第七十八話 オリヴェルの描きたいもの

「あーっ!!」


 大声で後ろから叫ばれて、アドリアンはビクリと肩を震わせると同時に、ここがオリヴェルの部屋であったことに気付く。

 おそるおそる振り向くと、オリヴェルが凄まじい憤怒の形相で、睨みつけていた。反対に隣で笑っていたのはマリーだ。


「あっ、見たんだ! ね、ね、上手でしょ? とっても上手でしょ?」


 オリヴェルが何かを言う前に、マリーはアドリアンのところに走ってきて、ニコニコ笑って早口に尋ねてくる。


「あ……」


 アドリアンは少しだけ気まずいながらも、オリヴェルをじっと見つめてから頷いた。


「うん。とても上手だと思う」


 途端にオリヴェルの顔が真っ赤になる。


「う、嘘つくなっ!」

「嘘じゃない」

「上手いわけないだろッ! 全然っ、全く、全然、見たことの半分だって描けてないんだッ」

「そんなことないってば!」


 マリーが同じように声を張り上げて言うが、珍しくオリヴェルはマリーの言葉にすら激しく首を振った。


「駄目なんだよ、こんなの!」


 言うなりオリヴェルがつかつかとこちらに歩いてきて、キャンバスを取り上げようとする。アドリアンは咄嗟に伸びてきたオリヴェルの手を掴んだ。


「何するんだ、離せ!」

「離したらどうする気だ? せっかくの絵を」

「どうしようが僕の勝手だ! お前に見られて、馬鹿にされるくらいなら、叩いて破って捨ててやる!」


 アドリアンはイラっとなった。右手でオリヴェルの手首を掴みながら、左手でキャンバスを取り上げた。


「返せ!」


 躍起になってオリヴェルは怒鳴る。

 アドリアンの頭上高くにキャンバスをもって行かれて、頭一つ分は身長差のあるオリヴェルには手を伸ばしても届かない。


 アドリアンはあきれたようにため息をついた。


「いい加減にしたまえ。勝手に僕の気持ちを決めつけないでもらいたい。さっきも言ったように、僕はこの絵が上手だと言っている。嘘じゃない」


 いつものようにアドリアンは冷静な物言いだったが、妙に迫力があって、オリヴェルは少し戸惑った。


「………そんなわけ…」

「嘘じゃない、と言っている。僕が君に嘘をつく必要があるのか? 領主様の息子であっても、オヅマ同様、今まで忌憚きたんない付き合い方をしてきたはずだ。それは君も重々承知だろう?」

「君に……何がわかるというのさ」


 オリヴェルはアドリアンの態度にやや圧倒されつつも、これまでの反感はそう消えない。ジロリと睨んで問うと、アドリアンはキャンバスを下ろして、まじまじと間近に眺めながらつぶやいた。


「マリ=エナ・ハルカム……」

「え?」

「だぁれ、それ?」


 マリーが尋ねると、アドリアンは絵を見つめたまま説明する。


「ただ見たままを捉えて絵にするのではなく、自分の心に感じたものも絵にする……そういう創作理論を提唱した画家だ。女の画家ということもあって、あまり知られてないけど、僕の母が後援者パトロンだったから家にいくつか絵があって……」


 言いかけてアドリアンはハッとなり、あわてて口を噤んだ。

 チラとオリヴェルとマリーを見る。オリヴェルの方は、怪訝けげんな顔でアドリアンを見ていたが、マリーは訳がわからないようだった。

 アドリアンは軽く咳払いしてから続けた。


「つまり、君は彼女と同じような考え方なんだろう。僕やマリーからすれば、君の絵は十分に上手だ。おそらく誰の目から見てもそうだ。でも君は、君の目で見て、君の感じた全てを絵にこめたいのに、それができないから下手だと思うし、全然できてないと思ってしまうんだ」

「…………」


 オリヴェルはポカンとなった。

 今まで自分の中にあった形にできないモヤモヤしたものが、アドリアンの言葉によって、ようやく目の前に現れたかのようだ。


「実際に、マリ=エナ・ハルカムの絵を見れば、君なら何か感じるところがあるのかもしれないけど……」


 アドリアンは話しながら、公爵邸に頼んで一枚、送ってもらおうかと思案する。

 おそらく飾ってあるものの他に、彼女が残していった絵が倉庫にあるはずだ。

 しかしすぐに無理だと諦めた。今は自分は罰を受けている身だ。父が許すはずがない。

 フッと暗い顔になって俯いたアドリアンを見て、マリーがそっと袖を引っ張った。


「どうしたの? 大丈夫?」


 心配そうに自分を見上げる緑の瞳。

 アドリアンは思わず微笑んだ。

 いつもマリーにやり込められてブツブツ文句言いながらも、妹の言う事を聞くオヅマの気持ちが少しだけわかった。


 そうか……。という存在は、可愛いものなのか……。


 話にだけ聞いたことのある異母妹のことを思い出す。彼女も確かマリーと同じ年頃ではなかったろうか……?


「アドル…君は…一体…?」


 オリヴェルは今になってようやく、アドリアンの正体について考えていた。

 父の知り合いの息子だと聞いていたが、話の内容や、アドリアン自身の持つ妙に落ち着いた振る舞いといい、およそそこらの貴族の若君とも思えない。


 アドリアンはオリヴェルの質問には答えず、キャンバスを差し出した。


「この絵が完成したら、僕がもらいたいくらいだ」


 オリヴェルはキャンバスを受け取って、まじまじと眺める。

 やっぱり、自分ではまだまだ下手だ。あの時の感動の半分も、この絵からは感じ取れない。


「あら、駄目よ。アドル。この絵は私が貰うの。これの前に描いてた絵はお兄ちゃんにあげる予定なのよね? オリー」


 マリーが言うと、アドリアンはクスリと笑みを浮かべた。


「なんだ、オリヴェル。君、まだ一枚も発表していないのに、信奉者ファンが三人もいるんだな」

「三人?」

「マリーと、オヅマと、僕と」


 オリヴェルは真っ赤になった。

 素直に言えば嬉しいのだが、今までの経緯もあって、アドリアンにどういう顔をすればいいのかわからない。


 隣で二人の様子を見ていたマリーは満面の笑みを浮かべて言った。


「やっぱり私の言った通りだったでしょ、オリー。アドルは素直で物知りだから、ちゃんと見て、ちゃんとしたこと言ってくれるって」

「え……?」


 アドリアンはマリーの言葉に驚いた。

 素直? 自分が? 一度もそんなことを言われたことがない。


 一方、オリヴェルは絵とアドリアンを見比べてから、小さな声でようやく勇気を出す。


「あ……あり、が、とう」


 アドリアンはまさか礼を言われるとも思わず、その事にも目を丸くした。

 しかし、こちらの反応を窺うように下から見上げてくるオリヴェルに、ニコと微笑みかける。

 別に大したことを言ったわけでもないが、オリヴェルの自信に繋がったのならば何よりだ。


 オリヴェルの方も、オヅマ以外にはいつも無表情なアドリアンにいきなり微笑まれて、びっくりしながらドキリとなった。

 今まで冷たさすら感じていた赤っぽいとび色の瞳が、急に優しい物柔らかな印象に変わる。

 整った顔立ちのせいもあって大人びた印象だったが、笑った顔は同じ年頃の少年らしい屈託のないものだった。


「アドル…君って……」


 オリヴェルが胸の奥で考えていたことを尋ねようとした時、ドアが勢いよく開いて、オヅマの無遠慮な大声が響いた。


「おーい、チビ共。今日はイチジクのパイだぞ。早い者勝ちだからな~」

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