第一部

第一章

第一話 藍鶲(ランオウ)の年、大帝生誕月の満月の日

 ゆっくりと目が覚めた時、オヅマは一瞬、訳が分からなかった。


 見慣れた天井。だがとても懐かしい気持ちになる。


 手を上げてみると、その手がよりも小さくて、違和感があった。

 だがすぐに自分が十歳であることに気付く。

 そうなると、今度は違和感を覚えたことが奇妙に思えた。

 とりあえず起きよう…と思ったのだが、体が動かせない。

 なぜか、と思うと同時に、自分の腹の上にどっかと乗せられた足に気付く。


「………」


 ゆっくりと腹の上に乗っていた妹の足をどかせると、オヅマは起き上がって、うーんと寝返りをうつ妹をまじまじ眺めた。

 父親譲りの赤みがかった栗色のくせっ毛。鼻の上のそばかす。

 なぜだかみるみるうちに涙があふれてくる。

 胸が痛かった。

 かすかに『良かった』と何度もつぶやく。

 けれど何がのか、オヅマにもわからない。 


「マリー…」


 呼びかけると、妹は顔をしかめながらも、そろそろと瞼を開く。

 瞼が開くと潤んだ緑の瞳がぼんやりとオヅマを見た。

 しばらく見つめてから、驚いたようにパチパチとまばたきする。


「どうしたの? お兄ちゃん? なんで泣いてるの?」


 オヅマは途端に恥ずかしくなって、あわてて袖でこすった。


「うるせぇ。お前の足が目に当たったんだ」

「えぇ? そんなことしたぁ?」


 マリーは腑に落ちない様子だったが、小さな声で「ごめんなさい」と素直に謝ってくる。

 オヅマはヒラヒラと手を振って、ベッドから降りた。


「も、いい。早く起きろよ。水汲みに行くぞ」

「はーい」


 ぴょんと妹はベッドから跳ねて、さっきまで寝ていたとは思えぬ軽い足取りで部屋から飛び出していく。

 オヅマはその様子をぼんやりと見ていた。


 まだ、自分は夢の中にいるのだろうか。

 それともさっきまで見ていたのが夢なのだろうか。


 できればさっきのものが夢であってほしかった。

 起きた途端に徐々に朧気おぼろげになりつつあるが、確実なことは、その夢の中でマリーは死んでしまっていた。

 それも、とても悲惨な死に方だった。


「オヅマ?」


 顔を出した母の姿に、またオヅマの気持ちはひどく動揺した。


 なんてのだろう。


 柔らかな淡い金髪を引っ詰めた髪と、オヅマと同じ薄いすみれ色の瞳、西方人特有の薄褐色うすかっしょくのなめらかな肌。

 思わず駆け寄って母に抱きつく。

 四つ年下の妹が生まれてからは、母に抱きつくなんてことはしなかったオヅマが、急に抱きついてきたので、母・ミーナは驚いた。


「まぁ、どうしたの? オヅマ」

 

 戸惑いながらも、少し嬉しそうな母の声が、胸に柔らかく沁み入ってくる。

 服を着替えた妹が台所から大声で叫んだ。


「今日、お兄ちゃんってば泣いてたの!」

「まぁ、どうしたの…本当に」


 ミーナはオヅマの肩を掴んで顔を見ようとしたが、オヅマは恥ずかしいのかギュッと腰に抱きついたまま、うつむいている。

 ミーナは軽く息をつくと、オヅマの頭と肩を優しく撫でた。

 いつの間にか来ていたマリーも母の真似をしてオヅマの背を撫でる。


「お兄ちゃんが甘えっ子になっちゃった」


 マリーはクフフと笑っている。

 ミーナも微笑んでいた。

 オヅマは会った母の匂いと感触に、いつまでもそのままでいたかったが、ガタンと大きな音がしたと同時に響き渡った怒声に我に返った。


「オイ、コラァッ!! 水ッ、水もねぇのか、この家はッ!!」





 物心ついた頃には、父・コスタスは恐怖と嫌悪の存在だった。

 まともであった姿など見たこともない。

 いつも安酒をあおり、始終文句を言い、少しでも目が合えば蹴られるか、殴られる。


 まだ赤ん坊だったマリーですらも、ただ泣き声がうるさいという理由で掴み上げ、放り投げられたこともあった。床に叩きつけられる前にオヅマはどうにか妹を抱きとめたが、その時に背中の上部に火傷を負った。

 かまどの火が背を灼く痛みに悲鳴を上げたオヅマを見て、コスタスはわらった。

 悲鳴を聞きつけた鍛冶屋かじやの親爺が止めなかったら、そのまま頭をかまどに突っ込まれていたのかもしれない。


 それでもミーナはコスタスと別れることなどできなかった。

 この世界において、妻から夫に対して離縁を申し出ることなど許されていなかった。それは貴族ですらもそうであったのだから、小作人の妻でしかないミーナがコスタスと別れることなどできるはずもない。 


 その夫がたとえ暴力と暴言しか家族に与えない化け物のような存在であったとしても。


 周囲の人間も、とんでもない夫を持ったものだと、ミーナの運の悪さに同情はしても、助けてはくれなかった。

 それはオヅマやマリーに対してもそうだった。

 妻が夫の従属物であるのと同様に、何ならそれ以上に、子供は親のモノだった。


 オヅマは父の怒声を聞いて、ハッと顔を上げた。

 視線の端に、チラと藍色あいいろヒタキの絵板が見えた。

 新年に神殿で配られるその板には、その年を表す瑞鳥ずいちょうが描かれている。

 藍鶲ランオウの年…そして、今日は……?


「母さん! 今日は大帝たいてい生誕月せいたんづきの満月の日だった?」


 大帝生誕月 ―― それはパルスナ帝国を創った初代皇帝エドヴァルドの生誕を祝うもので、冬の終わりに近いこの生誕月はかの人の功績に感謝して、軽いお祭りが続くのだ。


 オヅマは泣いた跡が頬に残っていたが、既に感傷的な気分は吹っ飛んでいた。

 真剣な顔で尋ねてくる息子に、ミーナは少し戸惑った。


「え…いいえ。満月は明日よ…」


 その言葉にオヅマはひとまずホッと胸をなでおろす。

 ミーナはどうしたのかと再度尋ねようとしたが、またコスタスの怒鳴り声が響く。


「テメェらッ! どこに行きやがった!?」

「…い、今行くわ!」


 ミーナは呆然としたオヅマの両手をギュッと握りしめた後、涙が乾いた頬に軽くキスして、父の元へと向かっていった。


「………お兄ちゃん」


 マリーが心細そうにオヅマの服のすそをつまんだ。

 赤ん坊の頃から父の怒鳴り声と母の悲鳴の中で育ってきたマリーにとって、父は恐怖でしかない。

 オヅマはマリーの頭を撫でると、笑いかけた。


「水汲みに行こう」




 藍鶲ランオウの年、大帝生誕月の満月の日。


 その日はオヅマにとって一つの選択肢が示される日だった。


 この日に、母は父を殺す。

 そうして逮捕されて、絞首刑こうしゅけいになってしまうのだ。

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