第百四十九話 ギョルム卿
「……なぜ、ミーナがここに?」
ヴァルナルが平坦な声で尋ねると、ギョルムは細い目でジロリと睨んでから答えた。
「
「ギョルム卿、彼女は東塔の召使いではありません。私の息子の世話係です」
「そのようなこと、身共の知ったことではありませぬな。私はただ、帝都にいた頃と同じく、朝のこの時間には美味なる茶を飲みたく思い、この館では一番上手に淹れる者として、彼女を指名したまでのこと。―――それより」
ギョルムはツイ、と小さな杖でオヅマを指した。
「そこな小僧。無礼なる小僧でございますな。勝手に人の部屋に入ってきた挙句、悪口雑言。かような卑しき者を雇わねばならぬとは、まことに北の辺境で領主など…大変でございましょうなぁ。クランツ男爵は」
「何が悪口雑言だ! テメェは母さんに手ぇ出そうとしてただろうが!」
オヅマが怒鳴ると、ミーナは赤い顔を俯ける。泣きそうに目が潤んでいた。
ヴァルナルは怒り狂いそうになった。
衝動を抑え込むために拳を握りしめる。
衝動―――つまり目の前で乱れた前髪に櫛をあて、胸ポケットから小さな鏡を取り出して、自分の姿をまじまじと眺めているぬっぺり頭の男を、半殺しにしてやりたいという―――衝動だ。
「ミーナは領主様の命を受けて、若君の世話係をしております。お茶の用意は東塔の召使いにお願いして下さい」
カールはヴァルナルの殺気を感じて、さりげなくその斜め前に立った。素早くオヅマに目配せする。
オヅマは気づいて頷くと、母の袖を引っ張った。ミーナは困ったように視線をさまよわせたが、ヴァルナルが軽く顎を引いて出て行くように示すと、深くお辞儀して、オヅマと一緒に部屋から出て行った。
ギョルムは出て行ったミーナを名残惜しそうに見送った後、ギロリとカールを睨みつける。
「ここの召使いはまともに茶を淹れることが出来ぬ。まずい」
ギョルムが吐き捨てるように言うと、ヴァルナルはカールを押しのけてギョルムの前に立った。
「では、ご自分で淹れて下さい」
「なんですと?」
「私達はここで、黒角馬の研究の為にあなた方のお世話をするよう公爵閣下から命じられましたが、美味しいお茶を淹れることまで頼まれておりません。なにぶん北の隅にある小さな辺境の土地ゆえ、都のように洗練されたおもてなしなど、とても出来ません」
「なんと!」
ギョルムは杖を口元にあて、あきれたように叫んだ。
「自らの至らぬことを棚に上げて、客に茶の用意もせぬとは! 辺境の片田舎を理由にできるものではありませぬぞ」
「たとえ客であったとしても、この領主館にいて領主の私の許可なく、我が
ヴァルナルは一歩、ギョルムに近寄るとその肩に手を置いた。
「このレーゲンブルトにおいての法は、領主である私だ。領地内での争議は領主の裁量に任せられている。それは皇帝陛下ですらも認めること」
徐々に肩に加えられる力にギョルムは少し眉を寄せながらも、まだ抗議した。
「きさ……くっ、クランツ男爵! 身共は皇帝陛下より任を受けてこの地に来ておるのだぞ! 無礼をして陛下より賜りしこの杖に
「…………」
ヴァルナルはふっと肩を掴む力を緩め、無表情にギョルムを見つめた。灰色の目には侮蔑が浮かんでいたが、ギョルムは気付かなかった。むしろ、沈黙して力を弱めたヴァルナルに、自らの権威が勝ったのだと思った。
ニヤリ、と口の端に卑しい笑みを浮かべる。
「身共の叔父が陛下の侍従であること…お忘れではあるまい? 勝手に陛下のご威光を笠に着るような真似をして、ご不興をかうのは男爵の方であろうぞ」
「………そうかな?」
ヴァルナルは不敵に問い返した。
再びギョルムの肩を鷲掴みにし、穴をあけそうなほどに強く、力をこめていく。
「陛下の威光を笠に着て、驕慢極まりない態度で我が領地の秩序を乱しているのは、貴方の方だと思うぞ、ギョルム卿。さっきから私への言葉遣いも、少々嫌味が過ぎて無礼だ」
「…ッ、痛ッ! 痛いッ、痛いッ! 離せ! 離してくれ!!」
ギョルムはヴァルナルに掴まれた肩に激痛が走って喚き立てた。
ヴァルナルは手を離すと、冷たくギョルムを見下ろした。
「勘違いするな、ギョルム卿。私はレーゲンブルトの領主、グレヴィリウス公爵家の剣、有難くも皇帝陛下より黒杖を賜った帝国騎士クランツ男爵である。分を弁えるべきは私か、
普段は穏やかで寛容なヴァルナルの、今まで欠片も見せなかった領主としての威容に、ギョルムは圧倒された。ブルブルと震えながら謝る。
「……申し訳ございません」
「よろしい。今後、我が下僕への行き過ぎた饗応を求めた時には、領主館より退去願うことになる。重々、承知されよ」
ヴァルナルは極めて丁寧に礼節をもって警告したが、ギョルムを見る目は少しでも文句を言おうものなら、その場で首を捻り潰すくらいの殺気を帯びていた。
ギョルムが真っ青になって椅子からずり落ちそうになっているのを冷たく見下ろした後に、部屋を出て扉を閉める。
「………申し訳ございません」
廊下で待っていたミーナがすぐに謝ってくる。
ヴァルナルは眉を寄せた。言葉が出てこない。重くなりかけた空気を払うようにオヅマが怒鳴った。
「なんで母さんが謝るんだよ! 悪いのは、あのぬっぺり頭だろ!!」
「オヅマ!」
カールは鋭く諌めたあと、ヴァルナルに執務室に戻るように促した。
確かにここでは人目があり過ぎる。
ヴァルナルが歩き出すと、カールに合図されミーナも従う。当然のようにオヅマもミーナの後についてくる。
執務室に戻るまでの間、ヴァルナルは一言も話さなかった。
ひどく長い時間に思えた。
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