夜行バス

上海公司

第1話

「0時十三分発、〇〇行き、シューティングスター1213号車にご乗車の方はオレンジ色の服を着たスタッフの誘導に従って、列に並んで下さーい。」


 僕は暗闇の中で行き場を失いそうになっている雑踏に向かって声を上げた。ぼんやりとした白い街頭に群がる人々が、僕の声に従ってフラフラと列を作り始める。彼らは隣の人とぶつかりそうになりながらも、僕の目の前をしっかりとした足取りで歩いていく。独りぼっちで歩いている人もいれば、恋人や家族と手を繋いで歩いている人達もいた。オレンジ色のラインが特徴的なシューティングスター1213号車へと向かっている。彼らの瞼は一つ残らずきっちりと閉じられていた。


 僕がふぅっと息をつくと、白いモヤがふんわりと舞った。ここは季節など関係なくいつでも肌寒い。周りが暗いと体感温度だけでなく心までも寒々してくる。


 しかし、僕は安堵していた。とりあえずここまでは上手く誘導できたのだ。あとはシューティングスターのラインと同じ色のジャケットを着た仲間に任せればいい。誰一人として乗り遅れてくれるなよ、と思いながら、僕は人々の後ろ姿を見送った。

 

「もしもし、」


女性の声に僕は振り向く。そこには1人の中年女性の姿があった。上品な薄茶色のコートを身にまとい、髪は丁寧に後ろで結われている。


 僕は一瞬この女性を見ただけで、彼女の瞼が閉じられておらず、意識がはっきりしている事を残念に思った。


「どうされました?」


 僕は口角を上げて少し低い声で尋ねた。


「息子が迷子になってしまいまして。小学生に上がりたてで、黄色い帽子に、緑色のセーターを着た子なんですけど。」


 女性は少し慌てた様子だった。迷子になってしまった息子の安否を本当に心配しているのだと感じた。無理もない。こんなにも寒くて暗い場所で自分の息子とはぐれてしまう事ほど恐ろしい事はない。


「確認してみます。少しお待ちいただけますか?」


 僕はなるべく落ち着いた声で言った。僕はすぐにオレンジのジャケットを着たスタッフの元まで走った。僕は数人のスタッフに声を掛け、黄色い帽子に緑のセーターを着た、小学1年生ぐらいの男の子を見ていないか、と声をかけてみたがみんな首を横に振るばかりであった。


「もしかしたら、すでにバスに乗って行ってしまったかもしれませんね。」


1人のスタッフが僕に言った。


「シューティングスターに?」


「はい。子供は眠るのが早いですから。」


 僕はその可能性を考えた。そうだとしたら、あの婦人にはなんと伝えたら良いだろうか。僕はスタッフに礼を言うと、夜の闇の中を白い街灯を頼りにバスの停留所に向かって歩いた。白い光は眠ったままバスへと向かう人々の顔を不気味に照らした。


 人々の間を縫ってバスの停留所にたどり着くと、そこではプラスチックのボードを持った男性のスタッフが乗車する人の顔を確認していた。


「すみません。」


 僕が声をかけるとスタッフは面倒くさそうにこちらを向く。


「今忙しいんだ。後にしてくれ。」


僕は負けじと声をかける。


「お忙しいところすみません。迷子の子供を探しているんです。黄色い帽子に緑色のセーターを着た、小学校1年生ぐらいの男の子です。」


 僕がそう言うとスタッフは顔をしかめつつ、少しの間記憶を探るようにしてから、


「見てないな。」


と言った。


「そうですか。お忙しいところありがとうございました。」


 僕が軽くお辞儀をしてその場を去ろうとすると、スタッフは僕に向かって言った。


「ひょっとすると別の停留所にいるかもしれないな。なんせバスには一晩でとんでもない数の人が乗車するからな。」


僕は再びスタッフにお辞儀をすると、


「教えていただきありがとうございます。では、失礼します。」


と言って踵を返した。僕は小走りで女性の元へ戻る。女性の立っている場所は暗い闇に沈んでいた。


「お待たせしました。残念ながら、お子さんは近くに見つかりませんでした。でも安心して下さい。もしかしたらもうバスに乗ったのかもしれません。」


僕はそこまで女性に言った。それから、


「これから奥さんもバスに乗らなければなりません。どうぞ、ご準備ください。」


と、僕は女性をバスへと促す。すると女性は不安そうな顔をして僕に尋ねる。


「私もバスに乗るのですか?」


「はい、ここにいる人はみんなバスに乗らなければいけません。」


僕は答える。


「貴方もバスに乗るのですか?」


 女性は綺麗な顔を僕の方に向けて尋ねた。僕は胸に迫るものを感じたが、ぐっと飲み込んで答えた。


「はい、いづれは。」


 それから僕は遠くの方に見えるバスを指差して言った。


「これから貴方はあのバスに乗ります。」


それは夜の闇よりも黒いバスだった。


「あのバスは他のバスとは様子が違うように見えます。とても不吉な感じです。」


女性は怯えた顔で言った。


「いいえ、よく見てください。」


僕はバスの方を指差したまま言う。


「バスにラインが入っているのが見えますか?」


女性は目を細めて、バスの方を見る。


「ええ、見えます。雪のように真っ白なラインが入っています。」


 真っ黒なバスには、シューティングスターのオレンジのラインと同じように、真っ白なラインが入っていた。


「あのラインは、バスの行き先を示しています。全ての人があのバスに乗れるわけではありません。」


女性は僕の方を見る。


「全ての人が乗れるわけではない、というのはどういうことですか?」


僕はくるりと回れ右をすると黒いバスが停まっている方向と反対方向を指差す。


「あそこのバスが見えますか?」


 女性はそちらの方を見て、はい、と頷いた。暗闇の中に、鈍い紅い光を放つ洋式の街頭と、その下に停まっている真っ白なバス。バスの側面には、シューティングスターと同じような真っ黒なラインが入っていた。


 バスに乗る人々は口々に嫌だ、行きたくないと言いながら、黒色のジャケットを着たスタッフに半ば強制的にバスに乗せられていた。


「あの人達は?」


 女性は不安げな眼差しを僕の方に向けて尋ねた。


「罪人達です。大丈夫。奥さんがあちらのバスに乗ることはありませんから。」


 僕は無理矢理にバスに乗せられる人々に哀れみの眼を向けながら答えた。


「さ、奥さん。早くあちらの白いバスの乗車口へ。急がないとバスが発車してしまいます。」


 しかし女性は首を振って動こうとしなかった。


「私はここで息子を探します。」


僕は驚いた。


「それはダメです。ここにとどまる事はとても危険な事です。息子さんはきっと無事にバスに乗っているはずです。だからどうか奥さんもバスに乗って下さい。」


僕はそう言ったが、女性は頑なに首を横に振った。


「いいえ、あの子を置いては行けません。ここに残ることが危険であるのならなおさら私はあの子の無事を確認するまではここを離れるわけには行きません。」


 女性は僕の方を見てはっきりとそう言ったが、胸に押し当てられた両手は小刻みに震えていた。僕はふぅと息をつくと、羽織っていたジャケットを脱ぎ、女性の肩に被せる。


「ここで待っていて下さい。必ず息子さんの無事を確認して戻ってきます。」


 僕はそう言うと女性の手を引き、黄色い街頭が照らされた、近くの青色のベンチに女性を座らせた。それから踵を返すと、振り返る事なく暗闇へ駆け出した。朧げな黄色い光を放つ街頭から離れるにつれて、僕の周りの空気はどんどんと冷たくなるような気がした。


 僕は息を切らしながら瞳を閉じた人々の中を駆け回った。黄色い帽子に緑のセーター。そんな服装をした子供であればすぐに見つけられるはずなのに、どこを探しても見つからなかった。


「3時42分発、〇〇行き、シューティングスター342号車、まもなく発車しまーす。」


 遠くでスタッフの叫んでいる声が聞こえる。また、別の場所では赤黒い街灯に照らされた真っ白なバスが、暗闇に向かって発車していた。僕はぞっとする。あそこに乗っている人達は、二度とこの場所に戻ってくる事はないだろう。


 僕は頭を振って余計な考えを払い、再び少年を探した。

 僕が少年を見つけたのは、女性の座っているベンチからかなり離れたところだった。群衆から離れて、彼は1人体操座りのような形でうずくまっていた。彼の瞼はしっかりと閉じられていたので、僕はひとまず安心した。僕は少年の小さな手を取り、


「行こう。」


と言った。少年は何も言わずに立ち上がり、瞼を閉じたまま僕の隣を歩いた。遠くでは、シューティングスターの512号が出発しようとしているところだ。


「ショウちゃん!」


女性は少年の姿を見るなりベンチから立ち上がり、少年に駆け寄ると、彼のことを強く抱きしめた。それから僕に何度も感謝の言葉を述べた。

そんな彼女に向けて僕は言った。


「見つかって良かったです。ひょっとしたらあなたの事を考えていてなかなか眠れなかったのかも」


女性は涙を流していた。そして少年もまた、閉じられた瞼から一筋の涙を流しているように見えた。僕は2人のこの時間を邪魔したくないと心から思ったが、残された時間は少なくなっていた。


「奥さん、そろそろ行かないと本当にバスがなくなってしまいます。」


僕がそう言うと女性は微笑んで、


「はい。最期にこの子に会えてよかった。本当にありがとう。」


と言った。


 それから僕は、女性が真っ黒なバスに乗り、真っ白い光に満ちた世界へと旅立っていくのを見送った。


「どうか、安らかにお休み下さい。」


 少年はベッドの上で目を覚ました。それからぼんやりした頭で目覚まし時計を見た。いつもならもっと遅い時間に起きるはずなのに、不思議と今日は目覚めるのが早かった。

 少年は眠い目と一緒に、濡れた頬を手で擦った。お母さんの夢を見ていたような気がする。


 少年はベッドの横に掛けられたカーテンに手を掛けて開けた。わぁ、と思わず声が漏れる。そこには、冷たい朝の空気にじんわりと染み渡る太陽の光りが、オレンジ色のラインを作っていた。少年はしばらくその光景に見惚れていたが、よしっ、と思い今日も人生というバスに駆け乗るのだった。


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