そのに

 それは、今から十年以上前の話になる。

 世界的大戦争で酷使されたエアの夫である風精王が、心の傷をなんとか癒して以前の調子を取り戻しかけていた時期だった。

 夫婦で業務にあたっていた二人だったが、その時エアの身体が召喚による光に包まれ始めたのである。

 当時の世界に厄災の気配はなく、人間達の間にも精霊の王を呼ぼうとしているものはいない、はずだった。

 王が厄災の対応以外で召喚されるということは、きっとろくなことではないのだろう。

 風精王は怒鳴り散らし涙まで流した、召喚されたことにより消えていく妻の身体を縋り付くように抱きしめて、行くなと叫ぶ。

 しかし召喚されたのであれば応じなければならない、それが精霊達に課せられたルールだった。

 だからエアは内心感じている恐ろしさを噛み殺して、「あなたでなくて良かった」とだけ言って、人間界に召喚された。


 たとえどんな非道な悪人に呼ばれようと、タダでは従ってやらない。

 そう決意していたエアは召喚されるなり強風を引き起こした。

 といっても足腰が丈夫な大人ならぎりぎり転ばずに済むような風だった。

 それでも、自分が不本意ながらも仕方なく呼ばれてやったのだという意思表示をしなければやっていられなかった。

 召喚されたエアは周囲を見渡し訝しんだ、何故ならそこは屋外だったからである。

 通常、エアのような精霊の王を呼べるような召喚陣はかなり厳重に保管されている。

 大抵はどこかの国にとって重要な施設の地下に安置されていることが多い。

 しかしそこは完全に屋外だった、しかもおそらく森の中。

 上を見上げると満点の星空と三日月が見える。

 ここはどこだ、自分は一体どういう状況で呼ばれたんだ。

 そもそも自分を呼んだ召喚者は、いったいどこに。

 周囲を見渡しても、召喚者らしき人影は見当たらない。

 その時エアは自分の足元を見て瞠目した、叫び声を上げずに済んだのは王としての矜恃があったからだ。

 エアの足元には、エアの召喚に使われたと思しき召喚陣があった。

 それだけなら別に驚くべきことではない、召喚された精霊は召喚陣の上にあわられるので、それは当然のことだった。

 しかしその召喚陣そのものが問題だった。

 なんせそこにあったのは薄っぺらく安っぽい紙切れに描かれた、子供の落書きのようなものだったのだ。

 円に五芒星、それから風の呪文が一つだけ描かれたそれは、どっからどう見ても力のない小精霊をぎりぎり呼び出せるような代物だった。

 しかも円は歪だし線も歪んでいる。

 一体なぜ、自分がこんなもので?

 というか、召喚者はどこだ?

 エアが困惑しつつも視線を彷徨わせる前に、少し離れたところで物音が。

 そちらにエアが顔を向けると、小さな、とても小さな何かが地面に転がっている。

 小さい何かはのろのろとした動きで身体を起こす。

 それは、人間の子供だった。

 おそらくは、まだ五つにもなっていないような小さな女の子。

 エアが先程引き起こした風によって、どうやら吹っ飛ばされてしまったらしい。

 そしてよく見ると、その子供とエアは召喚による仮契約の魔力の糸で繋がっていた。

 ――つまり、この小さな人の子が、こんなチンケな召喚陣で自分を呼んだ、と?

 そんな馬鹿なとエアは心の中で否定した、そんなことはありえない、自分達はそんな簡単に呼び出せるような存在ではないはずだ、と。

「……な、なに。なにごと」

 土埃で汚れた子供は顔を上げてエアを見て、「え?」と目をまん丸に見開いた。

 エアは、ぽかんとした表情で自分を見上げる子供と全く同じ顔をしているのが自分でもわかった。

「……な、なんかめっちゃりりしいおねーさんがきた……いやでもアレであんなすごそうなひとくる……?」

 子供はおろおろと困惑し切った様子でエアの顔を見ている。

「あなたが、私を?」

「……わ、わかんない」

「では、この召喚陣はあなたが?」

「……うん」

「…………であれば、どうやら私はあなたに呼ばれたようですね」

 そう言いながらエアは周囲を探る。

 遠くに人里があるようだが、周辺に存在する人間の気配は目の前の子供だけ。

 そして確かに自分と子供の間に結ばれている縁。

「ま、マジかー……うーん……あの陣だとせいぜい小精霊が呼べるかどうかって話だったけど……ええと、どうする? 本契約、する?」

 小さな子供は何もかもわからないけどとりあえず、といった感じでそう言ってきた。

 何故この子供がエアを呼び出せたのか、その理由はわからない。

 この子供にとてつもない才能があるのか、それ以外の要因があるのか。

 それでも呼ばれたからにはその先にどうするのかを決めなければならない。

「おねーさんがしたくないっていうんだったらそれでいいよ。多分これ、なんかよくわからない事故みたいなやつだと思うし……」

「……いえ、お願いします」

 エアが答えると子供は目をまん丸に見開いた、意外だったのかもしれない。

 しかし、エアからすればこの子供との契約には利益しかないのである。

 まず、この子供には自分たち精霊への害意はない、ついでに自分を呼ぶ気すらなかったようだ。

 そして契約するかどうかをわざわざ聞いてくる、まともな人間だったら自分のような精霊を呼べたら絶対にものにするだろうに、その欲が目の前の子供には全く感じられない。

 まだ小さい子供なので自分女王を呼び出すということがどれだけの事なのかまるで分かっていないのだろう。

 そして今、周辺にはこの子供以外にエアの存在を認知している人間は一人もいなかった。

 異常事態でエアが召喚されたのだとしても力あるものが近くにいれば女王が召喚されたことに気付き接近してくるだろうが、そんな気配は欠片も存在しない。

 つまり今、エアが召喚されたことを知っている人間は、召喚を行ったこの子供だけなのだ。

 それならこの子供を適当に言いくるめて契約してしまった方が安全だった、精霊は一人の人間としか契約を結べないので契約を打ち切るかこの子供が死ぬまで他の人間に呼ばれることはなくなるのだ。

 そして精霊界に四対存在する王は、どちらか一方が人間と契約していればもう一方は絶対に召喚されなくなる。

 つまり、エアがこの子供と契約してなおかつ酷使しないように言いくるめてしまえば、この子供が死ぬまではエアだけでなくエアの夫も平穏に生きられるのである。

 人間の寿命は百といくらか程度だが、その短い間だけでもいつ自分や夫が非道な人間に召喚される心配がなくなるのであれば、利益しかない。

 そういうわけでエアはその子供と契約を結ぶことにした。

 子供の方は再三「本当にいいのか?」と聞いてきたが、首を縦に振ると何故か微妙な顔でわかった、と。

「えっと……契約って確か人間優位と対等なのと精霊優位のがあるんだっけ? 対等でいい?」

「……はい? あっはい、対等でお願いします。是非対等で」

 エアはとても強い精霊なので、今まで行ってきた契約では人間に害をもたらさぬよう人間主体の契約がほとんどだった。

 なので一瞬面食らったのだが、対等に契約を結んでしまえるのならそちらの方がいい。

 できれば精霊優位の契約を結びたいところだが、あまりこちらが強く出ると「じゃ、やっぱ契約なしで」とか言い出されかねない。

「あ、精霊優位のがいい……?」

「いえ、対等で問題ないです。最近ずっと人間優位の契約ばかり結ばされてきたので、少し驚いただけです」

「あ、そうなの? ふーん……ま、対等でいいっていうならそれでいいけど……えーっとちょっと待って……あ、まって本どっかい……あった!」

 言ってる途中で視線をうろつかせた子供は少し離れたところに落ちている薄っぺらい本を拾い上げて土埃を小さな手のひらで払った。

 その本は召喚に関する手順書のようなものらしい、表紙に愛らしい小精霊のイラストが書いてあるので、おそらくは子供用の教材かなにかなのだろう。

「ふむ……えーっと、互いに名前を呼んで、契約の呪文を言えばいいわけか……ふーん、偽名や渾名は使用不可……これって名前なかったり本人が名前知らなかったらどーすんだろ……まあ、関係ないけどさ」

 本を開いてそんなことをぶつぶつ呟いた後、子供は顔を上げてエアに自分の名を名乗った。

 エアも素直に真名を名乗ったが、子供はエアの長ったらしい真名を一度で覚えきれなかったらしく、目を点にしていた。

 その後もなかなか覚えられずにいたので仕方なくエアはその辺から枝を拾って自分の真名を地面に書いて、それを読み上げてもらうことになった。

 そうしてどうにか契約を終えた後、子供は申し訳なさそうに「名前長すぎるから普段はエアって呼んでいい?」と聞いてきたのでエアは首を縦に振った。

「えっと……じゃあ……その、別に頼みたいこととかもないし、やりたいこととかなければ還っていいよ」

「……はい。では一度還ります。……何かあればお呼びください」

「う、うん……じゃあ、おつかれさまでした……」

「ええ、では」

 手を振る小さなマスターにペコリと頭を下げて、エアは精霊界に還った。

 還るなり半泣きの夫にものすごい勢いで抱きしめられ、怪我はないかだの嫌なことをされなかったかなどの質問責めにあった。

 というかどこのどいつだ王の召喚を行った大馬鹿は、と鼻声で叫ぶ夫にエアはぽつりと答えた。

「子供でした」

「は?」

「多分、五歳くらいの女の子」

「は??」

「しかも小精霊以外は呼べなそうな召喚陣で」

「は???」

 事実をそのまま伝えたのだが、夫は意味が全くわからなかったようで理解してもらうまでしばらく時間がかかった。

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