風のアジェス

琴鳴

第1章 海の名は愚者

          1

 また船が着いた。

 ルシアは小走りに路地を急いだ。

 華奢な両の腕には、船員向けの菓子やら酒やら、ちょっと気のきいたものでは手織のバンダナなどの入った篭を抱えている。ルシアの生業では、これらの品を船員に売って金にしなければならない。なかなかに難しい仕事だ。

 船が着いた直後の船員は、すぐさま荷下ろしの重労働にかからねばならず、それが終わればすぐに酒場や娼館にしけこんでしまう。

 といって、荷下ろしをしなくても済む船将や高級船員は、ルシアが商うような小物には目もくれない。

 もっとも、彼らの多くは好色な視線をルシアの胸や腰に向け、別の購買意欲を持っていることを露骨に示すが、ルシアにはそれに応えるほど捨て鉢な気持ちにはなれない。

 ルシアの同業者の多くは、そのへん割り切っていて、狭い露地の奥で一仕事こなしてしまう。娼婦と呼ぶにも軽すぎる、身を売る娘たちであった。

「いったん汚れてしまえば楽なもんだよ。ルシアだって、今にわかるさ。こんな町で、身寄りもなくて、他にどんな稼業があるのさ? 売子なんて、子供のうちだけだよ。クランベイルの親方だって、いつまでも甘い顔をしちゃいないさ」

 ルシアよりも二つ年上のアニタはよくそう言っていた。そのアニタは、半年前、ある船将に性質の悪い病気を伝染されて死んだ。まだ十八だった。

 アニタが死んだ時、クランベイルは葬式を出してくれた。港町シフォンの顔役であるクランベイルには、そういう仁気があった。だが、件の船将にアニタをあてがったのもこの男なのだ。

 だが、そんなクランベイルを恨む気持ちはルシアにはない。もうすぐ十七歳になろうというルシアに、依然として売子の仕事をあたえ続けてくれている。

 しかし、クランベイルの言葉は、最近とみに粘っこくなってはいた。

「なに、嫌だというものを無理にとはいわんよ。ただ、気が変わったらいつでも言いにおいで。ルシアならば、この町一番の売れっ子になれるとも。ま、考えるだけは考えておいとくれ」

 一日の売上を渡しに行くと、わざわざ直接顔を見せ、そのように言うのだ。ルシアはその度に、気持ちが暗くなる。断わりきれなくなる日がもうすぐ来るような気がする。

 港へ出た。

 町並みが切れ、突然に視界が開ける。ルシアは、港のこの光景を見る度に怖いような感覚を覚える。

 そこには何もない。

 ただ、荒野がどこまでも広がっている。

 地平線は丸く孤を描き、雲ひとつない空にはふたつの太陽が照り映えている。その広大さを思うと、町はまるで点のようだ。ルシアの身体も人生も、その広さの中では何の意味も持たないような気がする。

 船が唸っていた。この港に着く船としては大型の部類に入るだろう。桟橋に今にも着こうとしている。ぎりぎりと綱が鳴っている。

港の中では風は使えない。そのため、港に着く船は、役獣か人間の力によって引っ張られることになる。港にはそのための家畜や人夫が多数いる。

 凄まじい労役だ。一日の終わりを迎えた桟橋には、大抵ひとつやふたつ、死骸が転がっているものだ。たいていは獣だが、たまに人間のこともある。

 港にはルシアの同業者たちが既に出張っていた。ルシアよりも年下の娘も多い。みな、船が着くのをじっと待っていた。

ようやくと船は荷揚げ用の桟橋に横付けされた。斥力発生機が止まり、船は接地する。

 威勢よく船腹の扉が開き、上半身裸の船員たちが飛び出して来た。

 娘たち、子供たちがわっとばかりにそれに群がる。

 ルシアも走った。

「ねえねえ、船員さん、これ買っとくれよ、ねえ」

 嬌声を張り上げる娘がいる。あからさまに身体を相手に擦りつける者さえいる。

 ルシアは競争者に圧迫されながらも、客を求めた。

 大きな声は出さない。しなを作る術も知らない。だが、船員たちはたいていルシアのほうに目をやった。

抜けるように滑らかな肌と、艶やかな黒髪。双眸は赤色がかった茶色で、これも珍しい。

 痩せてはいるが、最近身体の線が柔らかくなり、胸のふくらみが目立つようになっていた。

 たちまち、数人の船員がルシアを取り囲んだ。

「いくらだい、ねえちゃん」

 下卑た声を船員は出した。ルシアは篭の中の品物を相手によく見えるようにした。

「干しルクシュ果が五エラム、蜜杏が七エラム、そして……」

「わかった、わかった。それも買ってやるから、お前の値段を言いな」

「わたしは……売り物ではありません」

 消え入りそうな声でルシアは言った。血が頬に昇っていた。

 船員たちは、それを一種の技巧であると見た。

「なかなかうまいな、値を釣り上げる気か? いいだろう、お前さんは別嬪さんだ。一人当たり一〇〇エラム払ってやる。どうだ、いい値段だろう。その代わり、おれたち四人の血を鎮めてもらうぜ」

 言うなり、船員の一人がルシアの腰を絡め取った。軽々とルシアを抱き上げる。

「いや! やめてください!」

 思わず悲鳴になった。空が回っていた。

 ルシアは気が遠くなる気がした。船員の腕から逃れられるとは思えなかった。

 まさか、人前で裸に剥くまでは、いくら理不尽な船員たちでもするはずはなかったが、動転しているルシアにはそこまでの分別はない。

 か細い声を出しながら、虚しい抵抗を続けていた。

「ルード。その娘は商売女ではない。降ろしてやれ」

 落ち着いた男の声がした。

 ルシアを抱き上げていた船員は動きを止めた。

「まさか……」訝しそうな声を出した。「嘘だろ?」

「わからんか? その子はうぶだ。それを船乗り風情に売り捨てるには、少々綺麗すぎる」

「ううむ」

 納得したのかどうか、ルードはルシアを降ろした。ルシアは平衡感覚を失って、よろめいた。その腕を力強い手が掴んだ。

「立てるか」

 ルシアはその声の主を見上げた。

 若い男ではなかった。少なくとも、若すぎることはなかった。 三十前後だろう。

 陽に焼けた肌は赤銅色をしていた。手入れをしていない髪は伸び放題で、それを無造作に後ろで束ねている。髭も不精髭をそのままにしている。

 それでも不潔に見えないのは、ルシアに声を掛けた時に覗いた歯が白かったからかもしれない。

 男は船乗りには見えなかった。一見すると、旅の吟遊詩人のようだ。もっとも、この男は竪琴も笛も持ってはいない。フード付きのマントを羽織った下に毛織のチュニック、丈夫そうなズボン。足にはしっかりとした造りの革の靴を履き、臑は靴の中に砂が入らないように布で厳重にシールされている。長い旅をしている者のいでたちだ。

「助けていただいて、ありがとうございました」

「気にしないでもらいたい。それに、ルードたちも悪気があってしたことではない。本来は気持ちの優しい連中だ」

 男はルシアから手を放して、そう言った。

 ルードたち船員は大きくうなずいた。

「そうとも、おれたちは悪人じゃねえぜ。てっきり、おねえちゃんが、その、なんだ……春をひさいでおるのかと思っただけだ」

「そういうことだ。これからは気をつけた方がいい。きみはもうただの売子には見られない。そういう年齢になっている。こういう目に遭いたくなければ、別な仕事を見つけることだ」

男はそのように言い、歩きはじめた。船員の一人がその背中に声を掛けた。

「アジェス、この町で本当に船を降りちまうのかい?」

「ああ。ここで人を捜している。うまくすれば、おれの行きたい場所の手がかりも見つかるはずだ。あんたたちの船には世話になった。船将にもよろしく言っておいてくれ」

「あんたは、船乗りになるべきだよ、アジェス。あんたほど愚者の海の風の流れを見通せるやつはいねえよ。おれたちの船が難破せずに済んだのは、みなあんたのおかげだったぜ」

「ありがとう」

 男は一言告げると、もう後ろを振りかえらなかった。

 ルシアは、その背中を見つめた。そんなに立派な体格ではない。むしろ、小柄な部類に入りそうな男が、巨漢ぞろいの船乗りたちより、一回りも二回りも大きく感じられた。

「なかなか、いねえぜ、ああいう男は」

 ルードがつぶやくように言った。

「あの……」

 おずおず、ルシアはルードに声を掛けた。

「ん?」

 ルシアに視線を戻したルードの瞳には先程までの昂ぶりはもはやなく、気のよさそうな人柄がにじみでていた。

「今の男の人は、どういう方なのですか」

 不躾な質問だと思いつつ、訊かずにはいられなかった。

 ルードはにこにこ笑いながら答えてくれた。

「アジェスかい? 実をいうと、おれたちもよくは知らないのさ。ここに来る前に寄った港でおれたちの船に乗った旅人なんだが、不思議なやつでね。愚者の海で嵐に遭った時に、船を嵐から脱出させてくれたばかりか、見事な追風を捕まえて、予定よりも三日も早くここまで連れて来てくれたのさ」

「そうそう。自分のことは何も話さない男だったが、気持ちのいいやつだったな」

 船乗りの一人が相槌をうち、みなもそれに同意するようにうなずいた。

 (アジェス……さん)

 ルシアは頭の中でその名前を反芻した。するとなぜか、意識の中に風が吹き抜けるような気がした。


            2.

 その日の売上を握りしめ、ルシアはクランベイルの事務所に向かった。

 商いはうまくいった。

 気のいい船乗りのルードと友達になれたおかげで、その船、リクスヴァ号の下級船員たちが争うように買物をしてくれたのだ。

 クランベイルは町の中心部に大きな館を持っていたが、その館には寝に帰るだけだ。たいていは、港の一角にある事務所に詰めている。

 事務所とはいっても、内部には分厚い絨毯が敷き詰められ、広いホールには富の象徴ともいえる噴水があるなど、まるでちょっとした藩王の宮殿のようだ。

 もっとも、ルシアのような売子は表玄関から入ることは許されておらず、裏口から入り、土間でクランベイルの手下に売上を渡すことになっている。土間は、ちょうどクランベイルの執務室の裏手に当たっている。

ルシアは下働きの少年に来意を告げ、集金役が来るのを待った。

 奥の執務室からから声が聞こえてきた。扉が完全には閉まっていなかったのだろう。

 聞こうとして聞いたのではない。忘れられない響きを耳にして、神経が先に反応した。

『賢者の森の話だ。この地方には、その言伝えが残っていると聞いた』

その声は、港で会った男、アジェスのものだった。

応対するクランベイルのとぼけた声も聞こえた。

『そんな話は知らぬな、旅の方。だいたいにして、愚者の海の奥の奥に出る船なんぞ、いくらわしとても出せやせんて』

『そうかな? あんたのところの売子が商っているルクシュ果や煙草は、平原のものではなかった。おそらく、山岳地帯の未開部族と通商をして手にいれたのだろう? その便船があるはずだ』

 ルシアは驚いた。自分たちが売っている品物の出所を、今まで気にしたことがなかった。それはそうだ。なにしろクランベイルは港の顔役だ。自分でも幾つもの陸船を所有し、手広く貿易をしている。色々な地方の物産が集まることに何の疑問も抱かなかった。

 山岳地帯、とはどんなところだろう。《やま》という言葉は知っているが、実感としてはイメージできない。なにしろ、シフォンは陸の海のど真ん中にある。周囲のどこを見渡しても、視界を遮るものなどはなにひとつなかったのだから。

 それに、アジェスが言ったもうひとつの言葉、《賢者の森》とは。《もり》とはなんなのだろう。もはや、その響きの意味するところさえ、ルシアは知らなかった。

『ばかなことを言ってもらっては困る。わしはこう見えても色々な商人と取引がある。どの商人がどこでどんな品物を仕入れたかまで、いちいち詮索するほど暇ではない』

 クランベイルはあきらかに問答を打ち切りたがっている。

『では、最後にもうひとつだけ聞かせてもらいたい。この町に住んでいるはずの人間の居場所を知りたい』

 そこまでアジェスの声が聞こえた時、奥からのっそりと集金役の男が現われた。

『ダン・ラズロという名の男だ。元船乗りで、この町に家族がいるという話だった。その男をおれは捜している』

 集金役の男が、聞き耳を立てているルシアを一喝した。

「ルシア! 何を盗み聞きしてやがる!」

 その次の瞬間、執務室の扉が開き、クランベイルが、その丸い肉の塊のような顔を突き出した。形相が変わっていた。

 クランベイルと目が合った。ルシアの背筋に寒気が走った。それほど、相手の表情は歪んでいた。

 激しい音を立てて扉は閉められた。これで、執務室の中の様子はわからない。

「な……なんだぁ?」

 肝を潰したのはルシアだけではなかった。集金役の男も、クランベイルの余りの剣幕に動揺していた。

「いったい、どうしたってんだ、ルシアよ」

 声をルシアに掛けたが、ルシアの姿勢は凝固したままだ。

 (ダン・ラズロ……)

声には出さず、つぶやいた。

(父さんの名前だ……)


            3

ルシアは今、自分の部屋にいる。

 ひどい臭いの立ちこめる下町の、粗末な貸し部屋だ。家具と呼べるようなものは、古ぼけたベッドとテーブルくらいなものしかない。

 売子の朝は早い。 だが、ルシアは眠れなかった。

 アジェスに会いたい。会って、父のことを聞きたい。

 どこで父を知ったのか。

 なんのために会いに来たのか。

 知りたいことが山のようにあった。

 ルシアにとって父親とは、曖昧なイメージでしかない。物心ついたときにはもういなかった。

 父の昔を知る人に言わせると、最高の船乗りだったという。

 愚者の海を行き来する陸船は、風の力を借りねばどこへも行けない。風を知り、海を知る船乗りの存在は不可欠であった。

 それだけではない。

 義に厚く、男気があって腕っぷしも強く、陽気でお祭り好きであった。典型的で理想的な船乗りであったという話だ。

 その父がなぜ死んだのか――いや、死んだという確証はなかった。父が乗った船が戻らなかっただけだ。もう、十二年も経つ。

 ルシアの母親には再婚の話はいくらでもあった。ルシアというこぶつきであったことさえ問題にならないほど、ルシアの母は美しかったのだ。だが、彼女は夫を待ち続けた。

暮らし向きは日に日に悪くなった。ルシアの母親は手内職で糊口をしのごうとしたが、なかなかうまくいくものではなかった。

 三年がんばって、力尽きた。

 クランベイルのもとに身を寄せて、夜の女になった。 そして心身ともに摩耗させた挙げ句に病死した。それが七年前の話だ。

以来、ルシアはクランベイルから売子の仕事をもらって飢えをしのいできた。

クランベイルによって辛うじて生かされている、というのがルシアの現状だった。その暮らしに今まで疑問を持つことはなかった。持つことさえできなかった。

 それが。

 ダン・ラズロの名を口にした時のクランベイルの狼狽しきった声音、そして、その直後にルシアに見せた形相。あれは、ただごとではなかった。驚きと憎悪とそして、覆い隠しがたい恐怖がないまぜになっていたような気がする。

 ルシアが思い悩んでいる時だった。ふいに――

扉が鳴った。

 最初は空耳かと思った。夜、ルシアの部屋を訪れる者など、いはしない。

 だが――

 また、扉が鳴った。薄い扉だ。叩かれると、建物全体に響く。ルシアは警戒しながら戸口に向かった。

「どなたですか」

 まともに声が出なかった。どうして、こうも度胸がないのだろうか、と自分に腹が立つほどだ。昔はもっとしたたかだった。大人になるに従って、いろいろなものにおびえすぎるようになった気がする。

「わしだよ。クランベイルだ」

 ルシアは耳を疑った。

「はよう、開けておくれ」

 しかし、その声は、確かにクランベイルのそれだ。

 ルシアは細目に扉を開いて隙間から外を見た。 でっぷりと肥ったクランベイルの姿がそこにあった。杖をついて、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。 あわててルシアは扉を一杯に開いた。

「ク……クランベイルさま、何か……」

「上がらせてもらうよ、いいかね?」

 聞いているのではない、命じている口調であった。ルシアに拒否権はない。

 クランベイルは片足を引きずるようにして部屋に入った。強い癖のある煙草の臭いが、ルシアの部屋の空気の清浄さを乱した。

来客用の椅子など存在しない。クランベイルは勝手にベッドに尻を落とした。ルシアの枕を手に取って、匂いを嗅ぐ。

「一人前の女の匂いだな、ルシアよ」

 ルシアは嫌悪感に苛まれつつも、感情が表情に出てしまうことを恐れた。この男を怒らせてはならないのだ。

「この部屋に来たのは初めてだな。なかなか、いい部屋ではないか」

 条件として、これ以下はない、という物件である。そのような部屋を世話しておいての言いぐさである。

「さて、と。わしがどうしてここへやって来たか、わかるかの?」

 切り出したクランベイルの唇は唾に濡れて、ぬらぬらと光っていた。

「い……いいえ」

 ようやく、ルシアは首を横に振った。ぶざまに、立ちすくんでいる。まるで、主人に折檻されることを恐れる飼犬のように萎れている。

 そのルシアの姿を満足そうに見やって、クランベイルは言葉を続けた。

「前から考えていていたことだがな、今夜話がまとまった。お前にはこの部屋を出てもらうことになった。新しい部屋は《エスリルの家》にある。今夜から、さっそく移ってもらおうと思うてな」

 ルシアは痺れたようになって動けなかった。

 《エスリルの家》とは娼館の名であった。クランベイルの情婦の一人、エスリルの店だ。シフォンでは、一応名は通った店ではある。だが、娼館であることに違いはない。

「急な話で驚いたろうが、お前のためを思ってのことだ。《エスリルの家》での暮らしはきっと夢のようだぞ。毎日きれいな服を着て、うまい料理に酒、それに、好きなだけダンスもできるぞ。どうだ、天国みたいだろうが」

「わたし……今のままで構いません。贅沢したいなんて思っていません。お願いです、今のままでいさせて下さい」

 ルシアは懇願した。どうしても声がふるえる。

 クランベイルの両眼は冷徹であった。笑いは微塵も含んでいない。それでいながら、口も声も楽しそうに笑っている。

「なにを言っている。お前の母親も喜んでした仕事だぞ。わしは、お前の母親にお前のことを託されたのだ。いつまでも、子供じみた小遣い稼ぎをさせておくわけにはいかん」

「クランベイルさま!」

「口答えは許さんぞ、ルシア」

 クランベイルは杖で床を軽く叩いた。

「ディンゴ、入れ」

 その声に反応して、扉が開いた。無造作に部屋に入って来た男を、ルシアもクランベイルの事務所で何度か見かけたことがあった。

《女衒のディンゴ》――いわば、クランベイルの夜のビジネスの代理人のような男だ。

 肉の薄い、蛇のような印象。女を食い物にして来た男らしく、ルシアを見る目にも感情というものが一切含まれていない。値踏みするべき商品としてしか見ていないようだ。

「これは……上玉ですな。仕込めば結構稼げるようになるでしょう」

「そのへんは、お前にまかせる」

 愉快そうにクランベイルは言った。

「なんだったら、ここでルシアを女にしてやったらどうだ?」

「お望みとあれば」

 ディンゴは相変わらず無表情だ。好色な表情を浮かべるよりも、はるかに恐ろしい。ルシアと視線を合わせる。蛇が蛙を呑む時とは、ちょうどこんな感じだろう。ルシアは身体が動かせなくなった。

 すうっ、とディンゴの手が伸びる。ルシアは他愛なく抱き取られていた。

「いやあっ!」

 叫んだ。その口をふさがれる。そのまま床に組み敷かれた。男がのしかかってくる。細身だが、すごい力だ。

 ルシアの頬が激しく鳴った。ディンゴの平手が飛んだのだ。ルシアは一時的にショック状態に陥った。その隙に、スカートがめくり上げられている。

「いい脚だ。高い値がつく」

 ディンゴの声に初めて感情らしいものが混じった。

ルシアは奥歯を噛みしめた。鼻の奥がつんと熱くなって、どうしようもなく涙が出た。なぜ、こうなるのか。どうして、抵抗らしい抵抗もできず、蹂躙されねばならないのか。

ルシアは、ディンゴよりもクランベイルよりも、自分自身の弱さを憎んだ。

抵抗をやめたルシアを、ディンゴは満足そうに見下ろした。

その時、風が吹いた。

 夜の風だ。部屋に吹き込んでくる。熱を帯びた肌にそれは思わぬ冷たさを感じさせた。

 扉が開いていた。

 クランベイルは杖を突いて立ち上がった。ディンゴも身体を起こした。ルシアは涙にうるんだ目で戸口のほうを見る。

 そこには、男が立っていた。

 アジェスという名の男が立っていた。


               4

「き……きさまは!?」

クランベイルの声が裏返った。

「その娘を、放せ」

 低いがよく通るアジェスの声だ。

「ディンゴ! やつを殺せ!」

 クランベイルは喚いた。

 だが、それは無理な注文というものだった。しょせん、女を調教すること以外に能のない男である。そのような男に気組みがあるはずもない。アジェスの視線に射すくめられて、身動きもできない。

 クランベイルの額に脂汗が浮かんでいた。

「きさま……なぜ、ここへ!」

「ダン・ラズロのことを人に聞いて回ったのさ。ダンがあんたの船に乗って海に出て、行方不明になったことも聞いた。ダンの家族のことも知った。それで、ここへ来たんだ」

 ひくひくとクランベイルの頬が痙攣していた。

「よほど後ろ暗いことがあるらしいな。いい機会だ。昼間聞けなかったことを教えてもらおうか」

アジェスはクランベイルに一歩近付いた。

「ダン・ラズロが乗った船の行き先は、どこだ」

「て……定期航路だ。ウズルの町へのな! そのように、ちゃんと港にも届けてある!」

「確かに届けはそうなっているのかもしれんな。だが、ウズルへ船は着かなかった。定期航路上で難破したのなら、残骸が見つかってもよさそうなものなのに、それもない。これはどういうことなのだ?」

「し、知らん!」

「知らないとは言わさん。ダンがそのために命を落としたとするならば、なおのことだ」

「……」

 クランベイルは視線をあちこちにさまよわせた。

「さあ、話してもらおうか!」

 アジェスが詰め寄った。

「うう……」

 クランベイルが苦しげにうめく。だが、運はクランベイルの方についていたのかもしれない。

 複数の足音が聞こえた。三、四人の男がずかずかと部屋に踏み入ってきた。

「クランベイルさん、お迎えに上がりましたぜ」

 身なりからして夜の街に棲む男たちらしい。《エスリルの館》の関係者だろう。クランベイルの顔が喜色に染まる。形勢逆転だ。

「こっ、この男を叩きのめせ!」

 クランベイルは喚いた。

 男たちが状況を掴むより早く、アジェスは行動を起こしていた。ルシアの手を引いて、むりやりに立たせる。

「一緒に来るんだ!」

 鋭く耳元で叫び、ルシアの返事も待たず、戸口とは反対向きに走った。そこには窓がある。ルシアの部屋は二階で、窓は狭い露地に面している。

 その窓を突き破った。

 ルシアはアジェスの腕に抱きかかえられていた。

 なんと身軽な――跳びながら、ルシアはそう思った。

 着地した。どこかで鈍い音がした。ルシアにはショックはない。

「走るぞ」

 アジェスの声がルシアの頭の上で言った。痛みをこらえているような気配がつたわってくる。

「はい」

 大丈夫ですか、と聞くこともできず、ルシアはただ小声でうなずいたのみだ。

「追え! 追え! 殺してかまわん!」

 金切り声で叫ぶクランベイルの声が室内から聞こえていた。

 二人は走りだした。


            5

 港は昼間の喧噪とはうってかわって静寂につつまれている。聞こえるのは風の音だけだ。

 ルシアはアジェスとともに、港湾の倉庫のひとつにもぐりこんでいた。通りには出られなかった。どうやらクランベイルは手下を総動員したらしく、あちこちに追跡者が目を光らせていた。

天井に届くまで積み上げられている塩や小麦――交易品の数々のはざまに、アジェスとルシアは身をひそませていた。

「脚を見せてください」

 アジェスが腰を下ろすなり、ルシアはその足元にしゃがみこんだ。

「大丈夫だ」

「うそです。さっき飛び降りたとき、ひどい音がしていました」

 ルシアはアジェスの足首を調べ始める。

「ひどい……こんなに腫れてる……」

 左の足首が腫れて熱を帯びている。ルシアの部屋から逃げる時、捻るか何かしたのであろう。

「何か冷やすものがあるといいのに」

「気にするな。それより、おれに聞きたいことがあるのではないか?」

 ルシアは黙り込んだ。そうなのだ。聞きたくて仕方がない。だが、それを口にするのは怖い。知れば、もう今までの自分には戻れない気がする。

 そのためらいをアジェスは理解しているようだった。

「きみが決めることだ。きみが知りたいことで、おれが知っていることなら何でも話そう」

 ルシアは顔を上げた。倉庫の中は暗い。アジェスの表情は見えない。その暗さに励まされて、ルシアは唇を開いた。

 自分でも意外な問いが口を突いた。

「あなたのことを教えてください。あなたは……誰ですか」

 アジェスはしばらく黙っていた。

「そうだな……そこから話した方が、いいかもしれない」


             6

 砂に埋もれた巨神像を見ながら少年は成長した。

歴史と、そして砂。少年の暮らす町にはただそのふたつしかなかった。

 愚か者の海に面していながら、しかし、その周囲に消費地も生産地も持たなかったがゆえに交易路から外れ、ひっそりとした自給自足の生活に甘んじていた。

 少年の家も食べていくのがやっとの毎日だった。子供の頃から、当然のように働いた。家畜の世話、水汲み、日々の農作業。それが当り前だと子供心に納得しつつ、しかし、外の世界への漠然とした憧れを捨て去ることはできなかった。

ある時、珍客があった。風を失い、航路から外れた陸船が、水を求めて寄港したのであった。人々は、この思わぬ客人を厚く歓待した。

 船乗りたちには酒食が供され、異国話に華が咲いた。少年も、父親に連れられてこの席にあった。

 船乗りたちの話の面白さに少年は引き込まれた。まだ見ぬ遠い国々。珍しい食べ物、風俗、祭りの様子――それよりもなによりも、少年の心を惹いたのは、愚か者の海の果てにあるという《賢者の森》の伝説だった。

 そこには、植物が密生し、巨木が天を衝き、他の地ではもはや死に絶えた鳥、獣、虫、魚が今もなお、ふんだんにいるというのだ。

 この大陸では、人が死にものぐるいで働かなくては、大地は実りを与えてはくれないというのが常識であった。ましてや木など、目にすることさえまれだ。

 木製品は、金銀にまさる希少品であった。金や銀は、埋まっているところさえわかれば手に入れることはさほど難しくはない。しかし、木はそういうわけにはいかない。

 木は育たなければならない。そのためには気が遠くなるほどの手間と時間が必要だ。

 王侯貴族は、競って木製品を求めた。それが、富と権勢の象徴であったからだ。

 《賢者の森》には、その木が無数にあるという。それはまさに、神の土地であるがゆえとしか思えない。

もっとも、船乗りたちも《賢者の森》を実際に訪れたわけではなく、そのような伝説があることを話しただけだ。しかし、少年にとってはこれほど夢に満ちた話はなかった。熱に浮かされたようになった。

 宴が終わり、夜が更けた時、少年は集落の外れに泊められていた陸船の舷側によじ登っていた。父にも母にも告げていなかった。兄弟たちにも内緒にしていた。

 翌朝、夜が白む前に、船は帆を上げた。少年は積荷の影に潜んでいた。

 二日経って、少年は見つかった。船乗りたちは呆れた。まだ十かそこらのほんの子供だったからだ。

 オアシスに戻ってこの荷物を返そう、という意見も出たが、既に寄り道をしてしまっており、かなりの遅れが出ている。今また引き返して時間を潰すわけにはいかない。といって、沙漠の海のど真ん中に少年を下ろして行けるほど船乗りたちも残酷ではない。

「まあいい」

 と、初老の船将が言い、方針は決まった。とりあえず次の港までは乗せて行く。それから先は少年に決めさせる。家に戻りたいならば、オアシスの近くを通る船を探して船将が口をきいてやる。今後も船に乗りたいというのであれば、見習い船乗りとして乗せて行ってやってもよい、ただし、それは少年が使い物になればの話だ。

少年は後者を選んだ。

 両親と兄弟には手紙を書いた。届くかどうかはわからないが、オアシスの近くを行く船に託した。


 それから数年が過ぎた。

 《愚者の海》最北の港、ユナンに若者はやって来ていた。

辺境中の辺境だ。ここより北には港はおろか、集落と呼べるものさえほとんどない。

十六歳になっていた彼はいっぱしの船乗りを気取っていた。船も替わり、使い走りをすることもなくなった。酒も覚えていたし、女も嫌いではなかった。

 出航まで三日空いてしまって、どうしようもなく若者は色街に転がり込んだ。

 最初の晩に敵娼あいかたになった女がまずかった。おとなしい瞳をしていた。わけありでなければ、こんな道には入りそうもない娘だ。そのわけを聞いてしまうところが若者の青さであった。

 二日、三日と過ごすうちに離れがたい気がしてきた。こうなると恋しているのと変わらない。一緒に逃げよう、となった。

 夜半、娼館を抜け出した。不審がられていたのだろう、駈落ちはすぐさま見つかり、追手が出た。

酒場の路地に若者と娘は追い詰められた。追手の男たちは若者を路上に引きすえ、数人がかりで殴る、蹴るをはじめた。殺しても構わない。そんな無造作な私刑だった。

 血にかすむ視界で若者は娘を見た。

 奇妙に醒めた表情で娘は、若者の殴られるさまを見ていた。

 追手のうちの頭目格が娘に近づくと、娘の表情に媚びが浮かんだ。全身で媚態を示した。

 男に唇を吸われると、自分からしがみついた。舌を吸っているらしい、音さえ聴こえた。

 娘に腹は立たなかった。ただ、こんなところで虫けらのように殺される自分に怒りをおぼえた。

 《賢者の森》もまだ見ていないのに――そう思うと、たまらなく悔しかった。

 若者は立ち上がった。死にものぐるいで男の一人に飛びかかった。叩き込んだ拳が男の鼻を砕いた。

 やった、と思った瞬間、背中に蹴りが入った。むせながら転がった。

その時、太い声が割って入った。

「加勢するぜ」

 冷たい地面を頬に感じながら、その声を聞いた。

飛び込んで来たのは長身の男だった。何ヵ月も剃刀を入れていない髭面だ。

 それが、ダン・ラズロとの出会いだった。


「若いうちにはよくあることさ。女に惚れすぎてばかを見るってことはな」

 近くで店を開けていた酒場に入り、若者はダンと痛飲した。

「いい勉強だったと思いな。それに、あの娘にとっても今夜のことは一生の勲章になるんだぜ。考えてもみな、この町であの娘はたぶん歳をとる。その人生の中で、流れ者の若い船乗りと恋に落ちて、駈落ちとしゃれこんで、けっきょく失敗、辛い別れ。どうだ、泣かせる話だろうが。嘘や脚色は女の思い出にゃ当り前のことさ。いいじゃねえか、女に何年経っても色あせない思い出をくれてやれりゃ、それが男の本懐ってやつよ」

 髭面にそう言われてうなずいてみせたものの、若者の気持ちは晴れやかではなかった。思わず酒をあおって――むせた。

「若いうちから女に対してすれっからしになっているよりは全然いいやな。気に入った」

 髭面は若者の空のコップに酒を注いだ。

「あの……」

 若者は顔を上げて、髭面を見た。髭面は大きな口を開いた。歯が白い。

「ダンと呼びな。で、お前さんは?」

「ア……アジェス・ルアー」

「ほう、珍しい名前だな。出身は南か?」

「コルン山地の西の――小さなオアシスのある町です」

「田舎だな。ま、俺もシフォンなんていう辺境の港の出だが」

「あなたも船乗りなんですか?」

「当然だろ? ここはユナンだぜ」

 不思議と説得力のある説明だった。自然、アジェスの頬の固さが取れた。

「ダンは、どこまで行くんですか」

 何気なく発した問いだった。

「そうさなあ……ヴェルノンヴルフェンて知ってるか」

 ダンの口にした地名は、アジェスが初めて耳にするものだった。

「え、ベル……なんですって?」

「ヴェルノンヴルフェンさ。この辺の土地の連中は《冥界》って呼んでるがな」

「《冥界》――ぶっそうなところなんですか?」

「それほどへんちくりんなところだっていうことさ。なんでも、神様の末裔だかなんだかが暮らしているんだと。生きている者が踏み入って、まともに帰って来たことはないって話だ」

「まさか、そんなところへ行くんじゃ……」

「さあてな。おれの船はおれの持ち物じゃない。クランベイルっていう、いけすかない強欲親爺のもんだ。行けと言われりゃ行く。もっとも、船が入れるところまでしかおれは行かんがね。あとは、隊商どもに任せるさ」

「隊商……船にキャラバンを乗せているんですか」

 隊商と呼ばれるのは、ふつう、陸船が入れない山岳地帯に入って商う商人たちのことだ。陸船のように大量移送はできないが、その分小回りがきく。

「隊商が入るってことは、そこには人が住んでいて、何か特産品でもあるんでしょうね」

「もういい。その話は終わりだ。さて、今夜はじゃんじゃんやろうぜ」

 ダンは手を打ち鳴らし、女に料理と酒を持って来させた。

アジェスとダンはそれから夜明けまで飲み続けた。

再会を約しつつダンに別れを告げたアジェスはふたたび船に乗った。


          7

「それが十と三年前の話だ」

 シフォンの港の倉庫で、アジェスは話を続けていた。じっと、ルシアは聞いている。

「二十歳で陸船の船乗りをやめ、隊商に入ってべつの大陸に渡ったりもした。《賢者の森》の手がかりを探してね。向こうではとんでもない目にあったが……《賢者の森》はみつからなかった。そんなこんなで色々な土地を回ったが、結局戻って来てしまった。《愚者の海》に森などは有り得ない、と思いつつ、ね」

アジェスはじっと一点を見つめたままだ。

「でも、思い出したんだ。ダンの言葉を……ヴェルノンヴルフェン、《冥界》のことを。この世界でもっとも未知の領域が多いのは、《愚者の海》なんだ。航路から外れた土地は地形がどうなっているのか、人が住んでいるのかどうかさえ、まったく不明瞭だ。ヴェルノンヴルフェンに至っては、まったくの未知の領域だ。何があったとしても不思議じゃない。調べる価値はある。だけど、ヴェルノンヴルフェンなんて辺境も辺境、便船を探しても、あるはずもない。船乗りでさえ、その位置どころか名前すら知らない。だから、ダンを訪ねて来たんだ。ダンならば、その航路を知っているはずだった。そのダンが死んだなんて……しかも、おれと会った直後に……」

 そこで、アジェスはルシアに気付いた。

「すまない。自分のことばかり話してしまった。年寄りの悪い癖だ」

 自嘲気味に詫びるアジェスにルシアはかぶりを振った。

「いいえ。父のことを教えていただけて、とても嬉しかった。それに、アジェスさんの旅の話をもっと聞きたい。すてきです、とても。色々な町へ行って、色々な人と会って。わたし、この町から出たこともなくて。臆病で。自分でも歯がゆいくらい駄目なんです。だから、アジェスさんの強さがとても羨ましい」

 アジェスはルシアの眼をじっとのぞきこんだ。

「きみは臆病じゃない。一人でこの町で生きて来たじゃないか。もっと楽な道もあったはずなのに、きみは頑張ってきた。ダンの血がきみには流れている。きみはとても強い子だよ」

 ルシアは背筋に電流が走るのを感じた。そんなふうに言葉をかけてもらった経験がなかった。

 あれ――?

 とつぜん涙が溢れた。自分でもどこにためていたのかわからないほどの唐突さだった。

 ぽろ――ぽろ――と涙の粒が頬を転がった。

「ご、ごめんさない――すぐ――」

ルシアは手で涙をぬぐった。こんなことじゃいけない。すごく恥ずかしい。でも、泣き方がわからなかったのと同じように、泣きやみ方もわからない。

 アジェスがルシアをそっと抱きよせた。優しく背中を撫でてくれる。

 広い胸に顔をうずめて、その埃っぽい匂いをかぎながら、ルシアは懐かしさに満たされた。お父さんが生きていたら、きっと同じようにしてくれる。こんなふうに抱きしめてくれる。暖かくて、大きくて、たくましい胸のなかに――

 しばらくして、ルシアは泣きやんだ。自分から離れ、涙を拭った。泥だらけの顔だ。

 はにかんで笑った。恥ずかしくてしょうがない。それでも、なにか澱が洗いながされて、すがすがしい気分だった。

 優しい顔でアジェスが微笑んでいる。ルシアは耳まで熱くなって、顔をふせた。今更ながら心臓がものすごく早く鳴っている。

「元気が出たようだな」

 アジェスの声に柔らかい響きが戻った。この声が好きだ、とルシアは思った。

その時だ。

「そこに誰かいるのか!?」

 だみ声が倉庫の薄闇を破った。

大きな人影が、戸口に浮かんでいた。今宵は月が満ちている。地面にくっきり影が落ちる。

「いるんなら出て来やがれ!」

 いまにも踏みこんできそうなほど切迫した声だ。

「おれが出て行く。その隙に裏から町に抜けるんだ」

 ささやくようにアジェスが言い、立ちあがりかけた。その腕にルシアはすがった。

「いやです。町には戻りません――戻れません。戻ったら、また元どおりです」

 ルシアは懸命に首を横に振った。

「連れて行ってください。わたしにできることは何でもやります。足手まといにならないようにします。だから――」

「ルシア……」

「あなたと一緒にいたいんです」

「……」

 アジェスはルシアの肩を抱いた。

 ルシアは、はっ、とした。

 この抱擁は、父の抱擁ではなかった。一瞬だが、もっと激しい、もっと熱い、求めるような、むさぼるような感覚。確かに、それを感じる。

充たされる甘い感覚が胸に広がった。

「アジェスさん……」

 潤んだ瞳で男を見上げた。

だが、アジェスの声に昂ぶりはない。いつもの暖かい声だ。

「ルシア、おれには行かなくてはならないところがある。なぜだかわからないが、《賢者の森》がそれなんだ。一度でいいから大地に緑の満ちるさまを見たいんだ。そのために、おれは生きている」

 そう言うと、アジェスはルシアから離れようとした。

 だが、ルシアは離れない。自分の意志で、離れない。

「手伝います。わたしは、あなたの仕事を手伝うために生きます」

「……わかった。一緒に行こう」

 アジェスはついに折れた。


        8

「そこにいるな!? わかるぞ、盗人が!」

 声が近付いていた。手にランプと得物を持っている。棍棒か何かだ。緊張しているらしいことが、歩きぶりでわかる。

 アジェスとルシアは慎重に歩を進めて移動した。裏口から抜けることはできない。相手に必ず見られるからだ。相手の死角に入ったまま、やり過ごし、表口から脱出する方がいい。もっとも、外に誰かが張っていれば一巻の終わりだが。

 床に豆が転がっている。鼠が袋をかじって開けた穴からこぼれたのだ。

 慎重に歩を進めているつもりだったが、相手がすぐ側を通りかかろうとした時に、運悪くルシアは豆を踏みつぶした。

 音がした。

 はっと息を呑む。身を隠そうとするが、遅い。

 ランプの光が、狼狽したルシアの顔を照らし出した。

と、すぐさまアジェスがルシアを背中にかばう。

「て、てめえら……!」

 だみ声が絶句する。

「アジェス……それにルシアちゃんじゃねえか」

「その声は……ルードか?」

 ようやく思い当たって、アジェスは相手の名を呼ぶ。

「そうとも。驚いたな、どういうことだ、こりゃあ」

 緊張が解けて素っ頓狂な声を上げたのは、リクスヴァ号の船乗り、ルードであった。



「まいったな、お尋ね者がアジェスたちだったとは」

 ルードは、からからと笑った。

「お尋ね者?」

「そうとも。今、港は結構にぎやかだぜ。凶暴な男と女の二人組が町を逃げ回っているってんで、もしも港に現われたら必ず捕らえろ、っていうお触れが出ているのさ。うちの船将もそんならってんで――あの人もほら、捕り物とか好きだし――おれらが駆り出されたってわけよ」

「凶暴とは恐れ入ったな」アジェスは苦笑した。「で、どうする。当然賞金はかかっているんだろう」

 水を向けられて、ルードは肩をすくめた。

「船乗りをなめちゃあいけねえ。あんたはおれらの命の恩人だ。恩人を売った日にゃあ、もう海には出られねえ。いつ、海に置いてきぼりにされても誰も恨めねえからな」

「ありがとう、ルードさん」

 ルシアは頭を下げた。

「ばか、よしなって。くすぐってえじゃねえか」

ひとしきり照れてから、ルードは真顔に戻った。

「見つけたのがおれだから良かったが、港にいるのはリクスヴァ号の連中ばかりじゃねえ。よその船のやつらに見つかったら元も子もねえぞ。さ、船へ行こう。幸い、リクスヴァは出航前の最後の積みこみの最中だ。このへんの袋を担いでりゃ怪しまれずに済むだろう」



 リクスヴァ号の停泊している埠頭では篝火が燃えていた。風が強く、火の粉が舞うが、誰も頓着しない。働く男の肌は、みなびっしょり汗に濡れている。

 その労役の帯の中に、ルードとアジェス、そしてルシアは潜り込んだ。

 ルードとアジェスでルシアを挟むようにし、ルシアの身体つきを見咎められないように気を配った。

 船腹の貨物室に入り、荷の詰まった袋を放り出すとルードは破顔した。もう大丈夫だ、というようにルシアに微笑みかけた。

「さあさ、船長の部屋に行こう。事情を話せば、きっと力になってくれるさ」

 ルシアの肩を半ば抱くようにして、ルードは歩きかけた。だが、ルシアは一歩も動かず、アジェスを振りかえった。

 アジェスが一緒でなければ、どこにも移動したくない、と、ルシアの態度は示していた。切ないばかりに、ルシアの視線はアジェスを追っていた。

 アジェスはうなずき、ルシアに並んで歩き始めた。

「このう」ルードは歯ぎしりをしながら、アジェスの脇を小突いた。「すっかりたらしこみやがって、この不良中年が」

アジェスは苦笑いを浮かべるしかない。

「中年はよせ。あんたよりも年下のはずだ」

「ふん」

 鼻を鳴らしたルードだが、顔はどうしようもなく嬉しそうだ。

 リクスヴァ号の船長はアムゼイといった。中肉で、きびきびと無駄のない動きをする男だ。いかにも謹直な雇われ船将、といった趣がある。しかし、外見よりもお祭り好きで、侠気もある。ルードのような豪放な船乗りが「親爺」と呼び慕っていることからも、そのことはわかる。

 当然、アムゼイはアジェスのことを熟知していた。乗客と船将という間柄で、直接のつきあいはあまりなかったが、愚者の海の航海で嵐に遭った時のアジェスの指図の見事さをよく覚えていた。

「あの時はわしらが助けられた。今度はわしらがあんたを助ける番だな」

 アムゼイはそう言って、協力を約束した。

 もしかすると、シフォンの港町の顔役であるクランベイルを敵に回すことになるかもしれない。そうすれば、船主にも迷惑を掛けかねない。雇われ船将としては危険はできるだけ避けたいところのはずだ。それでも、このアムゼイは嫌な顔ひとつ見せない。

アジェスは無言で頭を下げた。船乗りのしきたりでは、こういう時、言を慎む。多言を弄して謝意を表わすことはたやすい。だが、多すぎる言葉を船乗りは好まない。甲板作業中は風の音にまぎれて会話が成立しづらく、意志疎通は短い単語でもって行なわれることが多いために、そういう美意識が培われたのかもしれない。

 茶が出された。

 それを、ルシアとアジェスは啜った。

 ほっとした。人心地がつくとは、こういうことをいうのだろう、とルシアは思った。

 こくん、肩が落ちた。力がどっと抜けて行く。ルシアは椅子に身をもたせかけたまま、静かに寝息をたてはじめていた。

 その様子を、アムゼイは父親のような瞳で見つめていた。

 と、視線を戸口付近で手持ち無沙汰に立ち尽くしているルードに向けた。

「もうすぐ夜明けだ。曙光の見え次第、帆を上げ、出港する。ルード、風を読め。真っ直ぐにウズルに向かうぞ」

 アムゼイは船将の顔に戻って指示を下した。

「おれも甲板に出よう」

 アジェスも立ち上がった。



アムゼイ、ルード、そしてアジェスは甲板に出た。

空が群青色に染められている。

もうすぐ太陽(リュウ)が地平線に顔を覗かせる。

 今の季節だと、第二の夜明けまで数分とない。

 パーセルニオの光もすぐさま地平線を焦がし始める。

「今日もいい天気になりそうだな」

 ルードが皮肉を言うでもなく呟く。

 ふたつの太陽に灼かれるのは苦痛だが、出港の朝の好天は吉兆だ。船乗りには迷信ぶかい人々が多い。

「おれは町に戻る」

ぽつり、アジェスは言った。

「なにぃ!?」

 ルードは大声を上げた。

「なぜだ!? つかまりてえのか?」

「クランベイルには、まだつけるべき話が残っている」

「なんだ、そりゃあ!?」

「クランベイルは《賢者の森》について何かを知っている。それを聞き出さねば。それに、ヴェルノンヴルフェンへの航路のこともある。いずれにせよ、おれがこの町に来た目的はクランベイルにある」

「ルシアはどうするんだ。詳しい事情は知らんが、あの娘はお前と一緒に居たがっているようじゃねえか。捨てるのか?」

「おれの行く道とあの娘の道は重ならない。重ねてはならない。あの娘はもっと幸せにならなければいけない」

「流れ者には女はいらねえ、か」

 ルードは複雑な表情でつぶやいた。

「ともかく、おれは行かねばならない。ルシアのことを頼む」

「わかった」――と、それまで黙って聞いていたアムゼイが口を開いた。「事情は深くは聞くまい。おれはお前を信じる。ルシアのことについては、おれが責任を持って面倒を見よう」

「頼みます」

 アジェスはアムゼイの手を握った。

「おれも力になるぞ。なんならおれの嫁にしてもいい」

 ルードが割って入った。半分冗談だが、アムゼイは怒気を発した。

「ばか野郎、てめえには女房がおるだろうが! たとえおまえが独り身だったとしても、おまえみたいな男にルシアを任せられると思うか、この!」

「ちっ、すっかり養い親気どりだぜ」

 ルードは肩をすくめた。

 アジェスは微笑みながらうなずき、アムゼイとルードに別れを告げた。

「おれたちの母港はルバルグだ。その《賢者の森》とやらを探す旅が一段落ついたら、訪ねて来てくれよ。おれの家族を紹介するぜ。いいか、約束だぜ」

 ルードはアジェスの肩をどやしつけ、何度も繰り返した。

「わかった、必ず行く」

 アジェスはルードと最後の握手を交わし、アムゼイに一礼して、船を降りた。

マントをゆるやかに風に巻きながら、港の闇へと消える。



 船が動いていた。

 ルシアは夢うつつの中でそれを感じた。

 ルシアは寝台に寝かされていた。狭い船室だが、一人部屋だ。この規模の貨物船で一人部屋というと、船将かその補佐をする高級船員くらいにしかあてがわれないはずだ。

「アジェス……?」

 ぼんやりとその名を呼んだ。

 闇に返事はない。

だが、ルシアは確かに闇の中にアジェスのぬくみを感じた。

安心して、また眠りの中に落ち込んでいく。

眠りから覚めた時、ルシアは泣くだろうか。

 リクスヴァ号は追風を受けて疾走していた。愚か者の海に、軽い砂塵の道を巻き上げながら


                     第一話 おわり

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