、ヴァルナルは机の上に積まれた書類を見やる。急ぎの案件はなかった。


「これから行っても補講は免れぬだろう。ちょうどいい、話がある。そこに座れ」


 ヴァルナルはオヅマにソファに座るように示す。自分も立ち上がり、オヅマの目の前の一人掛けのソファに腰を下ろした。


「ずっと訊きたかったんだ。シレントゥの、あの倉庫でのことだ。雀の面を被った男と、戦ったのか?」


 ヴァルナルの突然の質問に、オヅマの心臓はドクンと跳ねた。

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