第七十六話 おしゃべり騎士達の噂話(2)

「ミーナだ」


 簡潔な答えに、アドリアンは聞き返した。


「ミーナ? オヅマのお母さんですか?」


 アルベルトはパンを口に含んで頷く。


 アドリアンはしばらく考えて、ハタと思い至った。

 領主館の中で、元々公爵家で働いていた執事などを除いて、地元レーゲンブルトで雇用された使用人はすべてアドリアンが公爵の息子であることを知らない。

 無論、それはオヅマやマリーも、ヴァルナルの息子であるオリヴェルでさえ知らされていなかった。

 しかし、オヅマの母親だけは例外的に知っている。なぜなのかと思っていたが……


「そういう事だったんだ…」


 アドリアンはつぶやきながら、オリヴェルの部屋で何度か会ったオヅマの母親の姿を思い浮かべた。


 淡い色の金髪に、オヅマと同じ薄紫色の瞳。西方からの血が混じっているという、やや褐色の肌は、いつもつややかだった。確かに美人である。帝都の貴婦人達の中にいても、おそらくちょっと目立った存在になるだろう。

 それに容貌の美しさだけでなく、折々ににじみ出る所作の典雅さは、正直、こんな田舎にいるのが不思議なくらいだ。


「オヅマはおそらく、領主様の気持ちを知ったのだろう。それで自分はどうすればいいのか、決めかねているのかもしれない」


 普段は無口なアルベルトは、実のところ人の観察にけている。その結論にマッケネンは内心で頷いたが、アドリアンは首を傾げた。


「どうすれば……って、オヅマは男爵のことを尊敬しているのだから、自分の母がその男爵の妻になるなら、喜ばしいことじゃないのですか?」


 その問いに答えたのはマッケネンだった。


「騎士として憧れるのと、自分の父親になるってのは、少々勝手が違うからな」

「そう……なんですか?」

「オヅマの死んだ父親はロクでもない男だったらしいからな。子供相手に平気で暴力を振るうような奴だったそうだ。そのせいでオヅマは父親ってやつに、どうも疑心暗鬼なところがある」

「アドル、一緒に暮らしているのだから、オヅマの背中の火傷痕やけどあとを見たことがあるだろう?」


 アルベルトが珍しく尋ねてくる。

 アドリアンの脳裏に、すぐにオヅマの痛ましい火傷痕が浮かんだ。背中の右上半分の引きった赤い肌。理由を聞いたが、オヅマは小さい頃に転んでかまどの火があたったのだ、としか言わなかった。


 頷くと、アルベルトはこれまた珍しくしかめっ面で言った。


「あれはオヅマが妹を庇った時の火傷痕だ」

「マリーを?」

「そうだ! あろうことか、そのロクデナシの父親の野郎が、赤ん坊のマリーをブン投げようとしやがったのを、止めた時に竈の火に当たって火傷したんだと! っとに、胸糞悪い親父だ! 死んで当然だな!!」


 激昂げきこうして言ったのはサロモンだった。


 アドリアンは驚いた。

 普段のオヅマとマリー、ミーナの様子からはそんな壮絶な過去があったことなど露ほども感じられない。むしろ亡くなった父親も含め、ごく当たり前の平和で穏やかな家庭を想像して、自分との違いに少しばかり嫉妬していたぐらいだ。


「まぁ、領主様のことは確定事項でもないから、あまり騒ぎ立てない方がいいだろうな。オヅマも、変声期が来ているようだし、そろそろ難しい年頃に入ってるのさ」


 マッケネンが穏やかに言いながら、周囲で聞いている騎士達にそれとなく釘をさす。

 その上で、アドリアンには難題を出してくる。


対番ついばんとして…アドル、オヅマの相談にも乗ってやってくれ」


 アドリアンが返事しないうちに、重ねて「おう、頼むぞ」とサロモンが言うし、鉄面皮のアルベルトも無言で頷く。



 ……そんな訳で、騎士団が雪上せつじょう野営やえいに向かった後、アドリアンはひとり悩んでいた。

 誰かの相談なんて乗ったこともないし、そもそもオヅマは相談なんてしてくる人間でもない。それに悩みを打ち明けてくれるほど、自分が信頼されているとは思えなかった。

 むしろ、やたらため息をつくアドリアンに、オヅマの方が尋ねてくる。


「なんだよ? なんか気になることでもあんのか?」

「いや……特に何も」

「っとに、最近はなくなったと思ってたのに、まーた、ひしゃげたパンみたいな顔しやがって」

「…………」


 アドリアンはぎりぎりで苛立つ感情を抑えた。

 どうして素直に同情させてくれないんだろうか……は。 

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