第二話 起こりうる夢

 その日。

 父は不機嫌だった。


 いつも不機嫌で傍若無人ぼうじゃくぶじんであるが、その日は特に不機嫌だった。それはお金がなくて、酒場に飲みに行けなかったから…という、とても簡単でくだらない理由だった。


 満月の日は大帝生誕節のクライマックスとなる日だ。

 それまでは各自の家々で小さなパーティーなどが開かれたり、貧しい家であっても大帝をまつって祈りを捧げたりしていたのが、満月の日ともなれば、村の中央の広場に夜は禁止されている露店が立ち並び、燃え盛る焚き火の周辺で踊りを踊ったり、酒を酌み交わして大騒ぎする。

 だがそんな祭りを楽しめるのは、あくまでお金を持っている人間だけ。


 当然ながらコスタスはほとんど働かなかったので、家族の収入はミーナが夫に代わって小作人として働き、農閑期のうかんきには針子はりこの内職や、臨時の下女としてかろうじてもらえるわずかな給金しかなかった。

 コスタスはそのわずかなお金ですらもミーナから奪い取って酒代に変えていたが、とうとうその日は金が底をついた。

 夕食は隣からもらった芽の出た芋をつぶして焼いたものだけだった。

 一本だけの蝋燭の灯りが、闇をより深くさせていた。


「ケッ! シケた面を並べやがってよ…!」


 この月が始まってからというもの、ほぼ毎日のように飲み歩いていたコスタスは、よりによって祭りが最高潮を迎える今日の夜になってどこにも行けないことに、相当鬱屈がたまっていたのだろう。

 皿をミーナに向かって投げつけ、水の入ったコップでオヅマを殴った。

 陶器でできた分厚い丈夫なコップは、それでもしょっちゅうコスタスによって床に落とされていたので、飲み口の一箇所が欠けていた。

 その欠けた部分がちょうどオヅマの額に当たってザクリと切りつける。

 同時に水をかぶって、オヅマの顔は血だらけになってしまった。


 暗い部屋で息子が傷つけられた姿を見て、ミーナはとうとう我慢できなかったのだろうか。

 その場に転がっていた太いめん棒で、コスタスをなぐった。


 後になって、どうしてこんなところにめん棒があったのかと問われたオヅマは、これでコスタスが母や自分をしょっちゅうなぐっていたので、台所ではなく部屋の隅に転がっていたのだと証言した。

 コスタスの暴力が常態化していたことを知らせたかったのだが、結局、その証言が顧慮こりょされることはなかった。


 ミーナは自分がよくそれでなぐられていたので、自分がなぐったぐらいでは死ぬはずがないと思っていたのかもしれない。

 だが、この時ミーナが夫の頭に打ち下ろしためん棒は正確に脳天を直撃して、コスタスはそのまま倒れてしまった。

 泡を吹いて白目を剥いた夫を、ミーナはおそるおそる見つめていた。

 コスタスがこのまま気を失って倒れていればよかったのだが、このとんでもないロクデナシと結婚したミーナにとって最も運の悪いことに、この男は意識を取り戻したのだ。


「うー……っつ…」


 獣のような唸り声を上げて起き上がりかけた夫の額に、ミーナは渾身こんしんの力で再びめん棒を振り下ろした。


 もはやミーナには恐怖しかなかった。

 このまま夫が目を覚ませば、反撃した自分に黙ってはいまい。

 今まで以上にひどい目に遭わされる。

 自分だけならいいが、子供にまで手を出すだろう。


 ミーナは必死にめん棒でコスタスを撲り続けた。

 そうしなければ自分も子供達も殺されると思った。

 オヅマが何度も自分を呼ぶ声も、聞こえなかった。


 オヅマは妹を抱え、外へ向かって助けを呼んだ。


「お願い! お願いだ! 母さんを止めて!!」


 祭りで浮き立っていた人々の何人かが気付いて、あわててオヅマの家に入った。

 そこでほとんど顔のつぶされたコスタスと、その上で馬乗りになって血まみれのめん棒を握ったミーナを見つける。


 ミーナは即時に保安衛士ほあんえじによって逮捕された。

 一応、裁判は開かれたものの、夫を殺した妻が許されるわけもない。

 有罪を言い渡された翌日には絞首刑に処された。



 処刑の前日、ミーナはオヅマに言った。


「オヅマ…マリー…ごめんなさい。守ってあげられなくて…あなた達にひどいものを見せてしまって……ごめんなさい。お母さんがいなくなったら、帝都キエル=ヤーヴェに行きなさい。ガルデンティアのお屋敷へ。オヅマ…きっと、あなたを迎えてくれるはず」


 ミーナは三日間、絞首台の上にぶら下げられ、鴉や鷲などの鳥に無残に突つかれた後、埋葬することも許されず、他の病死した囚人達と一緒に火葬された。


 オヅマはその煙がなくなるまで見届けた後、ミーナに言われた通り帝都・キエル=ヤーヴェへと向かった。…………





 …………というのが、オヅマの記憶に残るの話だ。


 だが、オヅマには奇妙な確信があった。

 この夢はこれから起こる……ことだ。



 その日、オヅマは水汲みを自分の家だけでなく、周辺の家の分までしてあげた。

 無論、お駄賃のためだ。

 その日は祭り気分であったので、皆、快くオヅマの頑張りを認めた。

 たった十歳の子供が、大人の足でも半刻(*約三十分)近くかかる沢の水を汲んで運ぶのが、相当に大変であるのは、皆それぞれに経験してきたことなので十分にわかってくれる。


 その上で、村で唯一の雑貨店であるハロド商会で荷下におろしの人足にんそくが足りないというので、これも手伝った。

 子供が大きな荷物を運ぶのは難しかったが、その分、軽くて小さな荷物を何度も何度も往復して、一生懸命に走り回った。

 やはり祭りの日であったので、商人の気前も良かったようだ。


「よく頑張ったな」


と、数枚の銅貨と一緒に飴までくれた。

 夕暮れ近くに帰ってきたオヅマを、ミーナは家に入る前に呼び止めた。


「オヅマ…頑張ってきたのね。いいから、マリーと一緒にお祭りに行ってらっしゃい」


 ひそひそ声で話すのは、家にいるコスタスに聞かれないためだった。

 ミーナはオヅマが祭りで遊びたいがために、今日一日頑張ったのだと思ったのだろう。

 マリーはミーナの後ろから、期待に満ちた眼差しでオヅマを見ていた。楽しみにしている妹に申し訳なく思いながら、オヅマは尋ねた。


「父さんは?」

「寝ているわ。でも、もうすぐ起きてきそう…さ、早く行って…」


 しかしオヅマは首を振った。祭りへと送ろうとするミーナの手に、さっき買ったばかりのライ麦パンの袋を渡す。


「はい、これ。いいから…俺は祭りに行くつもりはないから」


 ミーナはキョトンとしてオヅマを見た。

「えぇー!?」と不満の声を上げるマリーを無視して、オヅマは家に入ると、部屋の奥にあるベッドの上で眠る父を確認する。

 油断なく辺りを見回した。

 だとそれは部屋の隅、暖炉横の薪入まきいれのそばに転がっていて、やはりの通りそこにあった。

 オヅマは背後の父からいびきが周期的に聞こえてくるのを確認すると、そっとめん棒を取り上げた。

 すぐさま、戸棚の抽斗ひきだしにしまい込んで、ホッと胸を撫で下ろす。


 これで ―― 少なくとも衝動的に母が父を殺すことはなくなるはずだ。


 それからむくれたマリーにもらった飴を与え、母の手伝いをして過ごしていると、大きなしわぶきが聞こえてくる。

 父が目を覚ましたようだ。

 母の顔が引き締まり、マリーは飴を持ったまま母のスカートを握りしめた。

 オヅマはゴクリと唾を飲み込んだ。

 水甕みずがめから水をコップに注ぐと、父へと持っていく。


「……ようやく気が利くようになってきたじゃねぇか」


 父の口臭に嘔吐感を催しながらも、オヅマはこれからの事態の予測ができず、緊張で顔が強張った。

 父が水を飲み干した後で、オヅマはおもむろに話しかけた。


「アルシさんの店で、今日限定の麦酒ビールが出るらしいよ」


 父はジロリとオヅマを睨みつけると、コップでオヅマの頭を殴りつけた。

 欠けた部分がオヅマの額をザクリと切りつける。


「オヅマっ!」


 ミーナが悲鳴を上げてこちらに来る前に、オヅマはよろけて尻もちをついた。

 ポケットから銅貨が数枚こぼれ落ちた。


「ほぅ…これはこれは」


 父の顔に笑みが浮かぶ。

 ドスンドスンと近寄ってきて、オヅマを上から睥睨へいげいすると、


「わざわざ俺のために稼いでくるとは、できた息子じゃねぇか」


と、喜色満面で落ちた銅貨を拾い上げた。

 その上で手を出してくる。


「まだあんだったら、出せ」

「………」

「なんだぁ? その顔は? 親を睨みやがって…」


 コスタスが手を振り上げると、ミーナが泣きそうな声で止めた。


「やめて! 今日、オヅマは一生懸命働いてきたのよ!」


 オヅマは切られた額を押さえながら、自分をかばう母の腕をしっかりと掴んだ。

 それ以上、何も言わないでほしい…。


 ポケットに手を突っ込むと、残りの銅貨を全て出した。


「これで全部だよ。本当だ」


 言いながら立ち上がってジャンプする。

 きしむ床音以外、何もしない。

 コスタスはフンと鼻息をつくと、銅貨を自分のポケットにつっこんで家から出て行った。

 ミーナはコスタスの姿がすっかり見えなくなってから、オヅマに近付いた。


「大丈夫? オヅマ……一体、どうしたの?」


 今朝からオヅマは少しおかしい。


「いいや、何もないよ。ここにいるより、酒場にいた方が父さんは嬉しいだろ?」


 えらく大人びたことを言う息子に違和感を持ちつつも、ミーナはとりあえず手拭てぬぐいをオヅマの傷口に押し当てた。


「俺らも食べようよ。さっきのパン…干しブドウが入ってるんだよ」

「やったー。干しブドウのパンだぁ」


 マリーが嬉しそうに叫ぶ。

 ミーナは微笑み、オヅマは手拭てぬぐい越しに額の傷口を押さえながら、とりあえずを回避したことに安堵した。


 その夜は親子三人の平和な夕食だった。


「ありがとう、オヅマ」


 ミーナはそう言って、幼い頃のように息子の頭を撫でた。

 少し気恥ずかしそうにしながらも、オヅマは心底嬉しそうに笑った。


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