ドグラ・マグラ(上)を読んだあとで見た夢

兎ワンコ

本文


 まず目に入ったのは、黒いアスファルトに出来た水溜りであった。

 空は鈍色の雲が支配し、シトシトと鬱屈な雨が降り注いでいた。

 目の前には、古ぼけたアーケード街の入口。入口の角に建つ雨埃で汚れた白い建物。ここが目的の場所。ここまでどうやって来たのかはわからない。覚えがないのだ。

 ここで働かなければいけない。纏まった金が必要だった。どうしてかはわからないけど、少しでも多く稼がないと。でも、俺はどこか気鬱で、足を動かすのを躊躇わせた。

 薄汚れた階段を上がり、二階のドアを開けて、靴を脱いで上がった。

 中は十六畳間を二つ解放した大広間で、他のアルバイト仲間と顔を合わせる。妙に若い連中ばかりだった。だが、どの顔にも覇気がない。この世の終わりを経験してきたと言わんばかりに。

 不謹慎にも見回す俺に、顔を逸らす。まるで犯罪者のような扱い。

 そんな連中の辛気臭さが畳の匂いに混じって、部屋の重力は増した。気ダルく、居心地が非常に悪い。さっさと始まって終わってくれと願うばかり。


 しばらくすると襖が開き、スタッフだと名乗る男が現れた。

 こちらも若いが、ここに集う者とは雰囲気が違う。真っ白なTシャツは彼のそこはかとない明るい性格を表している気がした。側頭部だけ刈り上げた髪、パチリとした丸い目。久々に人間らしい人間を見た気分だった。

「皆さん、ようこそお越しいただきましたー」と明るく挨拶する。仕事の説明などはせず、テーブルを囲う俺たちひとりひとりに「どこから来ましたか?」などと触れ回った。

 経験者は優遇されるそうで、みんな経験者を装う。私は大通りを一時間歩いた、とか。このあいだは六時間も労働してしまった。とか、実にくだらないことを取り繕った笑顔でいうのだ。さっきまでの辛気臭いツラが嘘のようだ。俺は押し黙って聞いていた。

 ひとしきり聴き終わると、青年はさっさと部屋を出ていく。代わりに若い女二人が入ってきた。女もスタッフのようで、青年と同じTシャツを着ていた。

 先ほどの青年のようにひとりひとりに回って説明を始める。ここで一晩眠ること。明日から働いてもらうこと。ここにあるものは自由に使っていいとのこと。

 スタッフの女が俺の顔を覗き込んだ後、眉を顰める。何事か見返すと、訝しむ表情でいう。


「あなた。どうして経験者だって名乗らなかったんですか?」


 当然、首を横に振る。あんたらの基準なんて、俺が知るわけがない。女は経験者が如何に大事な存在かを熱弁するが、俺には理解出来なかった。結局、女は失望した様子で部屋を出た。


 窓の外はまだ黒さを交えた灰色がその色を濃くし、夜の到来を告げる。アルバイトたちは言われたとおりに部屋の片隅にある布団を引き始めた。気が付けば、俺の分まで敷いてあるのだ。

 申し訳ないといった気持ちはなかった。彼らは、妙に親切心を前面に出している。自分は出来る人間だと主張したいのだ。

 俺は彼らのようにはなれず、鬱屈した気持ちのまま、布団の中に潜り込んだ。


 当然、眠ることは出来ない。不安が頭を支配し、思考だけを鋭くさせる。なぜ、自分はここに来てしまったのか? これからどうなるのか? 煎餅布団の中で朝が来るのに怯えた。

 気が付けば、窓の外が明るくなっていた。周囲でもぞもぞと起き出し始めるアルバイトたち。

 少しの時間が経った頃。昨日と同じ女が入って来て、「おはようございます!」と高らかに挨拶した。途端に、アルバイトたちが昨日のような気味の悪い笑みを作り始める。まだ起きていなかった者も、目をこすりながら同じように笑った。生気のない、プラスチックみたいな笑顔。


 女は俺たちアルバイトに役職を与え始めた。これから行う“仕事”において大事なことだと口添えして。

 俺には"先生"という役で、皆をまとめなければいけない。先生の指示は絶対で、必ず従わなければいけない。

 このアルバイトの中で、誰もがやりたかった役なのだろう。役職が着いた途端、羨望と嫉妬が入り混じった視線が突き刺さる。

 俺は後悔した。そんな大層な役目をやるのは億劫だ。ただ必要な時に動き、指示されたことだけをやりたい。時に人生は、歯車のような役割の方が楽だ。

 女は「皆さんにはチームで動いてもらいます」と告げ、早速適当な人間を指さしてあてがうと、俺たちを外に案内した。


 事務所を出て、階段を降りる。チームは三人一組で、俺のチームには若い女が二人いた。一人は毛先にパーマが掛かった髪の長い女。もう一人はダークブラウン色の髪をボブカットにした、短パンの活動的な雰囲気の女。どちらも、二十代前半から十代後半くらい。当然であるが、愛想のよくない俺に対し、二人はこちらに来なかった。

 スタッフの女はアーケード街を横切り、地下へと降りる連絡通路へと進んだ。古い地下鉄の入口のようで、どうにも日本の様式美とは違った作りに見えた。


 コンコースを抜け、連絡通路を歩く。連絡通路には腰ほどの高さの壁があり、そこからホームを見下ろす作りになっている。二つの線路の終着駅。いや、始発駅なのか? どちらかは定かではないし、正解などないだろう。そんなくだらないことを考えていた。

 俺は後ろからついてくる同チームの女二人と仲良くなれる気もしないので、ホームをずっと見下ろしていた。上階に広がる寂れた商店街とは打って変わって、ホームには人がごった返していた。サラリーマン。フリーターらしき若者。子供、子供、子ども。

 とにかく子供が目についた。頭に黄色い登下校帽を被り、背にはランドセルを背負う者からそうでない者。遠足だろうか? それとも、

 連絡通路はL字になり、今度は線路が真下から伸びてくるような構図になる。十数歩進めば、ホームに降りるエスカレーター。その時だった。

 トゥルルルルル。

 ホームに電車が到着するアナウンスが流れだす。それを合図に、ホームにいた子供たちがピクリと身体を動かした。

 先ほどまで談笑していた子供たちが、一斉に走り出す。愉しげに、俺から見て左側の線路へと飛び降り、集会のように規則正しくピッチリと並んだ。一瞬でホームの線路にはレールが見えないほど子どもで埋まった。

 ホームにいる者も、俺たちも声を出すことが出来なかった。


 機械的な声のアナウンスがここに電車が到着することを告げている。で次に何が起こるか想像は容易い。最低なことに、俺は想像が現実になるまで、動くことが出来なかった。

 視界の下から電車が滑り込み、子どもたち目掛けて重量ある鉄の車体で蹂躙を開始した。

 手加減なく電車が線路を進んでいくものだから、子どもたちはあっという間に弾かれ、車輪に引き裂かれる。俺を畏怖させたのは、その間も子どもたちは叫びもせず、恐怖から逃げ出すこともなかったこと。ただ無言で、呆けたような顔で死が衝突するのを待っているのだ。


 僅か三秒にも満たない時間で、血飛沫と肉塊がホームのアスファルトと点字ブロックを赤に染め上げた。臓器などは見えなかったのが幸いだ。ただ、衣服と一緒に千切れた四肢が彼らがかつて人間であったと言わんとしているようだった。

 耳をつんざくような甲高い悲鳴と男の声で「うわっうわっ」と焦燥する声が駅全体に響く。ホームにいた人々は蜘蛛の子を散らすように、血と肉塊と電車から逃げ出した。

 俺たちも突然の出来事に足を竦ませ、階下の惨劇に震えた。女は小さな悲鳴を上げ、目を丸くさせた。俺を含めた男たちも口をあんぐりと開け、信じられないといった表情だ。


「仕事はもう始まっています。それでは皆さま、気をつけて仕事してくださいね」


 冷静な声。声の主は、ここまで引率してきた女だった。女の表情には驚きも恐怖も何もない。まるでアトラクションのスタッフのような、嫌味のない晴れやかな笑顔だった。

 スタッフの女が言ってることは分からないが、意味は理解出来た。俺たちは、とんでもない仕事に従事してしまったのだ。どんな者の思惑――恐らく、こんなこと考える奴は正常ではないだろうが、の上で踊らされているのだ。当然、そうなれば、このまま従って進むしかない。引き返したり、ドロップアウトは、ホームに四散した子供よりも酷いことになる。

 俺は後ろを見た。背後では、他のアルバイトチームと同じように恐々として、腰が抜けたように尻を地面につけかけている女二人がいた。怯えた表情でホームの惨事を見つめていた。


「行くぞっ!」


 初めて声を掛けた。その時の俺はきっと怒りと焦りを混ぜた顔をしていたに違いない。二人は震えながら、小刻みに頭を縦に振ってついてきた。他のチームの人間も震える膝をなんとか動かしながらついてきた。


 エスカレーターの踏み板に身を預け、階下に広がる地獄へと進む。ホームでは左側だけ血の池地獄と化した線路から、まだ真っ赤な血がホームを覆うとしている。ホームで待っていた乗客たちは恐怖を顔に浮かべながら、ゆっくりと迫る血から逃げ惑っている。


(あぁ、クソ。俺たちはこの列車に乗るんだ)


 直感でそう思った。このイカれたバイトは、血で始まるんだ。

 すると今度は中学生くらいだろうか? 体格は少年期から青年期に入るくらいの子どもたちがどこからともなく現れ、車両に向かって駆け出してしがみつき始めた。その数は先程轢かれ、車両の下でミンチと化した子どもたちと同じくらいの人数。

 電車あっという間に子どもたちで覆われてしまう。テレビで見たインドだったか南アジアの国の電車を思い出す。車両の中に乗り込めないので、車体のしがみつけるところにしがみつくのだ。目の前にある電車はまさにそれだ。唯一違うのは、電車の開け放たれたドアだけは隠さず、誰も車両の中には乗らない、ということだ。

 嫌な想像をしてしまう。列車はしがみつく彼らを乗せたまま走るだろう。やがて速度が上がるにつれ、彼らは握力を失い、車両から転がり落ちるのだ。まだ骨骨しい無垢さのある身体を、レールの周りに散りばめた拳ほどの砕石の上に転がすのだ。薄皮が捲れ、中から毛細血管の詰まった肉を露わにするに違いない。骨が飛び出して、頭蓋骨を陥没させる者もいるに違いない。

 あぁ、嫌だ。俺たちは、それを車内から眺めるんだ。彼らの人形のような視線に囲まれながら、彼らの死を見届けるのだ。

 震える足が血だまりの向こうにある電車へ行くことを躊躇させる。

 一歩、足を進ませる。ピチャリ、とスニーカーの底が鳴った。そこからはもうどうでもよくなった。血だまりを進み、開かれたドアへと歩く。後ろから同チームの女や、他のチームのメンバーをついてくる。実に鬱陶しい。


 車内はひどくガラガラで、俺たち以外に人はいなかった。それもそうだろう。こんな気味の悪い電車に誰が乗りたがるというのか?

 

 俺は車窓から覗く彼らを見て、自分のこれからの未来を呪った。嫌な想像を掻き消したい。だが、予想は当たる。彼らの死を、ここで何も出来ずに見守るしかないのだ。それはきっと、車窓の向こうの彼らも同じなのだろう。彼らも、自分の死を受け入れながら、俺たちを見るのだ。俺たちに何を見出すのだ? 恨みか? 妬みか? 希望溢れる死か? 考えたくもない。


 電車のドアが閉まり、発車を告げるベルが鳴り響く。俺にとって残酷なショーの開幕のベルにしか思えない。

 ガタンゴトン、と電車が揺れ、重い車両を動きだす。

 俺は座席に腰を掛け、身体を丸めて頭を膝の上に置いた。

 何も見たくない。何も聞きたくない。血も肉も、あの子供たちの顔や仲間の女の顔も。電車がレールを走る音も、何かが地面に転がり落ちる音も、女たちの悲痛な悲鳴も。

 ――ああ嫌だ。金なんて欲しいなんて、思わなければ良かったんだ。

 そんな思いとは裏腹に、電車はごうごうと音を立てて加速し始める。

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