第四十五話 エリアス・グレヴィリウス公爵

 その後のヴァルナルの行動は早かった。

 帝都からの早々の帰郷を決めて、公爵に願い出たのだ。

 いつもであれば、他の貴族同様に実織みおりの月に入ってから、公爵と一緒に公爵の本領地・アールリンデンに向かい、そこからレーゲンブルトに帰るので、公爵一筋・忠誠心の厚いヴァルナルにしては珍しい行動と言えた。

 公爵の側に控えていた家令かれいのヨアキム・ルンビック子爵は、ジロリとヴァルナルを睨みつけた。


「勝手な申し出ですな。まだ、実織みおりの月も迎えておらぬ時期から…公爵閣下はまだ帝都にて仕事もおありだというのに…」


 鹿爪らしい顔をした子爵の物言いに、ヴァルナルはあくまで平身低頭だった。


「申し訳ございません。去年の春先に例の紅熱病こうねつびょうの流行がありまして、畑の様子を見て回る時間があまり取れなかったものですから…秋の収穫に問題がないか少々気になりまして…」

「左様なことは、行政官に任せればよろしいことです」


 ヴァルナルのように実際に農夫と会話する領主などほぼいなかったので、子爵のは嫌味ではなく、当然の文句だった。

 エリアス・クレメント・エンデン・グレヴィリウス公爵は、家令と配下領主のやり取りを今年度の帝都における公爵邸の予算案に目を通しながら聞いていたが、とりあえず許可の印を押してサインをすると、フゥと息をついて眼鏡を外した。


「もう…帰るのか?」


 静かに尋ねたその声に特に哀惜はない。だが、透き通ったとび色の瞳には少しばかり楽しげな光が浮かんでいた。  

 ヴァルナルは畏まって頭を下げると、同じことを繰り返す。


「は…去年は例の紅熱病の流行がありまして、慌ただしくしておりました故、領民と話す機会もなく、十分に畑を見回ることもできませんでしたので、秋の収穫に問題がないか気になりまして。もし、収穫量が例年よりも極端に少ないようでしたら、備蓄分のことも含めて商人らとも交渉せねばなりませぬし…」


 ヴァルナルは嘘がつけないので、これは本心であった。ただ、それが主たる理由かと問われれば否と言うしかない。


「ふ…それだけか」


 かすかに公爵が笑う。

 トントントン、と机を人差し指で三度叩くと、家令が一礼してその場から立ち去る。

 公爵は葉巻箱ヒュミドールから葉巻を取ると、慣れた仕草で火をつけた。軽く味わって煙を吐きながら、ギシリと背をもたせかける。


 ヴァルナル・クランツ。

 今や帝国に並ぶ者なき勇士だが、現在公爵の目の前に立っている男からそうした威容は感じない。相変わらずどこか田舎臭さの抜けない、五歳年下の凡庸ぼんようそうな男だ。


「用兵においてそなたの迅速なることは認めるが、まさか今日いきなり発揮することでもなかろう。先の帰参は許す。しかし廿日はつかの皇家主催の園遊会の欠席は認めない。陛下から是非にと言われている」


 ヴァルナルはすぐに「はっ」と同意する。公爵からの命令だけでも服することは当たり前であるのに、まして皇帝陛下の思召おぼしめしを無視するわけにはいかない。

 公爵は少し苛立たしげに、ほとんど黒髪にも見えるダークブラウンの髪を掻き上げた。


「亡くなられたシェルヴェステル殿下のこともあって、陛下としては尚一層、優秀な部下を息子につけておきたいのだろうな……」

「アレクサンテリ皇太子殿下であれば、これから私などより若い世代に優秀な者がおりましょう」

「そうだな……そなたの息子はどうなのだ?」

「オリヴェルは……」


 ヴァルナルは言いかけて、病弱な息子の姿を思い浮かべ、首を振った。


「最近は随分と体調も良くなってきたようですが、まだ帝都に来るまでの体力もないでしょう」

「そうか…残念だな」

「我が息子よりも、アドリアン小公爵様が十二分に皇太子殿下の補佐たすけとなることでしょう」


 公爵は返事をしなかった。

 眉間に刻まれた皺が更に深くなり、溜息まじりに煙を吐き出す。


「男爵はいつも、我が息子を褒めてくれるな」


 ヴァルナルはピクリと身じろぎする。

 公爵がヴァルナルのことを『男爵』と呼ぶ時は皮肉が混じっている。


「公爵閣下、アドリアン様は優秀な方です。私の課した修練も文句一つ言わずにこなしておいでです」

「あぁ…そうか」


 公爵は興味なさげだった。

 この息子に対する投げやりな態度に、ヴァルナルは意見したくとも出来なかった。

 自分もまた、病弱な息子の世話をほとんど他人に任せて放り出してきたのだから。いや、今だって、自分はミーナに任せっぱなしだ。ミーナの献身と好意に甘えている。

 ふと、ヴァルナルは自分を省みた。

 こんな男にミーナが心動かされることなどあるだろうか。

 一人の人間として向き合った時に、自分は胸を張って誠実な男だと言えるのだろうか。たった一人の息子すら気遣うこともできない…何と話しかければいいのかすらわかってない、不甲斐ない男だ。


「…ヴァルナル」


 やや強く呼ばれて、ヴァルナルはハッと顔を上げる。


「は…っ」

「……最近、多いな。心ここにあらず、か」


 公爵はふぅと紫煙をくゆらしながら、若干興味深げにヴァルナルを見つめる。

 再びヴァルナルは頭を下げた。


「……申し訳ございません」

「ふ…構わぬ。お前に物思いさせる相手がいるなら結構なことだ。今更のことだが、お前の先妻については、私も不見識であった…」

「いえ! 私めが至らなかっただけでございます。閣下には色々とご配慮頂いたのに、気をわずらわせて申し訳ございません」

「そうだな。配下の者の婚姻などは、本来私の口挟むことではないが……」


 ハァと、公爵はまた苛立たしげに煙を吐き出した。

 そう。他の配下…例えば同じ部下であるルーカス・ベントソンなどが何度結婚して離婚しようとも、大して気に留めず、心配もないのだが、ヴァルナルに関しては少々複雑な事情もあって、公爵は細心の注意を払っていた。

 それは皇帝がヴァルナルを直属配下に望んだことで、皇帝の歓心を買う為に縁戚になろうとする不純な輩を排する必要があるからだ。


 ヴァルナルが南部の紛争を見事に収束させて帝都に帰還した後、皇帝はとうとう黒杖こくじょう叙賜じょしを決定した。

 身分低くとも騎士として技と修身を極めた者にとって、最上の名誉である黒杖。

 それまでも何度か声がかりがあったのを、ヴァルナルは恐縮して断っていたが、皇帝は宰相以下の臣下にも根回しして、受け取ることをほぼ確定させた。

 黒杖を受けた以上、ヴァルナルが皇帝直属になることは既成事実化していたのだが、式典においてヴァルナルは皇帝からの直参じきさん申し出を断った。


「恐れながら申し上げます、陛下。私一人を臣下とすれば、いざというときに陛下を守るのは私一人ですが、公爵閣下の元にあれば、私は閣下と共に陛下をお守りいたします。二人だけではございません。公爵麾下きかの騎士団の精鋭全ては、陛下の為に命を尽くすでしょう」


 その言葉と同時に、式典に加わっていたレーゲンブルト騎士団を含め、すべてのグレヴィリウス公爵家配下の騎士団の騎士達が一同に膝をついて最上位の礼を示した。

 皇帝は表情を変えることなく、しばらくその様子を黙って見ていた。その間に多くの計算をしたに違いない。


 己が威信を否定したかに思えるヴァルナルの申し出。

 帝国において一、二を争う公爵騎士団の団結。

 帝国千家と呼ばれる貴族の代表格であるグレヴィリウス公爵家を支持する派閥。

 公爵家と皇家こうけとの反目を奇貨きかとして帝国内に内訌ないこうを生じさせようとする他国勢力……

 そうして最終的に、今ここにいる者達に示すべき自らの度量。


 ため息と共に皇帝は微笑んだ。

 周到に用意した画策も、結局は純真で誠実な騎士の前で無力であったことを思い知ったかのように。


「ふ…む。確かに、クランツ卿の言う事はもっともである」


 静かに頷いた皇帝は、しかし黒杖の授与は行った。それだけでも、皇帝の威信を見せつける必要があったから。名誉というのは、実際には与えられる側でなく、与える側の権威づけということだ。


 以来、公爵と皇帝の間には微妙な駆け引きが行われつつも、表向きは穏便な関係性となっている。

 しかし未だにヴァルナルを利用して、公爵家と皇家を離間 りかんさせようとする輩はいる。そうした者にとって、手っ取り早いのは独り者のヴァルナルの妻として、自らの娘などを送り込んでたらしこみ、ヴァルナルを公爵家から訣別けつべつさせることだろう。

 その先手を取って、公爵はそうした心配のない女を補佐官に命じて探させ、ヴァルナルと結婚させたのだが、急場しのぎであつらえた婚姻は結局、一年ほどで終わりを告げた。

 

 ルーカスから聞いたところによると、ヴァルナルが現在、気にかけているのは自分の息子の世話係だという。

 念のために探ったが、元はレーゲンブルト領にある小さな村の未亡人ということで、例のの息のかかった者ではないようだった。

 だとすれば、後はこの男が自力で頑張るしかないのだろう。報告を聞いた限り、なかなか難渋なんじゅうしているようではあるが。


「園遊会が済んだら、神速果敢なるレーゲンブルト騎士団の名のままに、帝都を駆けて帰るといい」


 公爵はそう言うと、葉巻を灰皿に置いた。

 ヴァルナルはこうべを垂れて、直角に曲げた右腕を前に突き出して礼をする。


「ハッ! ご配慮、ありがたく」


 短く言ってヴァルナルが部屋を出た後、公爵は少し憂鬱な目で壁に架けてある小さな肖像画を見つめた。

 そこには十年前に亡くなった妻が微笑んでいる。

 死んだのはついこの間のように感じるのに、彼女の不在の長さを思うと、とてつもない虚しさが押し寄せてくる。


貴女あなたの言う通りに……リーディエ」


 つぶやいた声は、いつも威厳に満ちた公爵しか知らぬ人であれば、別人だと思うほどに、ひどく弱々しかった。

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