第7話

「修平、おつかれ」

 机にしている俺に若林が湯呑ゆのみに入った日本酒を手渡してきた。間宮が持ってきた酒だった。

「ありがとうございます」

 筋肉疲労を起こし始めた足をかばいながら、俺は手を伸ばした。まるで自分の体ではないかのように、思うように湯呑まで手が伸びない。思わず笑ってしまった。

「お前って酒いけるクチか?」

「え? まぁ、人並みには」

 なんとか湯呑を受け取る俺に、「明日に酒残すなよ」と若林が言った。

 ついさっき、篠原班も連続爆破事件の捜査に加わることが決まった。これまでの倍の捜査員を投じ、爆弾魔を追い詰めようというのだ。

「了解っす。これくらいなら平気っす」

 絶対に犯人を逃しはしない。

「今度飲みに行こうな。お前がどれだけ飲めるか見極めなきゃ。結構きてるんじゃないか?」

 若林は俺の太ももにコツンと拳をぶつけた。

「頑張ったな。お疲れさん」

「うっす」

 もだえながらも、若林のねぎらいの言葉に俺は顔をほころばせる。そして、ホッと胸を撫で下ろした。電話の失敗をなんとか取り戻せたようだ。安堵の表情を浮かべ、俺は湯呑の酒を口に含んだ。

「美味い」

 小さく呟く。

 疲れ切った体に酒がじんわりと広がっていくのを感じながら、俺はそっと目を閉じて地下駐車場でのことを思い起こす――


 駐車場に駆け込んだ瞬間、膨大な数の車が視界に飛び込んできた。ほぼ満車状態の駐車場。俺は反射的に腕時計を確認した。

 タイムりミットまで、あと二十分。

 静まり返る空間に、俺たちの荒い息遣いが響き渡る。じんわりと額に汗が浮き出るのを感じながら、俺たちはすぐさま二手に分かれた。考えている暇はない。コンクリートに白くペイントされた番号を確認しながら、排気ガス臭い空間を駆け巡る。

 目の前に108の番号が飛び込んできた時のあの全身の血液が逆流するかと思うほどの興奮は、今でも忘れない。

 ありったけの声で「あったぞ!」と叫ぶと、ちょうどタイミングよく篠原を筆頭ひっとうに機動隊や爆発物処理班が駐車場に駆け込んできた。両腕を振って俺は場所を報せ、防爆防護服を着用した爆発物処理班の職員に爆弾を託した。

「あとは任せろ」

 すぐさま爆発物処理筒車という特殊車両が搬入され、爆弾の仕掛けられた車の前に止められた。俺たちは駐車場出入口まで避難させられ、処理の様子を見守った。

 疲労困ぱいで立っているのもやっとだったが、その場を離れる気にはなれず壁に体を預けたまま様子をうかがった。

「回収完了!」

 爆発物処理班の職員の声が地下駐車場に響き渡った途端、全身の力が抜けて俺はその場に座り込んだ。

「あ、嫌なこと思い出した」

 思わず目を開けると、「腰抜かした件か?」とすかさず若林が突っ込んだ。

「なんで分かるんすか。ていうか、腰なんか抜かしてません。ちからが抜けただけです」

 苦虫にがむしつぶしたような顔をする俺に、「今お前認めたろ。田村の肩借りて戻ってきたときのお前の顔、笑えたぞ」と若林がからかうように笑いながら俺の湯呑に酒を注いだ。

「あれは……」

 口ごもる俺に、「悔しかったか」と若林がクスリと笑った。

「気にするな。お前と田村じゃ、経験値が違うんだから。あんな経験したんだ、誰だって腰抜かすさ」

「でも……俺だって警官としてこれまでやってきたのに」

 今回仕掛けられていた爆弾。爆発物処理班の田代班長が言うには、地下駐車場を吹き飛ばす程の威力があったそうだ。もし爆発していたら本部ビル倒壊も有り得たかもしれないと聞いて、また腰を抜かした俺。警官に向いてないんじゃないか、と落ち込みそうになる。

「そういや修平。総務部の女性職員の間でお前、人気急上昇だぞ」

 若林がニヤニヤしながら右肘で俺をつついた。

「へ?」

「へ、じゃないよ。なーんかすごい人気だよ」

「っていうか、どんな人がいたか全く覚えてないですけど」

「警察官のかがみだね君は。かわいい子多いのに、総務部」

 若林が、信じられないとばかりに目を見開いた。

 この人は……。爆弾騒ぎで、それどころじゃなかったよ。どんな子いたかな。記憶を辿るが、思い浮かぶのは石井と玉木、そして恥ずかしい過去を語ってくれた北岡という巡査の顔だけだった。……なぜ野郎ばっか。

 項垂うなだれる俺を若林が楽しそうに見ている。

「まぁ、いいじゃないか。覚えてもらっただけでもさ。今度、お前のために総務部の子たちとのコンパ開いてやるよ」

「とかいって、ほんとは若さんが狙ってるんじゃないですか?」

 疑いの目で俺が言うと「うん、そう」と若林が嬉しそうにうなずいた。全くこの人は。どこからそんな情報集めてくるんだ。呆れながら、湯呑の酒を飲み干した。

 こんなに美味い酒は初めてかもしれない。

 仕事をやり遂げたという達成感からか、それとも命を長らえることができた喜びからか。胃のに染み渡るとはこういうことをいうのだろう。

 酒の余韻に心地よくひたっていると「大活躍だったそうだな、新人!」と背後から野太い声が聞こえたかと思うと背中を思い切りどつかれた。

 よろける俺。宙に舞った俺の湯呑を冷静に若林がキャッチした。踏ん張る気力も体力も残っていない俺の体をどうせなら受け止めて欲しかった、と倒れかけながら思っていると、いきなり誰かに腕を掴まれ、ものすごい力で引っ張り上げられた。

「だらしねぇな」

 俺の腕を掴んだまま、間宮が呆れるように言った。

「すみません。ありがとうございます」

 礼を言わなければいけないのだろうか。もともと俺の背中をどついたのは間宮なのに。釈然としない俺は、眉間みけんに皺を寄せながら若林から湯呑を受け取った。

「若さん、ひどいですよ」

「なんだ、抱き留めて欲しかったのか? 申し訳ないが俺にはそっちの趣味はない」

「俺もありません。罠にめようとするのやめてください」

 変な噂が流れたらどうする。

「なんだ、望月。お前、そっち系だったのか」

「だから、違いますって。あ、酒、ご馳走様でした。美味かったです」

 余韻はどこぞに飛んでいってしまったが、美味い酒が飲めたのは間宮のお蔭だ。

「お、なんだ。結構、律儀じゃねぇか」

 意外そうな顔をする間宮に、「うちの若いのにちょっかい出してんじゃねぇよ」と篠原が湯呑片手に近づいてきた。この二人がそろうとろくなことがない。ふと横を見ると、さっきまでそこにいた若林の姿が消えていた。周りを確認すると、少し離れたところで他の班の刑事と何事もなかったように談笑している若林の姿を見つけた。

 日頃の経験から学習しているからこその、このすばやさか。見習わなくてはならないんだろうな、篠原班の一員になったからには。……じゃないと、滅茶苦茶な大人にからまれまくる。

「間宮なんかにごまする必要なんてないぞ、望月」

 あふれんばかりに俺の湯呑に酒を注ぎながら、篠原は「バカがうつる」と続けた。

「誰がバカだ。暗号の解読もロクにできないヤツに言われたくねぇな」

 俺が答える前に横から間宮が割って入ってきた。

「はっ」

 篠原は鼻で笑う。

蚊帳かやの外でアホ面下げて見ていただけのヤツがよく言えるな。役立たずめ」

 にらみ合う二人に挟まれながら、俺はちびちびと不味い酒を口にする。さっきまであんなに美味かった酒がこんなにも不味くなるなんて。なんて破壊力のある二人なんだ。

「望月、お前も運が悪かったな。こんな人でなしが上司なんて」

 間宮があわれむように俺を見ながら言った。

「いえ、そんなことは」

 思っていても口にできません、という言葉を飲み込む。

「このアホのことなんか気にするな。俺が許すから言いたいことあるなら今のうちに言っとけ」

「そうだぞ、由美ちゃん狙ってんだろ? 今のうちにアピールしとけよ」

 篠原の言葉に間宮の顔色が変わった。まるで鬼の形相ぎょうそうだ。

「ちがっ、警部、何言いだすんですか!」

 狼狽ろうばいする俺を面白がるように、篠原は自分の湯呑に酒を注ぎながら「藤さんが見せた写真に写る由美ちゃんにお前見惚みとれてたじゃないか」と言った。

「本当か? 望月」

 殺気立つ間宮に「いや見惚みとれてたわけじゃ……」と慌てて否定すると、「なんだぁ? 由美じゃ不服だってのか?」と血管を浮き立たせ、顔を真っ赤にしながら間宮が俺をにらんだ。

「あ、いえ、そういう意味ではなくて」

「じゃあお前、やっぱり由美のこと」

「だから違いますって」

「煮え切らねぇヤツだな」

 酒を飲みながら篠原がぼやいた。誰のせいだ。俺は篠原をひとにらみし、「煮え切るも何も、まったくもってそんなこと考えてませんから」となんとか誤解を解こうとした。

「お前みたいな若造わかぞうに由美はやらねぇ」

 すごむ間宮に「そうだ、そうだ」と篠原が味方につく。さっきまでいがみ合ってたんじゃなかったのか。なんなんだ、この人たちは。

「だから、聞いてますか、人の話」

 どう言えば、話が通じるのだろう。そもそも、どうしてこんな訳の分からない理由で絡まれなければならないのか。疲れているのに。

「まーさん、あんまり望月を困らせるな。篠、お前もだ。今日一番頑張った部下をからかって遊ぶな」

 藤堂と談笑していた小林が、俺たちのもとにやってきた。隣には呆れ顔の藤堂もいる。

「こばさんひどいなぁ。これは俺流のねぎらい方ですよ」と篠原

「お前流ってのが一番厄介やっかいなんだろーが」

 苦笑くしょうしながら小林は藤堂に「なぁ」と相槌あいづちを求めた。藤堂が答えるより先に間宮が「コイツの存在自体が厄介やっかいなんですよ」と答えた。

「お前が言える立場か?」

 声を上げて笑いだした小林に「こばさん、そりゃないよ」と間宮が肩をすくめてみせた。そんな間宮の様子を目を細めて見ていた藤堂が俺に向き直り、「今日は大活躍だったな、望月。お疲れ様。今日一日で随分顔つきが変わったよ」とねぎらいの言葉をかけてくれた。

「ありがとうございます。あの顔つきって」

「刑事の顔になってきた」

 藤堂の言葉に思わず胸が熱くなった。俺にとって、これ以上ない褒め言葉だった。

「けっ、まだ俺は認めねぇ」

 不満げな間宮は湯呑の酒を一気にあおった。

 娘の相手として認めないのか、それとも刑事として認めないのか、いまいちよく分からないが、その一言は俺の中にあったいい心持こころもちを一瞬でぎ払った。まさに瞬殺しゅんさつと言っていい。

 悔しいが、俺は刑事として認めさせるだけの仕事をまだしてはいない。今回だって、電話の相手が爆弾魔だとすぐに分からなかった。これでは、認められないと言われても仕方がない。

 ――これからだ。

 刑事として、必ず認めさせてやる。


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