第十八話 これは夢だ…

 マリーはいきなりオヅマの看病をしに来たアルベルトに、当然ながら拒否反応を示した。

 無口でずっと表情の変わらない、栗茶色の髪に青い瞳の大男。(アルベルトは騎士団において身長ではゴアンに次いで高かった)


 近付けばすぐにさっと離れて一定の距離を保つようにした。

 男が自分を殴れる位置に入ってこないように。


「俺が怖いのか?」


 アルベルトはしばらくオヅマの看病しつつ、マリーの様子を観察していたが、あまりに自分に対する警戒が強いので、思わず聞いてしまった。


 マリーはオヅマの寝ているベッドの反対の壁にあるベッド(といっても、古びて使わなくなった衣装箱を三つ並べてその上に藁と布を敷いただけの簡素なものだ)の隅に、小さく座り込んでいたが、尋ねてきたアルベルトをじいっと見つめた後に、小さな声で言った。


「……私を……叩かない?」

「………」


 その言葉にアルベルトは一瞬、胸が詰まった。

 オヅマが『妹は大人の男が苦手なのだ』と言っていたことを思い出す。

 その理由が何となくわかって、アルベルトの眉間に深い皺ができた。

 ビクリと震えるマリーを見て、あわてて弁解した。


「いや。気を悪くさせてすまない。怒ってないんだ。こういう顔なんだ」

「………じゃ、笑って」

「…………」


 アルベルトは顔の筋肉を総動員してどうにか笑みらしきものを浮かべてみせたが、マリーはまじまじと見つめた後に、すげなく言った。


「笑ってない」


 アルベルトは辛辣しんらつなマリーの要求にどうにか応えようと頑張った。

 バシバシと頬を叩いて、必死になって口元の筋肉を吊り上げると、


「変な顔」


と、マリーはやっぱりにべない評価を下す。


 その後もマリーの警戒は容易に解かれなかったが、それでもアルベルトがマリーに「絶対に叩かない」ことを約束すると、少しだけ警戒を解いてくれるようになった。

 時々、を教えてくれたりする。


「もっと、ほっぺたの肉を柔らかくしないといけないわよ」


 最終的にはマリーはアルベルトの頬に両手をあてて、ぐりぐり揉んだりするまでに距離は縮まったが、それはまだ先の話。





 オヅマは混乱していた。


 割れた鏡が降ってくる。

 その中に映る光景にオヅマは怯え、震え、泣いた。


 母が父を殺す。母が処刑台の上で、くびり殺される。母の死体を鴉がつつく。


 妹が壊れる。泣き叫びながら、壊れていく。


 何人もの悲鳴。何人もの涙。


 恨みと憎しみのこもった目で、オヅマを見つめる。



 ―――― 生きるんだ、オヅマ。



 男の声が聞こえる。その声も徐々に命を失っていく声だ。



 ―――― あなたが殺したんじゃないわ…



 口の端から血を流しながら、女が微笑む。



 ―――― お願い。どうか…戻ってきて。あなたを…死なせたくないのよ……



 悲しげに呼びかけるコエ



 オヅマは耳を塞いだ。

 何度も何度も言い聞かせる。


 これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ………



 ―――― 素晴らしい、オヅマ! お前は私の……



 狂喜する男の声が響く。


 オヅマは絶叫した。





「……………………」


 叫んで目を覚ましたと思ったが、腫れた喉は声が出なかったらしい。

 浅い息をしながら、天井を見る。いつもの天井だ。変わりない。


 だが ――――

 涙に濡れた瞳に映る景色が夢でないと…誰が証明してくれるだろう?

 あの、悪夢こそが現実ほんとうなのだと……そう思えば、簡単に世界は裏返ってしまいそうな気がする。

 不意に視界にヌッと入ってきた人影に、オヅマはビクッとして固まった。


「大丈夫か?」


 聞き覚えのあるバリトンの声に、オヅマはじっと人影を見つめる。


「あ……」


 アルベルトさん、と言おうとしたが、声が出なかった。

 今になってひどく喉が痛いことに気付く。

 アルベルトは濡れた手拭いで、オヅマの涙をぬぐうと、おけに貯めていた水に手拭いを浸した。


「とりあえず、一山越えたようだ。この後、夕方頃にまた少し熱が出るだろう」


 言いながら水差しの水をコップに注ぎ、オヅマを抱き起こして、飲ませようとしてくれる。オヅマは震える手で、コップをどうにか包み込むように持つと、一口、口に含んだ。


 一つだけ灯った蝋燭のわずかな光りの中で、オヅマは辺りを見回す。

 向かいのベッドの上で、マリーが寝ていた。いつもはそれはオヅマのベッドで、今オヅマの寝ているベッドでミーナとマリーが寝ている。

 わらがチクチクして、おそらく寝心地は悪いだろうが、病気のオヅマにこちらのベッドを譲ってくれたのだろう。


「アル……さん、が看病して…」


 一言、言葉を発するたびに喉がヒリヒリと痛む。オヅマは顔をしかめて、唾を呑み込んだが、呑み込むのすらも痛かった。

 アルベルトはオヅマからコップを受け取ると、テーブルの上に置いた。


「カールからお前の面倒を見ろ、と命令された。まだ夜明け前だ。もう少し寝ておけ。日が昇ったら、何か食べられそうなものを持ってきてやる」

「そ…んな……朝…駆け…」


 オヅマは恐縮した。

 騎士にとって毎日の朝駆あさがけは重要な訓練の一つだ。それに参加できないなど、アルベルトにとっては不本意だろう。

 しかしアルベルトはオヅマの額をゆっくりと押して、そのまま寝かせた。浸しておいた手ぬぐいを絞って、細長く折り畳み、オヅマの額に乗せる。


「上官の命令は絶対だ。今の俺の任務はお前を看護して、全快させることだ。子供がつまらん気遣いをするな。寝とけ」


 ぶっきらぼうな言い方であったが、不思議と安心できる。

 オヅマは目をつむると、ふたたび眠りについた。

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