第四十七話 公子と小公爵

 主な会場となっている広大な芝生の敷き詰められた園庭からは、少し離れた薔薇バラ園の中での出来事であったようだ。


 グレヴィリウス公爵の長男であるアドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス小公爵は、苦手な人混みを避けて、ひとり、人気のない薔薇園を散策していた。

 その姿を見かけたのが、ランヴァルト大公の息子であるシモン公子と、その近侍の少年達だった。


「おや、小公爵はこんなところで誰ぞと逢引あいびきでもするのかな?」


 シモンがおどけた口調で言うのを、アドリアンは無視した。

 正直なところ、そんな言葉を初対面の、しかも十歳とおの子供に言ってくる段階で、自分とは合わぬ部類の人間だということはわかる。見たところ自分よりは三つ、四つ年上のようだが、年上ということ以外での礼儀を必要とする相手ではない。


 シモンの方は、元々、初めて父である公爵に伴われて社交の場にやって来たアドリアンが、美男の父と瓜二つの容貌で、同じ年頃からやや年上の令嬢に至るまで、視線の的となっていることに猛烈な敵愾心てきがいしんを持っていたので、当初から仲良くするつもりもない。


「やれやれ。小公爵はかような場は初めてとみえる。僕に対して挨拶もなしとは……グレヴィリウス公爵家は、まともに息子の教育もしていないようだな」

「……存じ上げております」


 アドリアンは面倒に思いながら、シモンの胸元にあるブローチを見る。

 雄牛と鉤爪かぎづめの鎖、椿の花の意匠は、モンテルソン大公家の紋章だ。

 実のところ、その時点でアドリアンは相手がどういう身分であるかを知った。内心では少々まずいことになったと思いつつも、表情は日頃からの鍛錬たんれんの成果で、平然としたものだった。


「シモン・レイナウト・シェルバリ・モンテルソン公子におかれましては、ご機嫌麗しく……」

「まったく麗しくない」


 シモンは憮然として言った。

 周囲の近侍達も、冷たくアドリアンを睨みつける。

 自分よりも明らかに年上の人間に囲まれながらも、アドリアンは無表情なままだった。


「ご不快にさせたのであれば、失礼します」


 素っ気なく言ってアドリアンはその場から立ち去ろうとしたが、その背に向かってシモンが明らかな侮蔑ぶべつを含んで叫んだ。


「さすがは、あの母にしてこの息子だ! 罪人の娘などにたぶらかされて、グレヴィリウス公爵も落ちたものだな」


 静かに、アドリアンの怒りが沸騰した。踵を返すと、再びシモンの方へと歩き出す。目の前に立って、じっとりと見上げた。

 シモンは自分よりは年下であるはずのアドリアンの殺気を帯びた様相に、多少たじろいだが、なんとかフンと鼻でわらった。


「なんだ、小公爵。真実を言われて腹が立ったのか?」

「……撤回して下さい」

「なんだと?」

「あと一度しか言いません。撤回と謝罪を」


 言いながら、アドリアンは握りしめた拳の中で、爪が皮膚を破って血が流れてきたのを感じていた。

 しかし目の前のシモンと、近侍達は変わらずヘラヘラわらっている。


「謝罪だって? 僕が何を謝る必要があるというんだ? お前の母親が盗人の娘だというのは本当のことだし、お前が……」


 シモンが最後まで言う前に、アドリアンの握りしめていた拳が開いて、バシンとその頬を打った。

 まさか手を出されると思っていなかったシモンは、驚いたままよろけてその場に尻もちをついた。ぶたれた頬をそっと触ると、ぬるりと指に血がつく。


「ギャッ!」


 シモンは情けない声をあげた。


「シモン様!」

「大丈夫ですか?!」


 近侍達があわててシモンを取り囲み、血のついた頬をハンカチで押さえる。

 実際には、その血はアドリアンが拳を握りしめていた時のもので、シモンの頬から流れたものではなかったのだが、恐怖と驚愕で誰も冷静な判断ができなかった。


「貴様……」


 シモンは怒りのあまり声が震え、言葉が出ない。

 アドリアンはみっともなく地面に座り込んだ年上の少年を、冷たく見つめていた。その目には既に激昂げきこうは去っていた。だが、決して許すことのない強靭で冷徹な光が、静かにシモンを見据えている。


「亡くなった人を侮辱することは、最も恥ずべき行為です。シモン公子」


 アドリアンが静かに抗議すると、震えて声の出ないシモンの代わりに、近侍達が口々に文句を言った。


「何を言う!? 貴様こそ、公子様に謝れ!」

「そうだ! たとえグレヴィリウス公爵の息子であったとしても、大公の息子たる公子様に、何たる無礼だ!」


 騒ぎ立てる近侍達のお陰でか、シモン公子はようやく人心地ひとごこちがついたようだった。


「アドリアン・グレヴィリウス! 貴様、ただで済むと思うな!! お前ら、コイツの頭を下げさせろ!!」


 シモンが命令すると、近侍らは素早くアドリアンを囲んだ。

 背後にいた一人が肩を掴もうと手を伸ばしたところを、アドリアンはクルリと回転しながら蹴りつける。彼らは反撃をくらうとは思ってなかったらしい。薔薇の木を支える柱にぶち当たって、気を失った少年を見て、左右の少年達は青い顔を見合わせて青くなった。

 彼らにとって幸いだったのは、この時、割って入ってくれた大人がいたことだ。


「おやめください!」


 迷路のようになった薔薇園の隅でようやく、公爵の息子の姿を見つけたヴァルナルは、大声で少年達の喧嘩を止めながら、素早くアドリアンを守るように立ち塞がった。


かしこくも皇帝陛下の臨席される園遊会で、かような所行しょぎょうはお控え下さい」


 さっと見回し、尻もちをついたシモンの胸の紋章を見て、ヴァルナルは膝をつき頭を下げる。


「公子様。どうかこの場は寛大な心で……」

「そいつが先に手を出したのだぞ!」


 シモンは遮ってヴァルナルに怒鳴りつける。

 ヴァルナルは振り返って、アドリアンを見た。

 公爵の生き写しであるかのようなその面差しに動揺は見当たらない。鳶色とびいろの瞳は、じっとシモンを凝視したままだ。


「事情は存じ上げませぬが、ここは皇帝陛下の庭でございます。騒動があってはなりませぬ」

「知ったことか!」


 シモンはようやく立ち上がると、どうやら自分よりも目下であるらしいヴァルナルを蹴りつけようと足を上げた。

 しかし今度現れたのはグレヴィリウス公爵と、ランヴァルト大公の側用人であるヴィンツェンツェだった。


「足を下げられよ、公子…」


 年経た老人のしわがれた声に、シモンはビクリと止まった。


「う…ヴィンツェ…」


 強張った顔でつぶやきながら、ゆっくりと足を下ろす。


「そこの御仁ごじんの言う通りでありましょう。恐れ多くも皇帝陛下の御庭おんにわの、新年を祝う園遊会にて無粋な騒ぎを起こすものではありませぬ」

「っ…でも、コイツが先に手を……」


 シモンはすっかり意気消沈した様子で、ビクビクとヴィンツェンツェ老人に言い立てたが、皺の深い老人の表情は変わらない。濁った青灰色の瞳は斜視であるせいで目が合わないのだが、不気味な迫力があった。


「大公の公子であればこそ模範となるべき…と御父上からの忠告があったばかりというのに、まだ理解できぬようでございますな」

「……ち、父上には言わないでくれ!」

「…………」


 ヴィンツェンツェ老人は答えず、ギロリとシモンの近侍の面々を睥睨へいげいした。


「あそこでノビてる馬鹿を連れてくるように。――― 公子、参りますぞ」


 そのまま立ち去ろうとして、グレヴィリウス公爵の隣を通り過ぎざま、ボソリとつぶやく。


此度こたびのことは、両成敗ということで」

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