狙われた県警本部
第1話
事件も無事解決し、しばらくは平穏な日々が送れるものと思っていた。
だが、そうさせてくれない人がいた。
「時間がある時は、
一課長である小林の言葉は絶対だ。もっとのんびりと報告書を書くべきだったか。やることもないので、しぶしぶ県警本部内にある道場へ向かった。
警官になるまで柔道をやったこともやろうと思ったこともなかった。交番勤務の時でさえ決められた
道場に入ると、
「大丈夫か?」
藤堂が、横になったまま動かない俺を心配になったのか声をかけてきた。
「……吐きそうです」
なんとかそれだけ答えると、「無理しない方がいい。今日の連中は全国大会常連のヤツばかりだから。昼も近いし、今日はこれで終わりにしよう」と藤堂は俺の手を取り、立ち上がるように
どうりで皆、強いはずだ。俺はよろけながら片膝をつくと藤堂を見上げる。
この穏やかな笑顔を浮かべる藤堂が柔道五段だということを今日初めて知った。人は見かけによらない。
小学校で道徳を教えていそうなこの藤堂が、昨年の県警柔道大会で準優勝していることにも驚いたが、優勝したのが捜査四課の
……あの人を怒らせてはいけないと誓った。
けれど、そういう人間って普通は機動捜査隊とか全日本のコーチとかになるんじゃないか?
猛者たちに投げられまくった俺は、今にも吐きそうなのを
田村をちらりと見ると、俺ほどバテた様子がない。卒なくこなすヤツがいつの世にもいるものである。憎い。
「今日の
声を張り上げている訳ではないのに、藤堂の声が道場中に響き渡る。
二時間にも及ぶ
「望月は筋がいいよ。学生時代に何かやってたのか?」
隣を歩く藤堂が
田村はいつものごとく、ひとり前を歩いている。協調性のない奴め。
俺はキッと田村の背中を
「大学まで?」
「はい」
「じゃあ、俺と似てるな。俺も中学から大学まで柔道一筋だったから」
懐かしそうに目を細めながら、安定感のあるテノールの声で藤堂が言った。
「望月は主将とか似合いそうだな」
「一応、高校、大学では部長でした」
「そんな気がした。人をまとめるのが上手そうだ」
褒められてこんなに嬉しくなったのは初めてかもしれない。藤堂の言葉に思わず顔が
「ちょっと篠さんに似てるかな」
「え……」
さっきまでの嬉しい気持ちが一気に吹き飛び、顔が引きつる。きれいさっぱりと、あとかたも残らないほどの威力を藤堂の放たれた言葉は持っていた。
「悪い意味で言った訳じゃないよ。アイツはああ見えて、人を統率する力が
素直に喜べないのは何故だろう。……ああ、篠原のあの性格のせいか。自問自答する俺の
高校、大学と篠原が柔道部の主将を、そして藤堂が副主将を務めていたそうだ。藤堂と篠原、そして間宮は中学から大学までずっと一緒だったと少し前に若林から聞いていた。きっと藤堂は苦労の絶えない日々を送ってきたことだろう。しかもかけがえのない青春時代に。恐ろしい話だ。
とろこで、よくあの間宮が篠原が主将になることに文句を言わなかったものだ。
「まーさんには未だに勝てたことがないよ。というか、アイツが負けたところを見たことがない」
「そうなんですか?」
驚く俺に、「知らなかったか?柔道やってるヤツでアイツを知らないヤツはいないよ」と藤堂が目を細めながら言った。
「知りませんでした。――そう言えば今日、間宮警部いませんでしたね」
いつも俺に悪魔のような
「ああ、まーさんなら由美ちゃんの、娘さんの試合を見に行ってるよ」
「娘さんがいるんですか?」
意外だった。
というか、どうしてこの藤堂が独身で篠原や間宮が結婚できたのだろうか。謎だ。世の中の女性の目はどうなっているのだろう。
「可愛くて、いい子だよ」
刑事部のドアを開けながら藤堂が言った。
「試合って、テニスか何かですか?」
俺は藤堂と共に部屋へと入る。と同時に、机にうつ伏せになって眠る田村の姿が目に入った。今、一応仕事中のはずだが。
「いや、柔道だよ」
藤堂はそんな田村を注意することなく自分の席についた。周りを見渡すと、新聞や雑誌を読んでいる人間や大胆にも机に足を乗せて眠っている人間もいた。
つかの間の休息、か。俺は何も言わずに藤堂の隣――田村の隣でもあるが――の席に腰を下ろした。
「娘さんも柔道やってるんですね」
その瞬間、脳裏に女装姿の間宮が浮かんだ。
……想像力豊かな自分が怖い。
「今頃、決勝じゃないかな。県大会の。去年は準優勝だったからまーさんも気合が入ってるみたいだ」
「県大会で準優勝ですか? 強いんですね」
「いや、全国大会だよ。まぁ、まだ高校一年生だったからしょうがないけどね」
「全国? え、高校生?!」
小学生の部ではなかったのか。完全に間宮の遺伝子を受け継いでいるということか。再び、脳裏に女装姿の間宮が
おぞましい想像を振り払うべく頭を勢いよく振ると、藤堂が驚いたように「どうした?」と声をかけてきた。
「あ、いえ、なんか虫が飛んでたんで」
俺は慌てて誤魔化した。藤堂は気にするでもなくニコリと
危ない、危ない。おかしな人間だと思われてしまうところだった。ホッとひと息つく俺に、引き出しから一枚の写真を取り出した藤堂が「これが由美ちゃんだよ」と俺に見せてきた。
写真を持っているところが藤堂らしい。俺は
写真には藤堂と篠原、間宮といったいつもの三人の姿があった。そしてその中央に、肩につくかつかないかくらいの髪を風になびかせながら愛らしく笑うセーラー服姿の女の子が映っていた。くりくりの大きな瞳に少し小さめの鼻が印象的だった。
「……あの」
俺は写真を
「……この子がユミ、ちゃんですか?」
「そうだよ」
「……なるほど」
言葉が続かない。この小柄な少女が、柔道の全国大会で準優勝したというのか。しかも可愛いではないか。生命の神秘にしみじみと感心していると、ふと机に積み上げられた書類に目が止まった。
……増えてる。
目を
若林と里見は、ある事件の検察側の証人として
俺は、ペン底を鼻に
無視する篠原。
もう一度、少し大きめに咳払いをしてみたが、篠原はパソコン画面から顔を上げることはなかった。
――こんな上司、嫌すぎる。
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