第五話 ヘルミ山の黒角馬
ヘルミ山の
そのことを思い出したのは、武人であるクランツ男爵に取り入るための材料を、頭の中で必死で考えているときだった。
ふっと、また夢で見た光景が脳裏によみがえる。
帝都の大通り。
その黒い角を持つ馬は数年前に発見され、調教の末に
だが、今のオヅマにとっては、とても重要な情報だった。
オヅマは何度かヘルミ山に行ったことがあった。
そこには貴重な薬草が生えていて、年をとって取りにいけなくなった
その時に何度か、この一風変わった馬の群れを見ていた。
角があるのは基本的には
黒い
角以外に特徴的なのが縮れた長い
首を覆うほどに長く、毛量も多い。
これは
お婆さんによると、おそらく大昔に山に棲んでいた古代種の山羊と野生馬が交雑したのだろうとの話であったが、正確なところはわからない。
古代種の山羊はとうの昔に姿を消したが、相当に大きかったというから有り得ない話でもない。
いずれにしろオヅマにとって、その馬は多少風変わりなだけの馬であったのだが、おそらくそのうちに価値を見出す人間が現れ、この馬は軍馬として
だが今はまだ誰もその価値に気付いていない。
不思議なことに、あれは夢なのだと思いつつ、それが起こりうることなのだという確信がオヅマにはあった。(そう。父の時と同じように…)
であればこそ、丘の上で思い立って、そのままここまでやって来てしまったのだ。
途中で村の大工のおじさんに会ったので、母への伝言は頼んでおいたのだが、きっと心配しているだろう。
マリーを連れてここまで来ることはないだろうが、一言、話しておくべきだったかもしれない。
急に心細くなって身を縮めていると、バタンとドアが乱暴に開いた。
「おい、メシだぞ」
騎士にしては
少しだけスープがこぼれたのをオヅマはもったいなく思いつつ、おずおずと椅子に座った。
ヴァルナルはオヅマを一応、小さな珍客として扱うように部下に命じたらしい。
とりあえずオヅマは兵舎の物置小屋の
オヅマの家全部よりも広いその物置小屋には、使わなくなった家具などが白い布に覆われて置かれていたり、古びた
オヅマはこんないい部屋に宿泊させてもらえることに、心底驚き、感謝した。
マリーがここに来たら、隙間風が一切吹いてこない室内で喜び踊ることだろう。
今だって目の前に置かれたパンとスープを見て、オヅマは目を丸くする。
「あ、あの…これ…」
「なんだよ。文句言わずにとっとと食え」
「食べていいの?! 本当に?」
思わず声が大きくなったオヅマを、男は
「あ、あぁ……食え」
オヅマはスプーンを取ると、スープに浮かんでいた茶色い物体をすくって、おそるおそる口に運んだ。
噛みしめて、ジュワリとあふれた肉の味に感動した。
「に、肉だぁ」
「は?」
男はポカンとオヅマを見た。
ゆっくりと食べて肉を飲み込むと、今度はオレンジ色の人参のかけらを食べる。それからパンをちぎれば、外は固いが中はほんわりと柔らかい。必死になって
半分まで食べたところで、オヅマは男に尋ねた。
「あの、このパンって、持って帰っちゃ駄目かな?」
「あぁ? 持って帰ってどうするんだ?」
「妹に食べさせてやりたいんだ。こんな柔らかいパン初めてだから」
男は唖然となると、深い溜息をついて目を閉じた。
眉間を揉んでから、厳しい顔になってオヅマに言った。
「いいから、そのパンは食え。妹には明日、焼いたのを持たせてやるから」
「本当? 本当に!?」
「あぁ。ちゃんと食って、明日には領主様をヘルミ山まで案内しろ」
「ありがとう!」
オヅマは大きな声で礼を言うと、また
このスープもまた、じゃがいもやブロッコリーなど大きな具がゴロゴロ入っている上に、汁そのものがしっかりと塩気があっておいしかった。
男はしばらく立ったままオヅマの様子を見ていたが、軽く溜息をつくとオヅマの寝る予定のベッドに腰掛けた。
「にしても…ヘルミ山に馬なんぞ本当にいるのか? お前、嘘だったら大変なことになるぞ」
「嘘なんてついてないよ。わざわざ領主様のところまで来て、嘘を言う理由ってなに?」
「しかしあんな何にもないところに…」
男が言うのも無理はなかった。
ヘルミ山はラディケ村から続く、北の森を北西に抜けた先にある。
年間通じて山頂から吹き下ろされる冷たく強い風によって、木々は大きく育たず、
そのため動物もあまりいない。不毛の地とされていた。
「
オヅマは頷きながら、パンを一生懸命、咀嚼する。
男は片手を上げて言った。
「いいから、ゆっくり食え。わざわざ返事しなくていい。……そう、それにだ。
裏崖と呼ばれるのは、ラディケ村からは見えない山の北側部分。
まだ南向きの
「裏崖の中腹に水飲み場があるんだ。その周辺には草もわりとあるから…」
「へぇ? そんな場所があったのか?」
「岩の影に隠れてて、普通の道だと見えないんだ」
「お前はなんでそんなところがあるって知ってるんだよ?」
「薬草を探してて、偶然。でも、上から見えただけだよ。実際にそこに行ったわけじゃない」
スープを最後まで飲み干して、オヅマは満足気なゲップをする。
男はフッと笑うと、皿を持って立ち上がった。
「すまないな。もっと食べさせてやりたいが、もう鍋が空になってるから……食堂で一緒に食べた方が良かったかもな」
オヅマはブルブルと首を振った。
「ぜんぜん! お腹いっぱいだよ。久しぶりだよ、こんなに食べたの。おいしかった!」
男は目の前の少年に申し訳なくなった。騎士達の多くは「まーたシチューかよぉ」と、文句たらたらだったのだ。
自分だって一時はその日の食べ物を確保するのも大変な境遇だったというのに、すっかり現状に慣れてしまって、まだしも十分な食事が食べられることに感謝することを忘れてしまっていた。
「じゃ、よく寝ろよ」
立ち去りかけた男を、オヅマは呼び止めた。
「ありがとう! …あ! 待って。名前は?」
「……マッケネンだ」
「ありがとう、マッケネンさん」
オヅマが激しく手を振るのに負けて、マッケネンは扉が閉まる直前に軽く手を上げて振り返した。
食堂へと歩いていきながら、久々に遠くで暮らす弟に手紙でも書こうかと思った。
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