第92話 秋の剣術大会前日
闘技場では、明日へ向けて、演奏の会の最終練習が行われていた。私は会場の中心から、当日陛下達が参列する席の方へと目線を移す。
(粗相のないよう気を付けないと…。うう…今からもう不安になってきた)
私は、そばに置いていた小瓶から飴玉を一つ取り、口の中へと放り込む。祈るように手を組むとギュッと目を瞑る。
「ふふ、それ、何かのおまじないなのかい?」
顔を上げるとクリス皇子が目の前に立っていた。
「クリス皇子殿下…。あ、その…。おまじないといえばおまじないかもしれません」
「ふぅん?それをするとどうなるんだい?」
屈んで顔を覗かれるが、思わず一歩後ろに下がってしまう。
「嫌なことがあったら、飴を食べて甘く塗り替えてしまえばいい…と。私の弱い心を守るおまじないのようなものです」
以前、泣いたときにカイル様がしてくれたことを思い出す。
「その飴、私も一つもらってもいいかい?」
「え?あ、はい。普通の飴ですよ?」
包装された飴を興味深そうに皇子は一つ取る。包み紙から出すと、飴は綺麗な琥珀色をしていた。
「………甘いな」
「甘いもの、苦手でしたか?」
「いや……それほどでもないさ。……私も明日の大会へのプレッシャーがあるからな。嫌な思いが流せるかと思ってね?」
ちょっと試してみたのだと微笑んだ。
「よろしければ、どうぞ」
飴を数個、彼の大きな手に乗せる。
「クク…、私は子どもではないんだがな」
「あ、いえ、そういうつもりでは。……明日はきっと、どの方も皆それぞれ様々な想いを抱く日になるのではないかと思って」
気やすめだが、彼の憂鬱な心が少しでも晴れたらと思ったのだ。
「ティアラらしいな」
「ティアラ嬢です」
「ククッ、そのぶれないところもな。……もらっておこう。では、そろそろ行くよ」
クリス皇子は一度軽く伸びをして、周囲を見渡した後、闘技場を後にされた。
◆
闘技場会場内の長い廊下を一人歩く。その表情は生徒会長らしい威厳と優しさに満ちたものだった。だが同時にどこか無機質なガラスのようでもあった。
誰もいない廊下には、彼の靴の音だけが鳴り響く。だが、角の休憩場所を通り過ぎたその時、その足音も止まる。右手に握られていた飴をごみ箱へと容赦なく捨てたのだ。
「……」
闘技場の方からは彼女の歌声が微かに聞こえてきた。また練習が再開されたのだろう。穏やかで、とても澄んだ綺麗な歌声。
その音にぴくりと眉が動く。忌々しいとでもいうかのように一瞬歪みを見せた水色の瞳には、どこか狂気の色が見え隠れしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます