糸雨空
Racq
本文
心を表現する言葉は多くある。『怒り』や『悲しみ』といった、一つの言葉から始まり、『煮える』『海に沈んだよう』など、繊細な部分を上手く喩えたものも多い。そんな数多ある言葉から、今の僕の心情を表現するのならきっと……。
昨年からの志望校を合格した僕は、その学力を低下させぬよう、より一層勉学に励む毎日を送っていた。ーー教室、先生。そして、決められた席での授業、これらは今年で最後となる。小学から始まり、計十二年の間も同じ形式で学を深めてきた。それも終わりが近いかと思うと、感慨深さと共に、淋しさや感謝の気持ちが込み上げてくる。
最後に座る教室で、僕は何を想うのか……なんてことは頭の片隅に捨て置いた。
「ここ、テストに出るぞ」という言葉も今のが最後だろう。大学に入れば、聞くこともあるまい。校庭から広がる雨音は、僕の気持ちを掻き消した。
「大学に行けば楽しいことあるよ?」
沙霧は、授業後の片付けをする僕にそう言った。
そういう彼女に対して、僕は『それでも、辛いこと、不安の方が勝るよ』と返した。
「楽しいことも沢山あるだろうけど、それはその人次第なんだよ」
「じゃあ楽しめばいいんじゃないの?」
彼女の笑顔には、暗闇の中でも眩しく感じるだろう。僕の気なんか知らない彼女は、進学後の計画を呑気に立てていた。態々僕の目の前で考えることもないだろうに。
秋も終わるだろうという時期から、雨や曇りの日が絶えなかった。空にできた白の天井からは、精神に刺さるような天水が降ってくる。正午になっても、止むことはなかった。これは夜まで続くだろう。傘を持ってきていて正解だった。視線は卓上の弁当にやり、食事を始める。
……。
「……何?」
「食べないの?」
「今から食べるの」
「でもなんで固まってるの?」
雨粒は大きくなり、雨は激しくなった。
傘があって良かったと、心底思う。風邪なんて引いたら、貴重な時間を失ってしまう。
さてと、そろそろ帰ろうと傘を開いた時である。肩に手が、ぽんっと置かれた。
「入れてもらっていい?」
走ってきたのだろうか、沙霧の息は荒い。膝に手をつき、呼吸を整えていた。
「傘ぐらい持ってこいよ……」
僕は雨が降る空を見ながら、彼女を傘の中へ迎えた。
その帰り道のことである。雨音のみが支配する静寂を、沙霧が打ち破った。
「何かあった?」
「何が?」
彼女の意図は全く読めない。僕に何を言わせたいのか、全くわからなかった。
「なんか暗いよ?」
「それは空の話でしょ?」
「はぐらかさないで。私にぐらい言いなよ」
とは言われても、僕には何もない。だから、何もないよ、としか答えれなかった。
彼女は、ふーん、という興味のなさそうな反応しかしなかった。暫く沈黙しながら歩いていたが、いつしか彼女は折りたたみの傘を開いて走っていった。立ち止まる僕。しかし彼女は視界の悪い雨の中へと消えていってしまった。雨は、より一層強くなり、傘から響く打ちつけるような雨の音は大きくなった。
彼女とは、それからあまり話すことはなくなった。ノートを借りにくる程度になった。
晴れ、曇り、雨。一週間の中でも、天候は読めないほど不安定になっていた。朝は晴れても、昼からは雨が降ったり、曇ったりしていた。冬を越しても、それは変わることはなく。一枚の壁のような、又はお互いがN極だったかS極だったのだろう。もし神が居たのなら、僕らが会わないように運命を操ったのだろう。許し難いことだ。
時が止まったように感じる筈なのに、現実は進み続けてしまう。ペースなんて合わせてくれない。いつだって現実だけは非情なのだ。春も回ろうとしている。それなのに肌寒いのは、きっとこの雨のせいだろう。前夜にも関わらず、凄い量の雨が降り続ける。一昨日はまだ晴れていたのにだ。せめて卒業する明日ぐらいは晴れて欲しいものだ。
願っても叶わず、届かず。激しくはなかったが、パラパラと雨は降る。そんな中の卒業式。気分は最悪だった。
今はもう解散となり、みんなは記念写真やらを各自で撮っている。僕はというと、自分の席から見える窓の景色を楽しんでいた。この景色も最後だ。最後すら雨というのは悲しいものだが、これも仕方ないと受け入れた。
教室からは誰もいなくなり、僕一人となった。まだ暫くここにいるつもりで、変わらず空の景色を楽しんでいた。
不意打ちのように、しかし予想できた声が、突如かかった。
「困るんだけど」
予想は容易い。沙霧は怒った顔で、しかし不満げにもとれる表情をしていた。
「君は何も困らないだろ」
「困る。困ってる。ずっと困ってる」
何が、なんて問う気はない。察しが悪くてもわかる。
「これが最後なんて嫌だな」
「哀しいとでも?」
その言葉に何も返せなかった。事実、哀しい訳だから否定なんてできない。
糸のように細い雨は、舞う桜の花弁を打ち抜く。
「雨なんて悲しいな」
「悲しいね」
「雨をここまで嫌いになったのは初めてだよ」
「私だって嫌いだよ」
「どうして?」
「辛くなるから」
その言葉の意味は考えたが、一つしか出てこなかった。
「嫌ったんじゃないの?」
「頭いいなら分かれよ」
「人の心ほど分からないものはないよ」
彼女を見ると、沙霧は俯いていた。窓は閉め切っている。しかし、床は濡れていた。
「ねぇ、仲直りしよ?こんなの、嫌だよ」
彼女が発する声は震えていた。
「確かに、これが最後なんて嫌だよな」
「帰ろっか。傘、入ってくか?」
沙霧は、元気いっぱいの返事をした。
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