第二十五話 オリヴェルの小さな望み

 雨の日と、月に一度の休養日が重なって、オヅマは久々にオリヴェルに会いに来ていた。

 不思議といつでも会えると思うと、足が遠のく。

 オリヴェルのお気に入りはマリーだし、今はミーナにもついてもらっているので、自分はそんなに必要でもないだろうと思っていたのだ。


「やっと来た」


 しばらくぶりに会ったオリヴェルは、オヅマを見るなりむくれた顔になった。


「なんだよ? またぶっ倒れて、おんぶされたいのか?」


 オヅマがからかいながら言ったのは、例の執務室での一件の後、三人は抱き合って喜んだのだが、気が緩んだオリヴェルは急に力をなくして倒れ込んでしまったのだった。意識を失うまでではなかったが、足に力が入らないというので、オヅマがおんぶして部屋まで運んだのだ。

 紅熱病こうねつびょうのことがあって、館には公爵家から送られた医師が常駐していたので、いつもの医者を呼ぶまでもなく、診察してもらえた。


「おそらく急に走ったからでしょう。まだ体を動かす準備をしないうちから、無茶をすると、体が対応できずに力がなくなってしまうのです」


 まだ年若い医師は、オリヴェルに食事を十分に食べて、少しずつ体力をつけていくように助言した。

 それまでオリヴェル専属の老医師はとにかく寝ておけ一辺倒であったが、帝都のアカデミーを卒業したばかりの、新たな知識を身に着けた医師は、まったく違った診断を下したのだった。

 彼は紅熱病が鎮火していくと、公爵の本領地に戻っていったが、ヴァルナルの要望で一月に一度は往診に来てくれることになった。


「もうおんぶなんて出来ないさ。随分食べるようになって、太ったからね」


 オリヴェルはふん、と肩をそびやかしたが、オヅマはつかつか寄ると、あっさり持ち上げた。


「うん。ま、多少重くなったな」

「おろせ! 馬鹿!」

「おぅ、そんな言葉言うようになったか。覚えたか? ク・ソ野郎だぞ、クソ野郎。ちなみに女に向かって言う時は……」


 スラングを教えていると、マリーが思い切りオヅマの足を蹴った。


「オリヴェルにヘンな事教えないでよ!」


 オヅマは痛みに耐えつつ、そっとオリヴェルをおろす。


「痛ェだろ! オリヴェルごとひっくり返ったらどうすんだよ、お前」

「お兄ちゃんはそんなことしないでしょ」


 振り返って怒る兄に、マリーはにっこり笑って言う。ますますこまっしゃくれてきた。


 オリヴェルはギャアギャアとわめくオヅマを見て、溜息をもらした。

 ここのところは自分もミーナが作ってくれる(オリヴェルの食事に関してだけ、いまだにミーナが調理を担当していた)料理のお陰で、好き嫌いも少なくなり、食べる量が増えた。体もだいぶ大きくなってきたと思っていたのに、オヅマは会うたびごとに背も伸び、体つきはどんどん鍛えられたものになっていく。

 騎士団で訓練を受けているのだから、当たり前なのだろうが…。


「そういや……母さんは?」


 オヅマはキョロキョロと見回した。

 これだけ大声で喋っていて、ミーナの叱言こごとが聞こえてこないのは不思議である。いつもなら、オリヴェルを持ち上げた段階で叱られ、クソ野郎の段階で軽く頭を小突かれていたはずだ。


「母さんなら領主様にお茶をれに行ったわ」


 マリーが当たり前のように言う。


「お茶ァ? そんなのネストリか、他の女中がやる仕事じゃないか」

「よくわかんないけど、母さんの淹れたお茶が美味おいしいんだって」


 オヅマはふとソニヤの言葉を思い出した。



 ―――― ミーナは領主様の奥方になるであろう!



 ブンブンと首を振って、追い出す。

 一体、何を言い出すんだ……あのおばさんは。


「たぶん、僕のことを色々と聞いてるんだと思うよ。父さんはいつも人から僕の話を聞くから…」


 オリヴェルは補うように話してくれたが、その顔はさびしげだった。


「お前が直接話せばいいじゃないか、領主様と」


 オヅマは軽く言った。「あの時みたいに、執務室でも寝室でも、入っていったらいいじゃないか」


「そんなこと……」


 頭を振るオリヴェルの脳裏には、昔、夜中に訪ねた時の父の冷たい顔しか思い浮かばない。


「ムリ、っつーの禁止な」


 オヅマは先手でオリヴェルの言葉を封じた。オリヴェルは詰まって、困ったようにオヅマを見つめる。


「だって…何を話せばいいかわからないよ」

「何だっていいじゃないかよぉ。昨日はマリーと遊びました。マリーが興奮してシッコをもらしました、とか」

「そんなことしてないわよ!」


 即座にマリーが怒って否定する。

 オヅマはうーんと思案した。


「だったら…そうだな、なんかしたいこととか?」

「したい…こと?」

「そ。なんかあるだろ? お前、ずっとムリムリ言ってやらなかっただけで、本当はいっぱいしたいことはあるだろ?」

「……だって…無理だよ」

「ムリ禁止っったろー! 言うだけ言ってみろよ。なんかないのか? この際、空を飛びたいでも、船乗りになりたいでもいいんだ」


 オリヴェルはしばらく考えた後、ポツリとつぶやいた。


「馬に……乗りたい」

「馬?」

「……オヅマが捕まえた黒角馬くろつのうまじゃなくてもいいけど…一回、馬に乗ってみたい」


 オヅマはポンと手を打つ。


「いいじゃんか、それ。言いに行けよ」


 しかしオリヴェルはうつむいて首を振った。


「いい」

「なんで?」

「………」


 オリヴェルは黙り込んだ。

 昔、オリヴェルが赤ん坊の頃から物心つくまで世話してくれていた侍女は言った。



 ―――― お父君は忙しくていらっしゃいます。ご迷惑にならぬよう、静かに、いい子にしておかねば、見捨てられてしまいますよ……



 幼い子どもに刷り込まれたその言葉は、オリヴェルをヴァルナルの前で萎縮させる。一緒に食事がとれるようになっただけ、進歩というものだ。

 それだってミーナがしつこく、


「領主様は本当はとても若君のことを気にかけておいでですよ。毎日のように私にお尋ねになるのですから」


と言ってくれて、ほんの少しだけ勇気が出たのだ。

 しかしミーナはそうは言うものの、たまに夕食を共にする父は、やはり難しい顔で黙々と食べるばかりで、声をかけることはためらわれた。


「……父上が許してくれるワケがないよ。騎士にとって馬はとても大事なものなんだから。子供の我儘で、そんなことを言ったら、叱られるよ」


 オリヴェルの言い訳に、オヅマは首をかしげた。 


「……そうかなぁ?」


 ヴァルナルは我が子を馬に乗せることも許さないほどに狭量きょうりょうな人間だろうか?

 もっともこればかりはオヅマも否、と確定できなかった。

 騎士にとって、馬と剣は命そのものだ。

 ヴァルナルにとっては、騎士としての己が第一であり、その誇りこそがヴァルナルを賢明な領主たらしめている。

 マリーが消沈したオリヴェルに笑いかけた。


「じゃあ、もっともっと元気になってから、馬に乗りましょ。楽しみでしょ?」

「……そうだね。その時には、僕がマリーと一緒に乗ってあげるよ」

「うん!」


 オヅマはふぅと息をついた。

 こういう時のマリーは絶妙のフォローをする。だが、親密な二人にちょっかいを出したくもなる。 


「なんだ? 馬に乗りたいなら、兄ちゃんが一緒に乗ってやるぞ」

イヤ


 マリーはすげなく言った。

 予想外に強い否定に、オヅマはムッとなった。


「なーんでだよ。俺だったら、すぐにでも乗せてやれるぞ」

「お兄ちゃん、だって絶対にものすごく速く走るんでしょ? 私が止めてって言っても、止めてくれないで、ゲラゲラ笑ってそうだもん」

「…………」


 否定できない。

 オリヴェルがクスッと笑った。


お嬢様レディを乗せる時は襲歩しゅうほは駄目だよ、オヅマ。ちゃんと常歩なみあしの練習もしないとね」

「そんなこと一生ないから、どうでもいいさ」


 オヅマは気のない様子で言うと、オリヴェルの部屋から出て行った。

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