きみが悪魔と名乗る理由
モグラノ
清書一括ver
第106話 サバの缶詰め落下事件
「アンタは優しいね」
前置きなく突然そう言われたら、どう返すべきだろう。ありがとうと言えば良いのか。それともそんなことないぞと謙遜するべきか。返答に悩みながらすこし身構えていた。
なぜならそれを言ってきたのが俺の姉だったからだ。兄弟で互いをほめ合うような間柄ではない。そんなむず痒くなりそうな風習、あいにくウチにはなかったと思う。だとしたら姉は、いったいなにを企んでいるのだろうか。
「アンタは優しいよね?」
とまた訊いてきた。
笑顔が力強く、有無を言わさぬ迫力がある。俺はゴクリと言葉を飲み込み、コクリとうなずいた。
「よかったあ。そうだと思ったよ」
顔だけのぞかせていた姉はニッと笑い、ズカズカと部屋へ乗りこんでくる。Tシャツに短パン。いかにも部屋着でございと言いたげなラフな格好をしていた。長い髪を揺らしつつ、勝手知ったるままに突き進み、ひとのベッドであろうがお構いなしに遠慮なく座る。そして火を灯したような力強い瞳でこちらをまっすぐ見つめてくる。
「あたしの代わりにちょっとおつかい行ってきてよ」
差し出すその手にはエコバックが握られていた。なんだ、優しいのかという質問はそのためだったかと合点がいく。
「なんで俺が」
抵抗を試みる。
が、姉も心得たもので、
「いいじゃん。優しいんでしょう?」
ニコリと笑みを崩さない。
自分では行かないのかと目で訴えるも、
「お姉ちゃんは外に出るにもね。いろいろと準備があって大変なのよ」
と、勝手にひとの心を読んだ上での返事をするのだから困ったものだ。
姉はサトリか何かなのだろうか。
ちらと目を配せ、
「外に出る準備、か」
と嘆息をつく。
すでに化粧はしているようだし、あとは着替えるだけじゃないのだろうか。いやいや、大学生ともなると他にもいろいろ準備がいるのかもしれないと思い直す。それに俺が女子の準備のなんたるかを知っているとは思えなかった。
俺が知らないだけでいつもお出かけ前には天候が変わらぬよう、山の神に祈りのダンスを捧げているかもしれない。こっそりとブードゥーの儀式を施してから外出するのが恒例だったとしても何ら不思議なことではない。そんな想像をしているとにわかに姉の視線が鋭くなり、半眼の瞳でクイッと首をかしげてみせる。
「アンタ、またつまらないこと考えてるでしょ?」
おお、やはり姉はサトリかもしれない。サトリはそのままニヤッと口を持ちあげた。
「それにアンタね。だれがご飯を作ってあげると思ってるのよ。もう冷蔵庫の中はすっからかん。さっさと買い物に行かないと昼も夜も抜きになるけど、それでいいの?」
それを言われると弱い。料理のできない俺にとって姉の料理はまさに生命線と呼ぶに相応しいもの。そもそもはじめから俺に拒否権などはないに等しかった。
ささやかな抵抗も虚しく、
「ん」
と手をだすと、
「よし」
と買い物メモを渡される。
ちらりと目をやってメモの中にカレーのルーという文字を見つけ、口もとを綻ばす。どうやら今日はカレーのようだ。俄然やる気がでてきた。エコバックと財布も受け取り、すっくと立ち上がる。
姉はやれやれと息をつき、
「アンタは優しいよ」
今度は眉根を寄せて困ったような表情でつぶやいた。
その困った顔は俺がするべきだと思うのだが。のっそりと部屋を出ていこうとすると、背に元気いっぱいな声を投げられる。
「気をつけて行きなよ」
何にだ、車にか。はたしてそれは高校生にかける言葉としては相応しい物なのか。まるではじめてのおつかいのような気持ちで送りだされることになった。まさかと思うがこっそりとあとをつけてきやしないだろうなとふり返って確認しておく。
自転車にまたがり、肩越しに姉の姿がないのをもう一度見て自転車をこぎ始める。もうすでに腹は減っていた。どうやら急いだ方がよさそうだ。ペダルを漕ぐ足にも力が入る。曲がり角を颯爽と曲がると目の前でちいさな子どもが泣いているのが目に入り、キッと自転車を止めて近付いていく。
「どうした、ぼうや」
泣いていたぼうやの名前は知らないが、顔は知っている。近所の杉田さん家の子だった。向こうも俺のことを知っていたのだろうか。まるでおそれる様子はなく、涙を拭いながら訴えかけてくる。
「羽がっ……、羽があ」
おお。俺はてっきり杉田さん家の子だと思っていたが、どうやら翼を怪我したエンジェルだったらしい。泣きながら空を指すので天界に帰りたいと言われるのかと身構えたが屋根を指差す。エンジェルが堕天使に変わる前にと思い、側にあった電柱をひょいとのぼって屋根をのぞいてみる。
「ああ、羽根だったのか」
そこにバドミントンのシャトルをみつけた。エイヤッと手をのばし、ポトッと下へ落としてやる。羽根を取り戻したエンジェルは礼をのべてパタパタと去っていった。
どうやら俺のでかい身体が役に立った。中ニの終わりから急に背がぐいっと伸びたのだ。以来、これ幸いだと姉には便利に使われている。何でも、かゆいところに手が届くそうだ。もっとも届くのは俺の手にちがいないのだが。
地面に降り立ち、パンパンと手を払って再び自転車にまたがる。いかん、いかん。道草をくってしまった。はやくスーパーへ向かわねばと平坦な道をひた走り、古い家が立ち並ぶ中を抜けていく。この辺は古い家屋が集まり何とかいう文化財にもなっているらしいが、俺に言わせればやはり古いだけの家並みだった。
ひとも町並みも古く、片田舎と呼ぶ方がしっくりとくる。もともとは埋め立て地だったらしくて海が近くにあり、どうかするとすぐに顔をのぞかせる。隣の市に行こうとすると大きな橋を超えていかなければならない。少々と辺ぴな場所だった。
かつては機能していだろう商店街を横目にとらえながら走り抜けていく。今はもうシャッターを閉めたままの店の方が多い。ようこそと大きく書かれた入り口の門が、すこし寒々しさを感じさせる。
商店街がそんな風なので俺の目指す大型スーパー『トーエー』は近所の誰もが買い物に通う、生活の礎となる店だった。とは言ってもひとでごった返すイメージはない。もともとの人口が少ないのだろうか。
そんなことを考えている内にスーパーが見えてきた。例にもれずトーエーの建物も古くレトロな雰囲気をかもし出している。
駐輪場に自転車をとめていると、カギが落ちているのに気が付いた。自転車のカギだった。キーホルダーと共におそらくは家のカギもぶら下がっている。きっと落とし主は青ざめていることだろう。ヒョイと拾い、顔見知りの店員に渡しておく。店内放送をしてくれるそうなので落とし主もすぐにみつかることだろう。
ニ階建ての一階。食品売り場へ足を運んでいると、不意に姉の言葉が頭をよぎる。あれは何だったのだろう。ただおつかいへと導くための口実だったのだろうか。
「アンタは優しいね」
俺は優しいのだろうか。目の前を駆けていった子どもがぶつかり落としていった商品を棚に戻しながら考える。特に自分では優しいと思ったことはない。ただまあ、母の教えをよく守っているだろうなとは思う。
母はよく言っていた。
「ひと様の迷惑にならないように」
とか、
「されて嫌なことはしないように」
とか。
姉がそれを言われているのを聞いた覚えはなかったので、実は俺は乱暴者だったりするのかと考えたこともあった。あとは姉の教育の賜物だろうか。昔から何かにつけよく泣かされた気がする。今はもう泣かされることもなくなったが、姉との争いを避ける内に争いを好まず平穏な日々を愛するようになった。まあるく、まあるく。衝突の起きないように、淀みなく流れるようにと次第にこんな性格になったのだと思う。
おお、そう考えると真の乱暴者は姉の方だったりしないだろうか。母よ、あの言葉は姉にこそ言っておくべき物だったんじゃないのかと、ひとり口角を持ち上げた。
買い物かごを持ち、メモを片手に野菜コーナーから周っていく。じゃがいもと人参をかごに入れ、玉ねぎに手を伸ばそうとした所でさきほどの子どもがバタバタとすぐ脇を駆け抜けていく。
おっと危ない。ぼうやは元気があり余っているようだ。遠くから叱りつける声が飛んでくる。親と買い物に来て退屈してしまったのかもしれない。客の数はまばらで店内はそこそこに広かった。走り回りたくもなるものだろうか。空調も効いていて快適だしなと思ったが、ぶるりと身震いをする。少し冷房が効きすぎな気がしなくもない。
気のせいだろうか。自転車を急いで漕いで汗をかいたせいだったのかも知れない。
気を取り直し買い物を続けていく。少し歩くとひと目をひくタワーがそびえ立っていた。ちいさな折りたたみ机の上に缶詰めがピラミッドのように山と積まれていた。本日のおすすめ品のサバ缶だそうだ。
安いのかどうか分からないが、なによりもそれは目立つ。天高く積まれていたのでどこから手をつければ良いのかと悩んでしまうほどのものだった。ほかの客もおそらく俺とおなじことを思ったのだろう。缶詰めの山はいろんな方向から手が出されたようで、ちょっと歪な形になってしまっている。
姉のメモにもサバ缶の文字が太字で書かれていたことを思い出し、ピラミッドのバランスを考えながら上から順番にかごへと入れていく。山から一歩離れた所で、前の方からまたあのぼうやが走り出したのが目についた。すれ違いざまに思う。ぼうや、すこし危ないぞと。
ふり返ると案の定、ぼうやはピラミッドの際を駆け抜けていく。あっ、と思ったときにはもうピラミッドがぐらついていた。その時の俺の反応は、過去いちばんの速さをみせたのではないかと自負する。
「あぶない」
とっさに出た手と身体で缶詰めの崩落をその身に受ける。
「いた、あたっ、あたた」
結構いたかった。
ぼうやは急旋回し、器用に缶詰めを避けていく。いい反射神経をしていた。これは俺が手を出さなくとも当たらなかったような気がしなくもない。ピラミッドの山は机ごと倒れ、中々派手な音が鳴ってしまう。サバ缶はコロコロと転がり、中にはへこんでしまったものもいくつかあった。
周りをぐるりと見回し、
「やっちまったな」
と心の中でつぶやいた。
ぼうやの姿はどこにもなかった。どうやら怪我はしなかったようだなと安堵する。周りにいた客にペコリと頭を下げて缶詰めを集めていく。いちばん遠くまで転がった缶詰めを拾いに行ったら、目の前でヒョイと拾われた。
「ありがとう」
顔をあげたつぎの瞬間、俺の目はとうに奪われていた。
その子が、目を見張るような美少年だったからではない。軽くウェーブしている髪が、キラキラと輝くブロンドヘアーだったからでもない。小説の世界から抜け出してきたかのような探偵、まるでシャーロックホームズのような出で立ち。鹿撃ち帽をかぶり、茶と黒のチェック柄で身を包んでいたからでもなかった。俺をまっすぐと捉えるつぶらな瞳。その色に、俺は目を奪われたのだった。
翠眼。グリーンアイだ。
神秘的で深くすいこまれそうな翡翠の瞳。うわさで聞いたことはあったけれど、この目で見るのは初めてのことだ。二度見してみても間違いない。金髪翠眼の美少年がそこにいた。日本語は通じるのかと突然のことにあわてふためき、しどろもどろになりながらもつたない英語を口にする。
「せ、せんきゅー。おっけー、ぷりーず、みー、ゆー、カン」
おお、頭が回らない。俺はそこまで成績が悪いわけではないはずなのだが。しかしそれもそのはず、異国の方との交流を俺はまだ学んでいなかったのだ。
少年は軽く口の端を持ち上げてほほ笑みを作り、声変わりする前の清く澄んだ声で言葉を発した。その言葉は英語ではなくてとても流暢な日本語だった。イントネーションにもおかしな点は見当たらなかった。そして頭の良い異国の方が使いがちな小難しい日本語でもなかった。もちろん聞き取れない早さで言われたわけでもない。
それなのに俺はその少年の言わんとする事が理解できなかったのだ。
少年は、こう言った。
「どうして飲み込んでしまうんだい?」
と。
英語がくる。もしくはカタコトの日本語が返ってくると思っていただけに肩透かしを食らってしまった。
「ぱ、ぱーどぅん?」
なぜか俺の方がカタコトの英語になってしまう。ほほを撫でて、思わずはにかむ俺の姿をみてその少年はにこりとほほ笑み、そして裏切った。
「まったく、いやになっちゃうね。せっかくこのボクがだよ。きみたちに合わせて日本語で話しかけてるっていうのにさ。どうしてみんな下手くそな英語で返してくるのさ。ちゃんとボクの話を聞いておくれよ。それにきみね、なぜボクに怯むのさ」
翡翠の瞳がきろりと光る。
「たしかにね、ボクの容姿は整っている。じつに可愛らしいものだと思うよ。見惚れてしまってもそれは仕方のないことさ。ボクのツヤツヤと耳を隠すほどのブロンドヘアーは、きっとひと目をひくだろうね」
自分の瞳を指さす。
「このグリーンアイに見つめられたら、だれだってたちまちにイチコロだよ。背はまだそれほどでもないけどさ。すぐに伸びるよ。いずれ伸びるんだから。ボクはまだ、二回の成長期をのこしているんだからね」
少年は、
「ふん」
と腕を組みながら憤る。
何だか見た目のイメージと違い戸惑う。
「おお。すまん。まだ伸びるぞ。きっと」
俺がそう言うと少年は、バッと両手を上にあげる。気付かなかったが手には一冊の本を持っていた。
「ちがう、ちがうよ、きみ。ボクの言いたいことはそういうことじゃないよ。ボクの容姿に、出で立ちに。質問をないがしろにされてしまう哀しさを訴えているんだよ。うっかりとボクが眉目秀麗であるばっかりに、調査もままならないじゃないか」
思わず後ずさんでしまう。ちいさな子にきみと呼ばれるのは、なんだか不思議な気持ちになってしまうものだった。俺が下がった分。いや、それ以上にもっと少年が詰め寄ってくる。
「今、一歩ひいたね。そしてボクの可憐な背たけを上から下へと値踏みしたね。ははん、大方『きみ』と呼ばれることに抵抗をもったんだね。なぜだか決めつけているようだけれど、まだわからないじゃないか。ボクの方が年上なのかもしれないよ?」
おお、少年も姉とおなじように心を読めるのだろうか。そして勝手に心の俺と会話をしている。だが一理あるなと思い、たじろぎながらも名乗ろうとした。
「それもそうだな。失礼した。俺は、高校一年の──」
「ひとはね、年齢がすべてじゃないのさ」
俺の名乗りは、くるりと背を向けてしまった少年の手によって遮られてしまった。少年は中学生か、それとも小学生だろうか。
その背に声をかけようとすると、
「お客様」
と俺の背に声がかかった。
ふり返ると、スーパーの店員が心配そうな顔をしながら立っていた。
「お客様、おケガはありませんでしたか」
きっと、缶詰めの山が崩れる音を聞いてやって来てくれたのだろう。後方にいるもうひとりの店員がテキパキと缶詰めを拾い集めてくれている。俺はすぐに頭を下げた。
「大丈夫です。すみません、山を崩してしまいました」
頭を下げるとき、手に持っていたへこんだサバ缶が目に入った。
「ダメになった分は買い取ります」
「いえいえそんな、大丈夫ですよ」
顔をあげると新たにひとり、店員がにこやかな面持ちで近付いてくる。ほかのふたりの店員も、その店員をすがるような目で見ていた。
「どうも、店長の大島です。弁償だなんてとんでもございませんよ。お客様におケガがなくてなによりです」
店長はふたりの店員に指示を出して後片づけを命じた。申しわけなく思い、俺も手伝おうかと倒れた机に手を出そうとしたらそっと止められる。
「お客様、ありがとうございます。あとは私共の方で行いますので。どうぞお気になさらず、お買い物をお続けください」
そう言って手に持っていたサバ缶も受け取ってくれる。大島さんは実にいい人だなと、もういちどお礼と共に頭を下げた。かごを手に持ちくるりとふり返ると、もうそこには金髪翠眼の美少年の姿はなかった。
おお、あれは夢だったのだろうか? あの少年はなんだったのだ。なぜ飲み込んだのかとは、いったい何を指していた。そもそも、あんな少年が実在したのかと不安になる。ひょっとして白昼夢でも見ていたのではあるまいか。俺だけに見えるスーパーの妖精的なそういう物ではなかったのか。
気もそぞろに店内を見回ってみると、その妖精は店内に出店しているパン屋さんと話していた。どうやら俺だけに見えるわけではなかったようだと胸をなでおろす。
パン屋さんは、近所に住む佐藤さんだ。俺とも顔見知りなので目の合ったタイミングで会釈をかわす。その様子をみたのだろうか。
目ざとく俺をみつけた少年は、
「きみ、きみ」
と俺を呼ぶ。
どうにもその、きみ呼びには慣れない。苦く笑い、口を開こうとしたらまた心を読まれる。
「ああ、そうか。名乗ろうとしているね。きみはその名をボクに呼んで欲しいと言うんだね。でも名乗らなくても結構なんだ。ボクはひとの名前をおぼえる気はないよ」
不思議なことを言う。キョトンとして、思わず尋ねた。
「おお、そうなのか。どうしてだ」
ふふ、と不敵に笑い、
「知らないのかい」
と喜びの色をみせる。
「かのシャーロックホームズは言ったそうだよ。ひとの記憶は空っぽの屋根裏部屋のようなものだってね。そこを要らないもので埋める必要はないのさ。必要なものを必要なだけ、取り出しやすいように整理しておかないといけないんだよ」
「なるほどな」
と頷く。
少年は、ホームズの大ファンなのだろう。それで探偵らしき格好をしているわけだ。コスプレイヤーというやつかもしれない。
「でも、名がないと不便ではないか」
と訊くと少年はひと指し指をほっぺに当てて、ふむと悩む。
「それもそうだね。でもさ、ひとの記憶はたったの一ペタバイトしかないんだよ。そうだね。よし、アルファベットを開放しようじゃないか。きみ、ひと文字だけ名乗ってよ。頭文字をボクに教えておくれよ」
おお、これはまた不思議なことを言い出したぞとは思うが、なんとなくその翡翠の瞳には逆らえずに答えてしまった。
「K、だな」
「よし。今日からきみは、Kさんだ」
名を奪われた。
あだ名にしても素っ気ないものである。ただ、満足気にニンマリと微笑む少年を咎める気にはならなかった。
「それでは君は、なんと呼べばいいんだ」
「ん、ボクかい? そうだね」
手に持っていた本をじっとみつめる。その本には、『文芸誌、メフィスト』と大きく書かれていた。小説の本だろうか。著名な作家の名前がずらりと並んでいる。その本をまじまじとみつめ、それからじつに少年らしいイタズラな笑みを浮かべた。
「Kさんに名前を訊かれたボクは、咄嗟にメフィスト。ボクの名前は、『メフィストフェレス』だよ。と答えるのさ」
おお、メフィストフェレスとな。どうにも変わった名前をしているものだ。しかしやはりそうなのかと思った。
「なるほど、異国のひとなんだな」
感想を口にもらすと、メフィストフェレスは両手を高く突きあげる。
「ちがうよKさん、そうじゃない。そうじゃないのさ。反応して欲しいのはそこじゃないんだよ。せっかくボクが、国民的探偵アニメになぞらえてミステリアスに正体を隠したっていうのにさ。まずは、そこに触れておくれよ」
「なに? メフィストフェレスさんではなかったのか。偽名なのか?」
ひたいを手で押さえ、ふるふると頭を振り、まるであきれたような声が耳に届く。
「Kさん。まったくきみって奴は、ひとが良いというのかなんというのか……。どうにも調子が狂っちゃうよ。でもね、きみにとってのボクは、メフィストフェレスであることに違いはないわけさ」
「それはどういう意味なんだ、その」
言葉に詰まった。結局の所、俺は少年の名を聞けてはいなかったから。ふぅむ、なんと呼べば良いのやらと悩み。
「──メフィスト」
やはりこう呼ぶしかないのだろうか。その呼びかけに少年は、悪魔のように無邪気な笑みをみせていた。クルッと指をふり回し、メフィストは俺の周りをゆっくりと闊歩する。
「Kさんはさ、ファウスト伝説って知ってるかい?」
「いいや」
と首をふると、にやっと口を持ちあげ話しだす。
「メフィストフェレスはね、ファウストの前に現れた悪魔なのさ。悪魔は魔法の力を与える代わりに、その魂をもらう契約を結ぶんだよ」
「おお、魂とは、なんとも物騒な話だな」
それを愉快気に話す少年の姿は背すじに冷たいものを感じさせた。なぜなら少年は俺にとってのメフィストフェレスであると言ったのだから。
くすりと笑い、
「ボクと契約しないかい?」
翡翠の瞳がやわらかくほほ笑む。
「いったいなんの契約だ」
「ボクだってさ。悪魔じゃないんだから、魂をおくれよとまでは言わないさ。そうだね、こうしようよ」
さも名案とばかりに、手のひらを打つ。
「きみに事の真相をみせようじゃないか。だから、ボクにその魂をみせておくれよ。すこしね、きみに興味が湧いたんだよ」
言ってることはだいぶ悪魔染みた物だったが、魂は取られないようだと安堵する。しかしだ、わからない事がたくさんある。
「事の真相とはなんのことだ。魂をみせるといってもどうやって」
メフィストは、あの質問をくり返した。
「きみはどうして飲み込んでしまったんだい?」
「俺がなにを飲み込んだ」
「謎さ」
深く、俺の中へとのぞき込んでくる。
「Kさん。きみは目の前で起きた謎を、見て見ぬふりしたよね。けっして気付かなかったというわけじゃない。気付いて、考え、そして飲み込んだのさ」
「そんなことはないぞ」
と、反論する前に言葉を並べられる。
「缶詰めの山が崩れはじめ。三秒、子どもを守ろうと動きはじめたね。Kさんの年齢から考えるとすこし反応速度がおそいよ。運動不足かもしれないね。三秒、崩落に耐えたね。ニ秒、子どもの安否を確かめてホッとしていたね。五秒、うつむいてからうしろの床をふり向いたね。十ニ秒、途方に暮れていたね。そしてぐるりを見回してから、ようやく片付けをはじめたのさ」
一部始終を語られる。すこしダメ出しがあったような気もしたが、気のせいだろう。
「見ていたんだな? メフィスト」
「まったく。引っかかるのはそこじゃないよと思うんだけどね」
軽快に笑う。
「でもまあね。ボクは人間観察が趣味だから、きみのことをみていたんだよ。だからKさんが五秒、謎を考えて飲み込んだのも知っているのさ。きみは目にしたはずだよ」
口の端がにやりと持ち上がる。美少年はまるで悪魔のように、ゆかいそうな笑みを顔に貼り付けていた。
「走り抜けていった子どもが缶詰めの山にも、机にも触れていなかったことを、ね。どこにも触れていないのに山が崩れはじめた。その瞬間を目にした。だからきみは、ふり返って床を確認していたんだよね?」
言われてずばり、その通りだった。たしかにあのぼうやとすれちがった時。ふり返った先で俺がみたものは、机に触れないよう走り去るぼうやと、勝手に崩れ落ちてくる山と積まれた缶詰めだったのだ。
「Kさんが飲み込んでしまったその謎の真相を、このボクがお見せしようじゃないか。そしてそれを知ったきみが、どんな反応をするのかをこのボクにみせておくれよ」
メフィストの話を訊き終えて、俺はなるほどなと得心をえていた。ようするに、この少年は俺に遊んでほしいのだろう。探偵ごっこを一緒にしたいと、そう言っているのだ。俺もさほど時間があるわけではないが、邪険にするのはかわいそうな気がしないでもない。それに、すこし一緒に遊んであげればメフィストも満足することだろう。
姉よ、すまないな。どうやらすこし帰りが遅くなりそうだ。はたして煮込み時間は足りるのだろうかと、俺はカレーの心配をしていた。覚悟を決めたと言えば多少は大げさになってしまうが。この少年の気の済むまでは付き合ってあげようかと思った。
それを言葉にする前に言われる。
「契約成立だね」
む、また読まれた。顔に出やすい性質なのだろうかと、ほほを揉みしだく。
「それで、どうするんだ」
つやつやと綺麗なブロンドヘアーがサラリと揺らぐ。
「まずはなにより、現場百遍だね。事件は現場で起きているんだよ、Kさん。もっともボクとしては、アームチェア・ディテクティブでありたいと思う所なんだけどね」
「おお、なんだそれは」
質問に喜色を浮かべている。話したくてウズウズしているようにみえる。
「安楽椅子探偵さ。現場で起きたはずの謎を外にでることなく、会議室で解決しちゃおうってわけだよ。推理に推測をかさね、思考の末に結論へとたどりつくのさ。それは至高の推理とも呼べるよね。探偵冥利に尽きると言ってもかまわないはずだよ」
が、言ってがくりと肩を落とす。
「待っていても謎が寄ってくるなんてのはね。ボクにとっては理想の夢のハッピーワールドさ。ただそれも、現場の刑事さんのたしかな捜査があってのお話なんだよね」
「そうなのか」
現場百遍は警察の言葉だったかなと思い出していると、
「Kさんは謎を飲み込んだよね」
とまた言われ、なんだか悪いことをしてしまったような気にもなってくる。
しかし、メフィストは薄くほほ笑む。
「それでもまだKさんはいい方さ。謎をみつけられる、きみのその目もまた才能だよ。多くのひとはね、謎そのものをみようともしていないんだもん」
それは褒めているのかと首を傾げた。
「予兆はあるというのにさ。些細なことすぎて、ひとは気付かないんだよ。謎がまるで火のように大きく育ちきってからかな。おおごとになっちゃってからようやく、『ああ、不思議だな』となるわけだね」
すこし陰のある笑みを浮かべていたが、
「それはそれで楽しいのかもね」
パッと明るい笑顔を作り直す。
「だからこそさ。ボクは自分の足で出向いて調べるしかないわけだよ。ひょっとしたらKさんも、すこしは探偵になれる素質があるのかもしれない。まあ、このボクには遠く及ばないのだけどね。さあ、気を取り直して現場を調べにいこうじゃないか」
さきほど缶詰めの山が崩れた場所を訪れてみると、すでに片付けは終わっていた。だが、机のあった場所にはブルーシートが敷かれていて、その周りをぐるりと囲むようにしてカラーコーンが置かれている。立ち入り禁止。ひと目見てそうとわかるように封鎖されていた。そんなことはお構いなしに、メフィストはまっすぐシートへ向かう。禁止エリアに立ち入り、シートをめくろうと手を伸ばしたところで声がかかる。
「こらこら。危ないからね。イタズラしちゃいけないよ」
声をかけてきたのは、たしか店長の大島さんと名乗っていた人だ。間に割って入り、メフィストの代わりに謝罪する。
「すみません。それと先ほどはありがとうございました。ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした」
「ああ、お客様。どうぞ、お気になさらず。それは構わないのですが、片付けがまだ終わっておりませんので危ないかもしれません。お連れ様もどうぞ、中にお入りになられないようにお願いします」
大島さんは物腰も柔らかく、優しく諭すように言った。その様子をきろりと翡翠の瞳が見上げる。
「ふぅん、早いね。Oさん」
と笑みを携えながら。
大島さんの名も奪われたということに気付くのに、俺はしばらく時間がかかった。大島さん本人は気が付いてもいないだろう。俺たちがその場から離れるまで大島さんは笑顔で佇んでいたので、結局しらべることは叶わなかった。仕方がない。探偵ごっこはここいらで終わりだろうか。そう呑気に構えていた俺の背中にひっそりと、悪魔はすぐそこまで這い寄ってきていた。
ともすれば、悪魔のしっぽと翼が生えてくるのかもしれない。メフィストはそっと近付き、こそり悪魔のささやきを聞かす。
「Kさん、Oさんを惹きつけておくれよ」
どうやら捜査はまだ終わらせてくれないようだ。立ち入り禁止に立ち入ろうとして正にいま咎められたばかりだというのに。
「ダメだぞ、メフィスト。大島さんもああ言っていただろう。『危ないかもしれないからはいるな』、と」
カクリと首をかしげる。
「ん、それはだれの名前だい? そして、どうしてダメなんだい?」
パチクリとする。この少年は本当にひとの名を覚える気がないというのだろうか。
「Oさん」
と言い直してやると、
「ああ、さっきのひとだね」
と返ってきた。
実に変わった子だと思う。そしてその変わった子はしれっと変わったことを言う。
「Kさんは探偵を誤解しているみたいだね。アニメや映画の影響なのかな。探偵はね、けっして正義ではないんだよ。まあ、正義の味方であってもいいとは思うけれどさ」
「んん、どう違うんだ?」
ふふ、と小さく笑われる。
「探偵はひとの隠すことを暴くんだもの、正義であってたまるものかい。かのホームズも言っているよ。『退屈しのぎだ』ってね。自分の能力をいかんなく発揮できるから、探偵はそれ自体が楽しいことなんだよ」
ふむ、そういうものか。しかし、今度は俺が首をかしげる。
「Oさんが何か隠しているというのか?」
「そうだろうさ。ボクがシートをめくろうとしたら、すぐにやってきたじゃないか。警戒しているんだよ。あの下にはいったいなにがあるんだろうね」
納得しかねる。俺には大島さんがそんな悪いひとには思えなかった。
「ただ、片付いてないだけじゃないのか」
ゆっくりと首を横にふる。
「早いのにね、遅いんだよ」
メフィストはまた俺の心を読んだのか、説明をつづけた。
「Oさんは素早く事故現場にきて、店員に的確に指示をだしていたよね。きちんとした大人の対応だと思うよ。なのにだ。未だシートは出しっぱなし。大袈裟に封鎖までしちゃって、まだ片付いてないと言うんだよ。それは対応が遅すぎやしないかい?」
「む、それはたしかに」
返答に窮すとメフィストは独りごちる。
「どうしようかな。Kさんが手伝ってくれないとなるとなあ。あとは火災報知器を押しちゃうか、もっと犯罪まがいなことでもしないといけなくなっちゃうんだよねえ」
物騒なことを言う。
そんな事をさせるわけにいかないので、
「わかった、やるよ」
そう返事するしかなかった。
とは言ったものの気が進まない。俺は今から大島さんの嫌がることをして、迷惑をかけるだろう。それは、されて嫌なことはしないという母の教えに逆らう行為だった。探偵とはいったい何なのだろうか。そんな疑問を胸に抱きながら、俺は倒れた。ひとの注意をそらす方法が、ほかになにも思いつかなかったのだからしかたない。
「お客様、お客様」
と俺を呼ぶ声がする。
ゆさゆさと身体を揺さぶられ、店長を呼ぶ声が耳へと届く。薄目を開き、大島さんの姿がみえたところで俺はううんと意識を取り戻す。その背後ではコソコソ悪魔が蠢いていた。背徳感からくるものか、心配そうに顔をのぞかせる大島さんの顔を直視することができなかった。そんな俺の姿はさぞかし気分が優れないように見えたことだろう。
「大丈夫ですか、お客様」
「ああ、すみません。立ちくらみがして」
端の方ですこし休ませてもらい、水までもらってしまった。罪悪感が胸にふつふつと湧きあがる中、お礼を述べる。
「無理なさらないでくださいね」
ひとの優しさが胸にしみる。そうしているとひとりの店員が大島さんにススっと近付いていき、コソッと耳打ちをした。
「店長……」
すこしドキリとする。メフィストの蛮行がバレてしまったのだろうかとも思った。だが、どうやらちがったようだ。
大島さんは時計を眺め、
「おっと、もうそんな時間か」
とスーパーの入り口に目をやった。
つられて視線を追うと、十人ばかりの人がゾロゾロと店内に入ってくる所だった。人だかりの中にはちらほらと見知った顔も混ざっている。どちらも町内会の重鎮たちだ。みんな、中々に険しい顔をしている。
「すまないね。私は用があるから、これで失礼するよ。体調が戻るまで、ゆっくりと休んでお行きなさい」
と大島さんは言い残して去っていく。
そしてその人だかりへと足早に向かっていき、ペコリと頭を下げている。手ずから二階へ案内するようで、重鎮たちはゾロゾロと引き連れられてその姿を消していった。いったいなんの集団なのかと疑問に思い、あとをつけるでもなく自然と足はそちらを向いていた。目で姿を追っていたら、列の最後尾にいたお爺さんがこちらに気付く。
そのひとはうちの三軒隣りに住んでいる光本のお爺さんだった。なにをやっているひとか知らないけれど、昔からなにかとお世話になっている。俺のちいさなころからずっとお爺さんで、これからもお爺さんであることだけは間違いない。
「おや、来てたのかい」
との声に会釈しながら近付く。
「ちょっと買い物に。あの、なにかあるんですか?」
「ん、会合、すこし話し合いをな。なに、子どもがそんなこと気にせんでもええ。ワシらに任せとけば悪いようにはせんよ」
腕を振り上げ、ハハと高笑う。
む、子ども扱いされてしまった。なんともこそばゆい気持ちになる。子ども扱いは気恥ずかしいが、おとな扱いはすこし気後れする。高校生というのはなんとも微妙なお年頃なのである。
列からの遅れに気付かれたお爺さんは、呼ばれるがままに列へと合流してそのままとある一室へと入ってしまった。
「こうやって情報は秘匿されてしまうものなんだね」
いつのまにか隣に並んでいたメフィストがつぶやいた。いつから話を聞いていたのだろう。最初からだろうか。
「ボクらがことを知るのは全てが終わったあとなのさ。やだねえ。侘しいねえ。だからボクらは戦うんだ。推理と言う名の武器を片手に、ね」
推理か。メフィストの格好をいま一度よく見てみると、見るからにして探偵の格好をしている。その言動に加え、ホームズの言葉を好んで引用している。
「メフィストは、その。シャーロキアンという奴なのか?」
有名な探偵、シャーロック・ホームズ。そんな彼の熱狂的な愛好家はときにシャーロキアンと呼ばれ、日々ホームズの研究に明け暮れていると聞いたことがあった。てっきりメフィストもその類かと思ったのだが、じつにあっさりと否定された。
「ちがうよ」
意外な返答にキョトンとすると、さらに意外なことを言う。
「ボクならホームジストさ」
知らない言葉だった。ホームズの愛好家にも派閥みたいなものがあるのだろうか。それはなんのことだと問う前に、メフィストは口を開く。さながら俺の心を読むかの如く。あるいはホームズのように。もしくはうちの姉のように。
「ボクはあんまりなんだけどね。ジーンズの似合うひとっているじゃないか。その中でもっともジーンズが似合うひとは賞がもらえるということを知っているかい?」
「ベストジーニストのことか」
テレビかなにかで表彰されるのを見たことがある。返事するとあごに手をやりうんうんと頷き、翡翠の瞳はきょろりと嘯く。
「じゃあさ、もっともホームズが似合うひとのことはなんて言うんだい?」
「ああ、ホームジストか」
「だね」
と言う少年は豪気と言うべきか。
それとも傲慢と言うべきだろうか。少年はホームズのファンではないと言っているのだ。吾こそはホームズなりけりと、そう豪語していたのだった。すこしあきれて、ぽっかりと開いた口がふわふわ塞がらないのを感じながらに言う。
「それじゃあ聞こうか、ホームズ。シートの下にはなにがあったんだ?」
名前に引っかかりを感じたのか、メフィストは口を横に尖らせる。
「なにもね、なかったんだよ」
「なんだ」
肩を落とす俺に、嬉々として話す。
「Kさんは何をがっかりしているんだい? 大収穫じゃないか。何もなかったんだよ。そしてそう、凹みだ。段差があったのさ」
収穫があったとは言うが、俺には調査が空振りに終わったとしか思えない。いったいどこに収穫があるのかと考える。シートの下にはなにもなかったが、代わりに凹みがあったそうだ。心得顔に振る舞うメフィストは、どこか満足気ですらあった。
なぜだ?
「ふぅん。『なぜだ』と言いたげな顔付きをしているじゃないか、Kさん。いいかい? Oさんはボクにね。こう言ったんだよ」
コホンとのどを整え、声色を変えて話しだした。それはモノマネなのだろうか。
「『危ないからね』と言われたよね。『まだ片付けは終わっていませんので』ってさ。どこがだい。まるっきりの嘘じゃないか。片付けはもうとっくに終わっていたんだよ」
あまり似ていなかったモノマネを終えたメフィストは照れる様子もなく、
「いやだねえ、嘘つきは」
そんなにイヤそうにもなく口にし、ニヤついていた。
嘘──、なのだろうかと首をかしげる。俺にはあの優しいОさんが嘘をついてだまくらかしてやろうとするとは思えなかった。ましてや相手は子どもふたりときている。それならどうとでも出来そうなものだ。嘘をつく必要がどこにも見当たらない。
「嘘にも意味のあるもの、ないものがあってね。虚言癖のひとがつく嘘は、まったく厄介なものだよ。つかなくてよかった嘘までついちゃうんだからね。嘘を嘘で塗りかためていく内に、自分の嘘を本当だと信じ込んでしまうんだよ」
「Oさんが虚言癖だというのか?」
そう問うと、
「まさか」
と失笑を買ってしまった。
笑みを含んだ口もとで言い切る。
「なら、その嘘はつく必要があったのさ。意味のある、理屈の通る嘘なんだ。凹みしかなかったわけじゃない。あの凹みこそ、Oさんが隠し通したかったものなんだよ」
凹み、段差を隠す理由。それはつまづくと危ないからだろうか。それとも、見栄えが悪くなるのを気にしてのことか。
「やはり、さっきの缶詰めの落下で凹んでしまったのだろうか」
だとしたら悪いことをしてしまった気がする。もうすこし俺の反応が早ければと、多少の罪悪感にさいなまれていく。
「どうだろうね。そもそもあの場所に机はあるべきものだったのかな?」
笑みを形づくる口もとを隠すように手で覆い、不思議なことを言う。
「どういう意味なんだ」
「特売や催事ごとのワゴンならボクも見たことはあるけどね。簡易の折りたたみ机をみるのは初めてのことさ。ましてや、あの狭い通路の真ん中に置くようなものかな」
言われると、たしかに通路は狭い。大人がすれ違うので精いっぱいといった所だろうか。もっと広かったなら、机の際を走り去ったぼうやも悠々と駆けれたことだろう。
「ひとの集まる特売コーナーはさ。もっと広い場所で、いつものワゴンでやるべきだったとボクは思うよ。でも、そうはしなかったね。あの場所で特売コーナーを。ううん、ちがう。あの場所に机があることこそが重要だったんだよ」
「つまり。あの机はもともとヘコミを隠す為にあったと、そう言いたいんだな」
メフィストは、そうだとばかりに大仰にうなずいてみせる。なるほど、特売コーナーはあとから付いたカモフラージュだったのか。折りたたみ机をポツンと置いたのでは違和感しかないが、商品を積めばそれは立派な特売コーナーとなる。あの狭い通路にはワゴンも入らなそうだったから、あのちいさな折りたたみ机しかほかに選択肢がなかったのかもしれない。まるで嘘を嘘でぬり固めるように、あの特売コーナーは生まれていったということだろうか。
「ん、待てよ。ということは、だ。あの机が倒れたのは、その凹みが原因だったということなのか?」
「惜しいね、Kさん。直接は、隠したかった凹みのせいではないんだよ」
すこしばかり得意げに、そのあごは天を向きはじめていた。 したり顔でメフィストは話す。
「あの辺の床はもう、きっと緩くなっちゃっているんだろうね」
「そうなのか」
相づちとも質問とも取れる問いに頷く。
「うん。隠していた凹みの周りはあの少年の走る振動と、缶詰めの重みのせいかな。新たな凹みが生まれていたんだよ。そして机はバランスを崩したというわけだね」
そうだったのか。大島さんはことを隠そうとはしたものの、結局は隠しきれなかったと、そういうことになるのかと頷く。
「嘘を重ねてごまかしても、いずれは露見するということか。悪いことはできないものだな。なるほど、納得だ」
メフィストに賞賛をおくる。これで少年の気もすんだことだろう。それじゃあまたなと背を向けて歩きだす。すると、トテトテと小走りに俺を追い抜き立ちふさがる。
「ちょっと、ちょっとKさん。どこにいってしまうんだい」
「おお。どうした、メフィストよ。謎はもう解いてもらったではないか。そろそろ俺も買い物に戻ろうかと思ってな」
あまり遅くなると、姉が料理してくれなくなる。ある意味では料理されそうな気がしないでもないのだが。
俺の不安を他所にして、
「謎を解く? なんだいそれ」
と首をかしげられる。
俺も疑問符を浮かべると合点がいったのか、アハハと笑い出した。
「Kさん、ボクはね。きみに事の真相をみせると言ったのさ。ちいさな謎をひとつ解決したところで満足なんてするわけないよ」
いまのが真相ではないと、そう言いたいのだろうか。まだつづきがあるとメフィストは考えているようだった。すると俺にも疑問がひとつ湧く。メフィストはなぜそこまで俺に真相を見せたがるのだろうかと。
「Kさん、謎はいつだって数珠繋ぎなのさ。ひとつ解決すれば、ひとつ見えなかったことが見えるようになるんだよ」
タイミングよくドキリとする発言をされて、心を読まれたと錯覚してしまう。不思議な少年だ。あの緑の瞳に映る世界は俺の見る世界とはすこしちがうのかもしれない。メフィストの視線のさきには親子連れの姿があった。親子連れの母親がもうひとりの女性と話している隣で、ちいさな子どもが遊んでいた。手にはスーパーボールを持っていて、懐かしさを感じる。壁にボールを投げては掴み、ときには掴みそこなったりしながら暇をつぶしているようだった。
じっと見つめるメフィストの視線に気付いたのか、子どもはこちらに注意を払う。メフィストは優しくほほ笑みかけ、その子に向かってボールを投げるジェスチャーをしていた。その子どもはすこし考えてからスーパーボールを投げてきた。メフィストは悠々とボールを掴み、その子に投げ返してあげている。
どうした、何がはじまった。急に子どもと遊びはじめてしまった。もう探偵ごっこは飽きてしまったのだろうか。見えてる世界がちがうかとも思ったが、どうやら勘違いだったようだなと鼻を掻く。メフィストも子どもだということを失念していた。もう俺は用済みかなと様子を窺うと、いっしょに遊んでいた子どもがメフィストめがけて駆け寄ってくる。
それも、泣きながらだ。
「かえしてよー」
その子の親も、俺も、びっくりしてふたりの元に駆けつける。なにがあったのかと訊くと、しらっとした顔付きで悪魔が顔をのぞかせる。
「いいかい、ボクは十回も落とし物を拾ってあげたわけだよ。一回の拾得物で約一割の報労金を請求する権利があるのはきみも知ってのことだろうさ。だからボクはこのスーパーボールをもらうよ」
それを聞いた母親はとうぜんの如く激怒し、子どもは泣きじゃくり、メフィストは素知らぬ顔。俺が代りに頭を下げる事となった。いったいどうしてこうなった。何度も頭を下げていると店員が駆けつける頃には母親も怒りを収めたらしく、ひとの注目を浴びるのを嫌ったのか。子どもの手を引いてさっさと行ってしまった。
「なにをしてるんだ」
と諌めると、
「当然の権利じゃないか」
と悪魔は笑っていた。
なんだかすこし疲れてしまった。ぐるりと見回し、壁際に休憩用のベンチを見つけたので腰かける。スーパーボールを手に入れたメフィストは嬉しそうに遊んでいる。床に弾ませては、コロコロと転がるボールを追いかけていた。まるで俺の小言なんてなかったかのように楽しそうだ。大人びた発言をするのかと思ったら、おもちゃを取り合うなんて子ども染みたことをしでかす。
よくわからない子だ。そんなメフィストの姿を見るでもなく眺めながら、思い返してみる。ひとつ解決すればひとつ見えなかった事が見えるようになる。たしかそう言っていたか。缶詰めの山が崩れた理由はなんとなくわかった。それで見えるようになる事がなにかあっただろうか。そこに新たな謎でも生まれたとでも言うのだろうか。
ふっとあの問いが頭をよぎっていった。俺は自分で気が付いていないだけで、またなにか謎を飲み込んでることはないかと。俺もすこしは考えてみても良いのかもしれないと思い頭を悩ませてみることにした。
気になるところはやはり、その理由だろうか。店長の大島さんは凹みの存在を知らないわけではない。むしろ指示をして隠していた立場だろう。なぜ隠す必要があった。たとえば俺が不注意で床に穴をあけたり、凹ませた場合は隠したくなるのもしかたのない話だ。でもそれは俺が部外者、ただの客だからだ。だが大島さんはちがう。お店側のひとで且つ店長なら、きっと上の立場の人間なのだと思う。そんなひとが隠そうとする必要なんてないのではないだろうか。修理する日まで、ただ封鎖しておけばいいだけの話だ。わざわざ、こんな偽装みたいなやりかたをしなくても済むはずだ。
ううむ、やはりダメか。納得のいく理由が俺には思い浮かばなかった。メフィストならなにか理由を付けられるのだろうかと姿を探してみるも見える範囲にはいない。どこまでボールを追いかけていったのか。すっくと立ち上がり、店内を探していく。一階のフロアをまわってみるけれど見つからない。まさか二階まで行ったのだろうかと思い、エスカレータであがってみる。
二階は服や日用品のフロアだ。一階とくらべて客の数はすくなく、どこかシンと静まり返っている。だがその静寂を打ち破るような声が突き刺さってきた。その声は語気を荒げ、力強い怒声のように聞こえた。声のもとをたどっていく。閉ざされた一室の前には、しゃがみ込むメフィストの姿。
いいや、正しくは閉ざされてはいない。メフィストの手によってすこしだけドアが開かれている。それで俺の所まで声が届いたわけか。その一室は、町内会のひと達が通されていったあの場所だった。
「何してるんだ、メフィ──」
声をかけようとしたら、
「シッ」
と、ひと差し指を立てられる。
その手にはスーパーボールが握られていた。こんな所までボールを追いかけて来ていたのか。遊んでいる内に、きっと話し声が聞こえてきたにちがいない。そして、盗み聞きをしていたわけだ。オイタのしすぎだぞ。
あきれつつ口を開こうとしたら、
「ワシらを見捨てる気か」
と一喝され、ビクリとする。
今のは、光本のお爺さんか? ちいさい頃に怒られた記憶が薄っすらとよみがえるが、お爺さんが怒ることにすこし違和感を感じる。お爺さんが怒るときは、決まって誰かのためだった。普段は温厚で、声を荒げるのも珍しいくらいの人だというのに。大島さんとの話し合いは上手くいってないのだろうか。言葉の内容もちょっとばかり不穏なものだった。気になった俺はドアに近付き、耳を澄ませる。
「こら、君たちそこで何してるの。邪魔しちゃダメよ」
と背後から声をかけられた。
メフィストは素早く、音を立てずにこっそりとドアを閉める。
ふり返るとそこに店員の姿があったので、
「ごめんなさい、スーパーボールが転がってきちゃって」
可愛らしい声で悪魔は言った。メフィストは美少年だ。その美少年がいま、全力で愛くるしさを体現している。いままで俺に見せてきた姿は、どうやらどこかに置き去りにしてきたみたいだ。
店員もコロッと騙され、
「そうなの。遊ぶのなら、向こうの方で遊んでちょうだいね」
と優しかった。
すこしほほが緩み、紅く染めていたように見えたのは俺の気のせいだったろうか。メフィストったら、恐ろしい子。ドアから離れ、店員の姿が見えなくなる頃にはもう元の姿に戻っていた。
「なんだい、ボクのことを子ども扱いしてくれちゃってさ。ねえ、Kさん。まったく失礼しちゃうとは思わないかい」
「そうは言われてもなあ」
俺から見ても子どもの姿にしか見えなかった。きっと大人びたい年頃なんだな、と思うと可愛く思えてくる。ポンポンと頭を叩いてやった。するとメフィストはバッと飛びのき、あたふたと腕をふりまわしながら大きな声を出す。
「けっ、Kさん。き、きみって奴は。いったいぜんたい、急になにしてくれるんだい。ボ、ボクに、きみは、なんてことをすると言うのさ」
予想外の反応だった。まさかここまで動揺するとは思わなかった。スキンシップに不慣れな子なのだろうか。こういうのは、異国の方が寛容だった気がしないでもないのだが。
「おお、すまんな。メフィストよ」
「すまんな、じゃないよ。なにを軽く謝って済まそうとしてるんだい」
やいのやいのとしばらく言っていたが、やがて落ち着いたのか、
「まったく、Kさんは。まったく。今後は気をつけたまえよ」
と、ほほを膨らませていた。
気を取り直したのか、スーパーボールをポンと弾ませキャッチする。
「ボールを追ってここまでやって来たんだけどね。なんだい、なかなかに揉めているようじゃないか」
口角を上げながらメフィストはそう話す。まったく、いい趣味をしている。だがそのことについては俺もすこし気になっていたので尋ねる。
「いつから聞いていたんだ。あれはなんの話し合いだったんだ?」
ふぅん、と俺を見上げる瞳はどこか喜色に満ちていた。
「今度の謎は飲み込まなかったようだね。いいだろう、教えようじゃないか。ここのスーパーの撤退、これからについての話し合いだそうだよ」
「なっ」
思わず絶句してしまう。このトーエーが撤退するのか?
「本当にそう言ってたのか」
真っすぐ俺の目を見て離さないのは肯定の証だろうか。近隣住民がこぞって買い物をするこの場所が閉店するとは。なんでまたそんな事になっている。この店が閉店してしまうと、残された俺たちはいったいどうなるのだ。商店街はほとんど機能していない上、近くにほかの店があるのでもない。
一番近くの店でも、橋を越えてとなり町までいかなければならない。この辺の住民は年寄りも多く、みんながみんな、そんな遠出ができるのだろうかと心配してしまう。俺も自転車であの橋を毎度越えることになるのは、御免こうむりたいものだった。
「撤退を宣言するお店と、反対する住民のバトルがくり広げられていたわけさ。とても白熱していたよ」
光本のお爺さんが任せとけと言ったのはこれの事だったのかと合点がいく。なるほど、それは声も荒げるはずだ。この辺りに住む全員の生活がかかっているのだから。
やや呆然としながら、つぶやく。
「何も思わなかった。俺の生まれた頃から当たり前にあって、これからもずっとここにあるものだと思っていたんだけどな」
すこしセンチな気持ちになったら、悪魔はバッサリと切り捨てる。
「採算がとれないからね。いいかい、この辺の人口はどんどん少なくなっているんだよ。フロアもこの有り様だからね。がらんとしたものさ」
ご覧よ、と手を広げられるが見なくてもすでに知っている。じつに閑散としたものだった。
「ずっと変わらないでいてくれるものなんてね。しょせんは夢物語さ」
冷たく言い放つその声がどこか寂しげに聞こえたのは、俺の気のせいだったか。
この地域で唯一無二と言える大型スーパーが経営不振で撤退。思いもよらなかった事実にショックを受けたが、すこしずつたしかな情報として俺の中に浸透していく。謎は数珠つなぎであるとメフィストは言っていた。あらわになった謎の答えが、繋がるべき先を求めて徐々にその手を伸ばしていく。もうすこしだ。あとちょっとでなにかと繋がりそうな気がする。思考回路が加速していき、その答えの背がちらりと見えかけてきた瞬間。
「Kさん、パンは好きかい? ボクはね、ベーコンエピが好物なんだ。あとはブリオッシュ、とくにクーグロフが好きだよ。スコーンも美味しいよね」
のん気な声に肩すかしを食う。思考回路もぱったり止まってしまった。その間に答えはサッサと駆け出していき、もうその背を見ることはかなわない。ほう、と息をつく。
「どうした、腹でも減ったのか?」
「ちがうよ、Kさん。ひとをまるで食いしん坊のように言わないでもらいたいね。ボクはその、ちょっとしか食べないよ。ほんのちょっぴりさ」
「それはダメだ、メフィスト。たくさん食べないと大きくなれないぞ」
俺はモリモリとよく食べた。だからこそこれほどまでに大きくなった。育ち盛りに一生懸命食べなくてどうする。だからまだ小さいのだと思いながら、そのちいさな姿をしげしげと見つめる。
「ひとのどこを見ながらそんなことを言うんだい。失礼なひとだよ。まったくKさんったら、まったく」
両手を元気よく天に突き出し、ぷりぷりとしている。ううむ、俺は怒らせるポイントをいまいち把握しかねているらしい。
「ボクはさっきね。ここのパン屋さんと話したんだよ。知ってるかい、Sさんは午前三時にもう働いてるんだって。すごいよね」
Sさんとは。ああ、佐藤さんのことかとひとり頷く。
「三時にパンの生地を作るそうだよ。それから発酵させてね。成形して、また発酵させるんだって。そしてこの店の中で焼成、パンを焼いているわけさ」
なんだかパンに詳しくなった気がする。そして腹も減ってきた。そのせいだろうか。俺はちょっとばかし、うわの空だった。
「窯の前はね。とってもとっても暑いんだ。ここ一週間はとくに暑かったそうさ。昨日はとうとう、Sさん限界を迎えちゃったそうなんだよ」
ギッ。
なんだ。店内BGMに紛れてどこか遠くの方で高い、変な音がしたような気がする。サッと辺りを見回すも、だれも気にしている素振りを見せてはいない。気のせいか。
「ちゃんと聞いてくれてるのかい、Kさん。ボクの話をさ。ねえねえ。聞いてよ、聞いておくれよ」
腕を揺さぶられる。
「ん、そうか。暑かったんだな」
生返事がよくなかったのか。再び視線を戻すと、キッと見上げるその瞳は怒りの色を滲ませていた。
「聞いていないじゃないか。ワトスン君はね。いつでもしっかりホームズの話を聞いてくれるんだ。Kさんもちゃんと見習って」
「おお、すまんすまん」
助手になった覚えはないが、とりあえずは謝ることにて事なきを得る。ふんす、と鼻息荒く話は再開された。
「あまりの暑さに耐えかねたSさんはね。Oさんにお願いして、店内の冷房を下げてもらったそうだよ。『おかげで今日は快適ね』と喜んでパンを焼いていたよ」
気付けば俺も、自然と腕をさすっている。そういえば、ここに着いたときにも寒気を感じた覚えがある。すこし温度を下げすぎているのではないだろうか。でも、たしかにパン窯の前は暑そうだし、まあ仕方ないよなと飲み込む。
「ほら、また飲み込んだ」
とメフィストの口はするすると尖る。
おお、読むではない。ひとの心を。
「食品売り場はすこし寒いくらいだったよね。でもね、あの服屋の前あたりになると全然寒くないのさ。むしろすこし暑いくらいなんだ。おかしいよね」
場所によって、温度にムラがあるらしい。それは果たしておかしなことなのだろうかと頭を捻る。トーエーはそこそこの広さとは言えど、二階建ての巨大な建築物だ。熱のムラ、空調の偏りがあってもそれはしかたがないと言えるだろう。
「そういう事もあるのではないか」
はあ、とため息が聞こえる。
「ムラはあるさ。きっとあちこちにね。もうムラムラだよ。だけどね、Kさん。大事なのは、『ここ一週間、急に』というフレーズなんだよ。何かがいままでとはちがうのさ」
ポンと両手を合わせ、その横からひょっこりと顔をのぞかせる。
「というわけでさ、Kさん。もういちどひとの目を集めておくれよ。その隙にボクが忍び込んでくるからさ。空調のコントロールパネルを見にいきたいんだよね。これまでとは何度ちがうのかを知りたいんだ」
またこの子は物騒なことを考えるものだった。コツンとチョップをお見舞いする。案の定ぎゃあぎゃあと騒きはじめたが、気にせずに言ってやる。
「そんなことはしなくていい。俺に任せておけ」
何のことはない。佐藤さんに直接その話を訊けばいいだけのことだ。メフィストにもわかるようにSさんと呼ぶことにした。仕事の邪魔をしてしまうのを申しわけないと思いながら訊いてみる。Sさんはちょっと待っててね、とわざわざ見にいってくれた。なんと、これまでの設定温度と四度も差があったらしい。それなのに体感温度はさほど変わらないと言う。
そしてSさんは近くにいたほかの店員にも訊いてきてくれた。同フロアでも場所によって体感温度はバラバラのようだった。暑く、または寒く。ほとんど変わらないという場所さえあった。
不思議だったのはどの店員も、
「一週間くらい前から室温がおかしい」
と声をそろえて言ったことだろうか。
「やるじゃないか、Kさん。うっかりとボクは、きみのことを見くびっていたよ」
不揃いな声も聞こえる。平和的な調べ方を示すことが出来たのだろうか。こういう方法もあると思ってくれると良いんだがと目をやると、
「ふぅん」
と腕を組み、鹿撃ち帽を目深に被り直して口もとはにやりと笑っている。
「触れもしない缶詰めの山が崩れたお話。床のデコボコを、わざと隠しているというお話。お店のこれからを話し合っているというお話。ここ一週間ほど、空調の様子がおかしくなっているというお話」
その翡翠の瞳はきらりと好奇の色に染まっていた。鹿撃ち帽をパッと取り、美しいブロンドヘアーがファサッとなびく。
「なるほどね。謎はつながったよ」
「む。ちいさな謎はいくつかあったが、繋がるとはどういう意味だ」
「Kさんはさ、ハインリッヒの法則って知ってるかい?」
数学者かなにかだろうか。そんな方程式があったような、なかったような。すこし考えて首を横に振る。
「前兆、予兆かな。ひとつの大きな事故の前後にはね。おおよそ三十の軽度な事故、そして三百の事故にも満たない、些細なつまづきがあると言われているんだよ。謎もそれと同じなのさ」
「と言うと?」
「ひとつの真相の前にはね。決定的なだれでもそれと分かるすこしの謎と、気付けるひとは気付ける、ほんのちょっとした謎がたくさんあるわけだよ。Kさんはね、そのちょっとした謎にしっかり気付けるひとさ」
そう言われ、すこし照れる。
「飲み込んでちゃダメだけどね」
照れて損をした。
「それらの謎を全部あつめてね。はいどうぞとすれば、だれでも真相に至れるのかもしれないよ。利口なひとならすこしの謎で済むだろうさ」
鹿撃ち帽はくるりと回される。
「でもボクのように、たったひとつの謎から真相にたどりつける者をね。『探偵』と、ひとはそう呼ぶのさ」
クリっとした翡翠の瞳をランランと輝かせながら、まっすぐな視線を寄こしてくる。自信満々に言いきった小さな探偵の、その大きな態度に俺は思わずたじろいだ。
いよいよか、と背すじを伸ばした。推理が当たっていようがいまいが、探偵ごっこはきっとここで終わりを迎えることだろう。自らを探偵だと豪語するメフィストは、事の真相を見せると言った。その翡翠の瞳にはいったいなにが見えているというのか。そして俺は、どうやって魂とやらを見せれば良いのだろう。
ゴクリと息を呑み、
「じゃあ、聞かせてくれ。いったいどんな推理をしたんだ。事の真相とはなんだ」
訊くと、メフィストは手を差し出した。
「その前にね、Kさん。電話を一本かけたいんだよね。きみのスマホを貸してくれないかな」
だれに電話するのだろう。俺にはわからないが推理に必要なのかと思い、手渡した。受け取ったスマホに電話番号を入力しながら、メフィストは笑う。
「Kさんは優しいね」
そうつぶやき、眉根を寄せて困ったように笑うその姿は、あのときに見た姉の姿と重なる。いったいなんだというのだろう。
ほどなくして電話はつながったらしく、メフィストは浅く息をつく。とくにふざけた様子もみせずに、真面目な鋭い声で俺の思いもよらぬことを話しはじめた。
「もしもし、一度しか言わないからよく聞くんだ。○○町の△△にある大型スーパー『トーエー』に時限爆弾を仕掛けた。タイムリミットは一時間だ。さあ、きみたちに爆弾を止めることができるかな。ああ、要求は特にない。交渉もしない。それでは、きみたちの健闘を祈っているよ」
通話を切り、ポンとスマホが返される。呆然としていたので思わず落としそうになったが、無事キャッチすることができた。しかし突然のことに開いた口が塞がらない。いま、少年はなんと言っていた。爆弾だと? 塞がらないままの口で問う。
「メフィスト、いまのはどこに電話をかけたんだ?」
カクリと首をかしげ、さも不思議そうな顔でほっぺたに手を添える。
「うん? おかしなことを聞いてくるじゃないか、Kさん。ボクは爆弾を止める技術を持ってる機関をさ。警察のほかには知らないんだけど、きみは知っているのかい?」
「俺だってほかには知らないぞ。つまり、なんだ。いまの電話は」
「うん、警察に電話したんだよ。そろそろ慌て出した頃かもしれないね」
のん気に言ってのける声を聞き、俺の声はつい荒くなる。
「メフィスト! イタズラにも限度が──」
その時、店内にアナウンスが流れた。
「皆様。ご来店、誠にありがとうございます。先ほど警察から店内に不審物が持ち込まれた可能性がある、との連絡を受けました。安全確認のため、店内の点検を致しますので、係の指示に従い、店外へとご移動願います。くり返します──」
大変だ、話がおおごとになってしまった。どうするべきだ、これは謝って済むことなのかと逡巡する。
「ほら、Kさん。なにやってるんだい。ぼくらも外に避難するよ」
ぐいぐいと袖を引っ張られる。まだ反省していないのかと憤りを感じながら、メフィストの顔を捉えた。その翡翠の瞳はやましいことなど一切ないといった風に、ただ真っすぐと俺の目を射抜く。
「ほら、避難するよ」
との声に俺は抗えなかった。
店の外に出てしばらく経つと、こんなにいたのかと驚くほど、次々にひとが飛び出てくる。店内のひとに加えて、野次馬もあつまりはじめたので人だかりとなっていた。
日本の警察は優秀だ。ものの数分で最初のパトカーが到着し、あれよあれよという間に次から次へとあつまってくる。警察官が増える度に、現場の空気がピンと張りつめたものに変わっていくような気がする。
警察は無線で連絡を取り合いながら複数人の隊列を組んで店内の調査へと繰り出していったが、爆弾などはあろうはずもない。すべては俺の隣で得意気に腕を組み、ことの成り行きを物見遊山している少年の口から出たでまかせなのだから。
俺はひたいに手をやり、
「はあ」
と深い、深いため息をついた。
「それで、どういうつもりなんだ?」
人だかりは、何事だとざわめいている。そんな喧騒の中にて佇む子どもがふたり。
「すこし物騒な話をしたところで、だれも気にしないよね」
と、メフィストは語り出した。
「まずは勝手に崩れはじめた缶詰めの山の話だよ。足場の床が不安定になっていた。それを隠そうとして、新たに生まれたデコボコが原因だったね」
それは納得しているぞ、と頷く。
「新たに生まれたデコボコも含め、Oさんは隠したよね。なぜか。答えは簡単さ。もうその場所を修理する予定がないからさ」
「どうしてそうだとわかる」
と訊くと、指で円を作ってみせる。
「お金がないんだよ。もうこのお店は撤退が決まっているからね。予算もきっと下りないだろうさ。それに封鎖するわけにもいかない。封鎖したまま放置なんてしてたら、買い物客に不審がれちゃうだろうからね」
「なるほど。いくら撤退が決まっていても、それまで客足を遠のけるわけにはいかなかったんだな。商魂たくましい、苦肉の策だったというわけだ」
「次はね」
とメフィストは指を立てる。
探偵の格好をしているせいか、それらしく見える。まるで自分も含め、探偵ドラマの中に迷い込んだような錯覚を覚えた。
おお、いつから俺はこの少年を探偵だと認めたのだと頭を振った。そんな俺の心を知ってか知らずか、メフィストはにっこりとほほ笑む。
「次はね。ボクは、この店の床をくまなく調査した。どこかにひずみがないかとね」
「む、調査なんてしていたのか?」
パッと差し出された手にはスーパーボールが握られている。
「これで調べていたんだよ」
なんだ。ボールを追いかけていたのは、遊んでいたわけじゃなかったのかと思い至る。突如としてメフィストから笑みは消え失せ、むっとした顔つきで口を尖らせる。
「Kさんったら、ボクがスーパーボールではしゃぐような子どもに見えるってのかい」
うむ、見える。そして俺はなにも口にしてはいなかった。勝手に読んだ心の中の俺にまで、むっとされたら困るではないかと苦笑いする。
「調べてみたらね。あちこちの床が傾いていたんだ。食品売り場の床がデコボコになっているのも、それが原因なんだろうね」
ぷりぷりとしながらではあったが、メフィストはそう話す。言われて遠巻きに建物を眺めてみるが、本当にそうなのかはわからない。指で四角を作って見比べてみたりもしてみるが、傾いているような実感は感じ得なかった。
「ふむ、傾いているようには見えないが」
「まちがいないよ。それにね、Sさんも言ってたじゃないか。ここ一週間くらい急に冷房の効きが悪くなったって。ほかのひともそう言ってたよね。あちこちに温度差があったってさ」
Sさんは設定温度を下げても、体感温度は変わらないと言っていた。冷房の効きが悪くなったとも言えるのだろうか。
「でもそれは、関係があるのか?」
「あるさ。ひずみが生まれ、建物は傾き、すき間風が入る。場所によって室温はマチマチになるだろうね」
冷たい空気が流れ出てしまう場所に合わせて温度を下げると、寒すぎる場所も生まれてしまうというものだろうか。
「ずばり言うとね。この建物は不同沈下を起こして、傾いているんだよ」
「フドーチンカ?」
「そうだね。うん、地盤沈下でもいいよ」
なら、はじめからそう言って欲しいものだ。地盤沈下なら俺でも聞き覚えがある。いろんな要因で地面が緩くなり、建物が沈む現象の名だ。この辺は昔、埋め立て地だったせいで起こりやすいのかもしれない。
「するとね、あの住民との話し合いの意味が変わってくるよ。知っていたかい、あの話し合いはもうすでにニ回目なんだってさ。数年前にも話し合いがあってね。住民側の意見を汲んで撤退日を延長したそうだよ」
任せとけと、悪いことにはさせないと大見得を切ったKさんの顔が頭に浮かんだ。
「なるほどな。Kさんはおそらく一回目の話し合いに立ち会った、いわゆる勝者だったというわけだな。あの力強い言葉は二回目故の、自信の表れだったということか」
言って首を傾げる。おお? メフィストよ。やはりアルファベットだけで呼ぶと、光本のお爺さんも俺とおなじKさんで名前が被ってしまう気がするのだが。
そして考える、二回目の話し合いかと。最初がいつ行われたのか俺は知らないが、もうすでに店の撤退を延長してもらった後だったという。不思議と驚きはなかった。俺はずっと目にしていたし、体感もしてきたはずだった。ただ、いちどたりとも問題として認識はせずに飲み込んでいたのだ。
高齢化が急に進んだわけではなかった。もちろん、若者がこぞって一斉にこの町を飛び出していったわけでも。緩やかにひとは老い、すこしずつ離れていっているのだ。
今もなお。
俺自身この店にはよく来るが、混んでいると思ったことはない。なくてはならない場所だが、ただ唯一、ここだけだと思える場所でもなかった。安い物やすこし良い物が欲しくなった時は、たとえ遠くてもとなり町まで出向くし、なんならハシゴしたりもする。それに加えていまは、便利なネット通販というものもある。
俺だけがそうしてきたという話でもないはずだ。きっと多くの住民が同じような考えをしていた。それがこの閑散とした結果なのだろう。俺の心の整理がつくのを待ってから、メフィストは話を続けた。
「傾きによる異変がはじまったのは最近のことだろうね。それより前にあった話し合いは、経営不振によるものだろうけれどさ。さあ、今回の話し合いはどうだったんだろうね」
「どう、とは?」
「思い出してごらんよ」
と手を広げる。
「Oさんはさ、店内の異変を隠していたんだよ。話し合いの場でさ、それを言ったと思うかい。ボクはそうは思わないね」
隠すのだろうか。わざわざ言うことでもないのだろうか。
「それにね。それを言ったところで、住民は果たしてその話を信じるのかな?」
俺は、はたと首をかしげた。
「だってさ、撤退を延長するのが決まったその後に店の異常を訴えるわけだからね。嘘だと。撤退するための理由付けだと、勘ぐられるのがオチじゃないかなと思うよ」
そうかもしれない。話し合いに向かっていたその面々は、どこか余裕に満ち溢れていたように見えた。不安な事など、まるでないかのように。
「だが、隠し通せるものなのか?」
従業員であるSさんも異常には気付いていた。Oさんに言って設定温度を変えてもらった後は、いつものように過ごして……。
ああ、そうか。飲み込んだのだ。
俺とおなじくして、不思議を目の辺りに飲み込んでなかったことにしたのだった。
「ちなみに定期検査はあるからね。お店は事態を把握してたはずさ。もっとも、店側はもう修理する気はないようだけどもね」
言葉を失う俺に、
「この建物は二階建てだから、報告の義務がないんだよ。改善努力はいるんだけど、あくまでも努力なんだね。撤退前にそれを求めても、ねえ?」
と首を横にかたむける。
半眼になった翡翠の瞳は、ジロリと睨め上げてきた。
「Kさんはさ。本当に優しいよね。このボクにスマホを貸してくれたんだもの」
その目を見るに、どうやらほめられているわけでは無いようだった。
「優しいから、だから付け入られるのさ。相手にもうまく利用されてしまうんだよ」
「利用」
──俺は利用されているのか?
「このスーパーも付け入られてるだけなんだよ。情けをかけて撤退を延長したばっかりにさ。もうあとに引けなくなっちゃっているんだ。甘えられてる。その結果、嘘をついてだまそうとする有り様さ」
それを言うメフィストの瞳は悲しげに、口もとだけで笑みを形どった。あのときの姉の言葉が、顔が、胸によみがえってくる。そうか、あれはそういう意味だったのだ。俺を、心配しての言葉だったのか。
グッと歯を食いしばり、
「それはちがうぞ、メフィスト」
一歩、前へと踏みだす。
「どうちがうんだい?」
「だまそうとしたのではなかったはずだ。知っているだろう。この辺は年寄りの住民が多い。この店なしでは生活できないひともきっと出てくることだろう」
外部からの客は来なくとも、そのひと達にとってこの店はやはり生活の礎になる物で、店もそのことを知っていた。ならば。
「そんなひと達のために、すこしでも店を続けようとする優しさ。それは決して悪いことではないはずだ」
まるで俺が反論するのがわかっていたかのように、メフィストはスンとした顔をしていた。瞳はまっすぐ前をみつめたまま、口の端をゆっくりと持ちあげてみせる。
「そうだね、優しさは美徳だよ。でもね」
ズシン──。
その時である。腹にズンと響くような、にぶくて重い、大きな音が耳にとどいた。すこし地面が揺れた気さえした。突如の音にまわりの喧噪も俺たちも、一斉にシンと静まりかえるほどだった。
ザー、と沈黙を破ったのは警察の無線だった。静まりかえった場の空気によってその声はよく通り、そして広まった。
「崩落、崩落。食品売り場の床が落下した模様。負傷者なし。爆発物ではないと思われる」
「了解、引き続き周囲を散策せよ」
その声を聞き、ザワザワ、ヒソヒソと周りはさわぎはじめた。爆発物という言葉に、爆弾の可能性を見出したのだろうか。爆弾などないことを知る俺たち以外は、にわかに色めき立っていた。
俺も驚きを隠せない。いま、食品売り場の床が落下したと言ったのか。ついさっきまで俺たちが立っていた、あの床が?
カツ、と一歩近寄ってくるメフィストに、思わず身体をビクリと震わせる。
「でもね、Kさん。優しさは正義ではないのさ。よく覚えておくといいよ。優しさは時にひとを傷付けもするということを。それが自分であったり、他人であったりね」
その笑顔が悪魔のようにみえた。
背すじがゾクリとする。ある想像が俺に冷たいものを感じさせたのだ。想像したのは、もしもメフィストが警察を呼ばなかったらどうなっていたのかということ。
屈強で体を鍛えている警察官が、周囲に注意を払いつつ調べていたからケガ人が出なかったのだ。それがもし、ただの買い物客だったとしたらどうなっていたのだろう。ここは年寄りの客が多い。はたして彼らは反応できたのだろうか。それが死に繋がる大きな悲劇になりはしなかっただろうか。俺自身が巻き込まれていたとして、ケガを免れたとは完全に言い切れなかった。
たとえその元が優しさ故の行動であったとしても、現実と折り合いをつけずに騙しごまかししてきた結果がこの大きな事故につながっていたのだとするならば。それでもその優しさは、本当に優しいと呼べるものなのか。呼んでもいいものなのか。それとも、母の教えが間違っていたのだろうか。
答えは出ない。
ぐるぐると考えの交錯する俺を満足気に見ていたメフィストは、くすりと囁いた。
「Kさん、きみの気付いた謎は。飲み込んでしまおうとした謎の正体は。じつはこういうものだったんだよ」
チクリと言葉が胸に刺さる。見なかったふりをした。なかったことにしようとも。ことを荒げないように、穏便にやり過ごすために。今までしてきたのと同じように。
──本当にそれで良かったのか?
クイッと袖を引かれ、声をかけられる。
「じゃあ、Kさん。ボクらはもう行こうじゃないか。ここにいて巻き込まれてもつまらないじゃないか。あとのことは全部、警察がうまくやってくれるだろうからさ」
警察を巻き込んでおいてよく言ったものだと思う。翡翠の瞳は俺を捉えてにっこりと笑った。
「いつだって後片付けはね、大人の仕事なんだよ」
歩き出すメフィストにつられて、その姿を追いかける。しばらく歩きつづけ、喧噪からも離れた。ゆっくり落ち着きを取り戻し、買い物をしていなかったこと、自転車をスーパーに忘れてきたのを思い出した。引き返そうかと後ろを振り向くと、一台の車が近寄ってくるのが見える。
その車は急にスピードをあげ、俺たちの目の前に乱暴に乗り付けてきた。そして、中からひとりの男が降りてくる。スーツ姿のその男が刑事だというのはひと目でわかった。いったいなぜだろう。
ヤクザ顔負けのいかつい顔をしてるわけでもない。男前の部類だろう。背すじはピンと伸び、スーツ越しにガッシリした体躯をしているのがわかる。そのせいだろうか。
いや、ちがう。眼光鋭いその瞳のせいかもしれない。表情は険しく、視線にさらされるだけで射すくめられてしまいそうだ。男はスタスタと近付き、ハリのある落ち着いた声で告げる。
「爆弾をしかけたそうだな。テロ等準備罪で逮捕する」
「逮捕!?」
メフィストを逮捕しにきたのかと、そう思った途端に身体が動く。気付けば俺は、刑事の前に立ちふさがっていた。
「すいません、本当は違うんです。この子のイタズラなんです。狂言だったんです」
男は鋭い眼差しでこちらをチラと一瞥したが、すぐに興味がないとばかりに視線を戻して歩みを進めていく。それでも俺が前に立ちふさがると、あわやぶつかりそうになる距離まで近付き、ようやくとまった。
「そこをどけ。お前に用はない」
と言われ、刹那、萎縮する。
刑事の威圧感に圧されているのか、深く息を吸い、身を奮い立たせて弁護した。
「聞いてください。爆弾なんて実際はないんです。言葉だけのことなんです」
「そうか、ならば共謀罪だ。テロを実行したかどうかは問題じゃない」
聞く耳を持ってくれず。尚も進もうとする歩みを止めるには、刑事の腕を掴むしかなかった。怒気を含んだ声が荒々しく飛ぶ。
「手を離せ。邪魔立てするなら、公務執行妨害でお前も逮捕するぞ」
思わず緩みそうになってしまう手に力を込めて必死に保つ。が、鍛えてある刑事の力が振りほどこうともがくのだ。そんなもの最初から俺に止められるはずもなかった。徐々に腕は引きはがされていく。
もう幾分も持つまい。ふり向くことすら出来そうになかった。後ろにいるであるうメフィストに向けて、短く言葉を放つ。
「逃げろ」
口から飛び出た言葉に、自分でも驚きが隠せない。俺は警察の邪魔をして、あまつさえ捕らえようとしているのを逃がそうとしているのだ。他でもない、あの俺がだ。
「警察に捕まる必要があるとは、どうも俺には思えないんだ」
戸惑いながらも大きな声がでた。
「勝手なことをわめくな」
ピシャリと刑事が撥ねつける。
「俺は!」
きろりと視線を向けたらばちりと刑事と目が合い、視線を逸らさずに言う。
「俺はひとには優しく、嫌なことはしないこと。親からそうやって教わってきました。ずっとそれが正しいと思ってきたんです」
刑事は力を緩めないまま、しかしその鋭い瞳は俺を捉え続ける。
「コイツのやること為すことはその教えに相反することばかりでした。とても褒められた行動じゃなかった」
いままで見てきたことを順にふり返り、口にする。
「ひとの嫌がるところを探り、子どもからおもちゃを奪い、盗み聞き、そして警察にテロ予告までしました」
それらすべてが犯罪まがい。悪魔の所業だった。それだけだったならば、咎められるべきことばかり。逮捕に乗り出てきたこの刑事の行動に、俺も異論などあろうはずもない。それでも。
「ただの偶然かもしれない。だけどコイツのした行動はいたかもしれないケガ人を、死人を出さずに防いだんですよ。俺が見ないふりをした謎から、事故を未然にです」
腕は、完全に引きはがされてしまった。もう俺に残されたのは言葉しかなかった。切羽詰まった想いを吐露する。
「それが、罪であってたまるものか!」
ギリと音が聞こえそうなほど睨まれる。俺はまったくどうかしてしまったのか。刑事に向けて、一喝してしまうだなんて。
刑事は答えずに笑い声が聞こえてきた。笑ったのは、俺の後ろにいるメフィスト。
「Kさん、優しさは自身をも傷付けるんだと言ったばかりじゃないか。きみって奴は、まったく。それでも優しいんだね。ホントにどうかしているよ」
ひょっこりと顔をのぞかせたメフィストは笑っていた。刑事相手であろうがお構いなく、悪魔はほほ笑む。
「だいたい、きみもきみさ。逮捕状も見せずに逮捕とは笑わせてくれるじゃないか。そもそもきみは警察手帳も見せてないよ。本当に刑事なのかい?」
チッ、と舌打ちが聞こえた。
「緊急逮捕なら、令状はいらん」
「緊急とは思わないけどねえ。それに公務執行妨害だって? どこが公務なんだい。相棒はどこにいるのさ。スタンドプレーは好まれないよ」
ふん、と鼻を鳴らし、
「笑わせるな。お前にスタンドプレーなどと、とやかく言われる筋合いはない」
冷たく言い放つ。
なんだ、なんだ。俺は事態にまるでついていけてない気がする。ふたりはなんだか見知っているようにも思えるのだが、これはいったいどうなっているのだろうか。
困惑する俺は交互にふたりを見やった。片やニコリと、ほほ笑みすら浮かべて余裕綽々のご様子で、そして片やニコリともせず眉間にしわを浮かべて怒り心頭のご様子だった。
「いったいどうなっているんだ。ふたりは知り合いなのか?」
そう問うが、刑事はむっつりとしたままでまるで反応がない。必然とメフィストが答える運びとなった。
「そのひとはね、ボクの兄さんなんだよ」
「兄弟……、なのか?」
いや、しかし。と刑事の姿を仰ぎ見る。表情は険しいままに、一切の隙をみせようとはしない。黒髪の短髪、着慣れているであろうスーツ、眉間のシワさえなければモテそうな風貌をしている。
そして眼光鋭いブラウンの瞳。俺のそれと同じ、よく見慣れた瞳の色をしていた。どこからどう見ても紛れもない日本人だ。くるりとふり返り、金髪翠眼のメフィストの姿と見比べてみる。本当に兄弟なのか、その疑問にはぶっきら坊に刑事が答えた。
「便宜上、そう名乗っているだけだ。俺とソレには血の繋がりなんてものはない」
「つれないねえ。義兄さんは」
笑みこそ見せるけれど、メフィストの瞳は柔らかいものではなく、どこか刺々しいものを感じさせた。いったい何があり、ふたりは兄弟と名乗っているのか。待てども説明があるわけではなく、器用に訊きだすこともできそうにはない。あいにくと俺にはそれを知る術はなかった。
まるで、
「なんでもない」
と言うように、メフィストはことさらに明るい声を出している様に思えた。
「そういうわけで、Kさん。安心しておくれよ。大丈夫、ボクは逮捕されないよ。ただのジョークだったのさ」
「おお、なんだそうか。ジョークだったのか。しかしまた、なんでそんな事を」
ほっと胸を撫で下ろすと、刑事は両手を広げるメフィストを一瞥し、吐き捨てる。
「お灸をすえてやろうと思ってな。いいか、ジョークで済むと思うなよ。俺に連絡がまわって来なかったら、お前は本当に豚箱行きだったことを忘れるな」
ゾクリとすることを言う。しかし当のメフィストはどこ吹く風だと言ってのける。
「やだなあ、ボクがかけたのは交番の直通番号だよ。この時間はいつも警らに出かけてて、Gさんしか交番に残らないのをボクは知ってるよ。あのひとならね。きっときみに話を通すいう推理の上での行動なのさ」
チッ、とまた舌が鳴っては響く。
「忌々しい奴め。楽さんの事をGさんなどと呼ぶな。俺がお世話になったひとだぞ」
「ふふん、ボクだってさ。好きでそうしたわけじゃないんだよ。子どものボクの話を真剣に、迅速に聞いてもらえる機関ならね。こんな真似しやしないさ」
聞く耳を持たずに悪魔はこちらを向き、破顔する。
「でも驚いたよ、Kさん。今回きみは想いを飲み込まなかったんだね。小さくとも一歩前進だよ。うん、きみの魂。たしかに見せてもらったよ」
おお? 俺はいつの間にそんな物を見せたのだろうかと、まるで実感がない。
くすっと笑みをこぼし、
「本当はね、イジワルしただけなのにさ」
ヒソリと悪魔は囁く。
「む?」
「優しさが正義、というひとにね。優しさが原因の事故をみせたらどうなるのかと、興味が湧いたんだよね」
そう言えば、人間観察が趣味だと言っていた気がする。まったくしかたのない奴だと嘆息をつく。でも色々とまあ、助かったのも事実だった。
「ありがとうな」
礼を述べると、メフィストはキョトンと戸惑った顔をする。
「お前は腹が立たないのか?」
と刑事に訊かれたので、はにかんで返答としておく。
「変わった奴だな」
険しい視線のままピクリと眉を動かし、刑事はふっと息をついた。
「だが。お前はまだ、愚妹とは違ってまともなようだな」
それは褒めているのだろうか。どちらかわからないようなことを言われてしまう。
「む」
と俺は首をかしげた。
いまなにか、すこし変ではなかったか。
「ぐまい?」
メフィストと目が合う。
「失敬だね、きみ。たしかにボクは妹ではあるけれども、愚かではないんだよ」
「いや、まてまて」
俺が引っかかったのは、そこではない。
「メフィスト。きみは女の子だったのか。それにしてはすこし、いや、まるで男の子の──」
その言葉はかき消され、腕をふりまわしながら沸々と声を荒げられる。
「Kさん、きみって奴はさ! ホントにまったくもう、失敬な奴だよ! どうして口にしてしまうんだい! たとえ心に浮かんだとしてもさ! べつに言わないでもよかったことじゃないか!」
ぷりぷりと怒る。
「しかしメフィストよ。飲み込むなという話ではなかったのか」
「飲み込みたまえよ!」
おお、なんとわがままなと呆気に取られる。しかしそうだったのか。俺はメフィストのことを美少年だと思っていたのだが、本当は美少女の間違えだったという訳だ。そう思ったその言葉を、今度は間違えないようにしないとなと注意深く、しっかりと飲み込むことにしたのだった。
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