第220話
クランさんは興奮しきっていて、もう顔も普通ではなくなってしまっていた。
「どうか落ち着いて! 大丈夫ですから」
「そんなこと……」
「どうか、その包丁を下ろしてください」
彼はギュッと包丁を握りしめて、手首の血管が浮かび上がっていた。人なんて殺したことないだろうに、ほら、今もこんなにも震えているじゃない。
それでも、私の身を案じて、彼はこうしている。もしも私が外の兵士たちに捕らわれてしまえば、酷い拷問の末にシャラパナの情報を全て吐かされたうえで処刑されてしまうのだろう。それをさせまいと、今彼はその手に包丁を握っている。
「それがあなたの優しさなのね、クランさん」
「……いえ、恨んでもらって構いません」
「どこまで優しいの?」
辛いね、きっとなんでもない二人だったのなら、こんなことにはならなかった。明日も明後日もその先までずっと続いていったはず。
でも、彼に殺されるわけにはいかない。クランさんはもう私を殺すつもりだろうけど、私は飛んで逃げてしまう。彼も何もかも、嫌な記憶さえもここに取り残して去ってしまうのだから、彼の覚悟は残念ながら無に帰してしまう。
「クランさん、聞いて!」
「もう言葉はいらない!」
クランさんは構えた包丁を意を決したように私に向かって突き出してきた。だけど、もちろん戦ったことなんてないクランさんの包丁が私に当たるわけなんてない。
ナイフを持つ手首を掴んだ。
「離してください! きっとここで死ぬのが幸せなのです。こんなこと、身勝手だとは思います。けれど、もうこれ以上あなたを苦しませるわけにもいかないだろう!」
もう、私の言葉さえも聞いていないみたい。
「僕も責任を取って、あなたと一緒に行きます、怖くはないですから、ね、スネル」
「そういうのは責任を取るとは言いません! もう、その包丁を早く離して!」
「離しません!」
抑えようとすると、クランさんは暴れ出した。私は腕を掴んでいるけど、彼はそれごと振り回そうとする。
彼はついに暴れ始め、
「離してくれ!」
「きゃ!」
私の手をとうとう振り解いてしまった!
「ゴボッ!」
「え?」
クランさんの口からは、赤い血が一筋。
「クランさん!」
「ヒュー、ヒュー」
私を振り解いた勢いで、自分の胸を刺してしまったのだ。
それでも、クランさんは止まらない。まだ私を刺そうとして胸の包丁を抜いた。すると当然のこと、傷口からどっと血が吹き出した。
「いけません! 血が流れすぎてしまいます!」
クランさんは、朦朧としながらも、私をまだあの世へと送ろうとする。が、ふらついて倒れてしまった。
倒れたクランさんを抱き起すと、もうその意識は絶え絶えだった。
「大丈夫ですか! しっかりして!」
「ああ……情けない。僕はあなたに何もしてあげられなかった」
「話さなくてもいいから!」
「いや、もう手遅れだ僕は。だから君と話していたい。ああ、願わくば生きてほしい。だけどそれも叶わないだろう。だから、せめて苦しまずに……」
「それなら安心して」
彼の手を握って私の胸に押し当てた。
「大丈夫です。私は死にません」
「もう何の頼りもありませんから、その言葉を信じて逝くとしましょう、ああ、もう火の手も回ってきております」
焦げ臭さは一層に増していた。
私は火から逃れるように、クランさんの体を抱きかかえて、二階に上がった。
「クランさん、外に行きましょう」
「……?」
私は、翼を呼んだ。応えた鉄の刃たちは次々と集まって来て、私の背中に翼を作った。
それにクランさんは驚く表情を見せたけれど、もう何も話さなかった。
「では、行きましょう」
彼を抱きかかえたまま、私は窓を開けて外に飛び出した。
そのまま宙高くに舞い上がり、飛び立った。彼の容体を気遣いつつ、柔らかく、優しく。
「これは夢でしょうか? もう死んでいるのでしょうか?」
「いいえ、確かに生きています。ほら、感じるでしょう」
彼の手を私の頬に。血の濡れた感触がした。
「本当ですね、温かい」
目を開いた彼の表情は朦朧? いや、恍惚としているみたいだった。
「フフ、君は天使だったみたいだ」
「そんなことないです、全部鉄の作り物ですから」
「いや、なにも君が翼を持っているってだけで天使だって言ってるんじゃないさ。こうやって僕を天に連れていく君はまさしく天使です。鋼鉄の天使」
クランさんは笑っていたけど、その顔を見ると、なんだか涙が出てきそうだった。そんな顔を彼に見せまいと空を見ると、今日も満天の星空。このままあそこまで逃げてしまえたらいいのに。
「君は僕をあそこへと届けてくれるんだね」
「私も行きたいのに」
「いや、君が星になるのは早すぎるよ」
早すぎる感傷を引きずって、上にばかり気を取られていると
「見つけたぞ! 空を飛んでいる、矢を射かけよ!」
下から聞こえてきた号令の声は、間違いなくレイマート王のものだった。それが分かると、今更ながら、悲しくなってくる。
矢が下から突き上げてくる。すごい数だ。高く飛びすぎて私は的になっていた。
「ドッドッドッドッドッ!!」
「クランさん!」
もう口を利くのさえも苦しそうな体なのに、クランさんは私の盾になった。
「おい! あの女! 王太子を盾にしたぞ! 許すな、捕まえろ!」
「どうしてそこまでするのですか! 初めて会ってからまだ一週刊しか経っていない女ですよ!」
「たとえ一週間でもいいじゃありませんか」
「……」
「聞かせてください、あなたは僕を愛してくれていましたか?」
「愛していたかも、しれません」
「ハハ、僕は確かにあなたを愛していましたよ」
「……! 頼りのない女ですいません」
「いいんです、きっとあなたが真に愛せる人がやってくるはずですから。それまで、僕はあなたを見守っていましょう。たとえ神が君を殺そうとしても、きっと守って見せますよ……ああ……もう持ちそうにないな。お別れです」
言い終わるか否かのタイミングで、彼の体からスルリと力が抜けてしまった。
「クランさん! クランさん!」
返事はない。
失意が翼を重くしつつも、私は彼の体を抱えたままに追撃を逃れた。逃げた先は森の中。空から見下ろしていた時に、なんとなく城の庭と似ているところを見つけたので、そこに降りた。
「この場所が静かでいいかもね、私がこんなことするのは、本当はおかしな話なんでしょうけど、これは譲りたくない」
翼を展開し、大きな木のそばの地面を穿った。ちょうど人一人分の穴ができたので、その中にクランさんを寝かせた。
土をかぶせて埋めたあと、ちょうどいい石が見つからなかったので、私が持っていた剣をそこに立てた。あとは……ああ、ちょうどいい。紅い花がたくさん咲いている。暗闇の中でも映えて美しい。
「クランさん、あの時は白い花が似合うなんていっちゃいましたけど、本当は赤い花が似合っていましたよ」
赤い花をちらして、静かに手を合わせた。
と、そのとき!
「シュルルルル!」
「……!!」
「ぐっ!」
「こんな所にいました! 捕まえましたよ!」
しまった、もうここまで来ていたか! 苦しくて翼も扱えない……!
「よくやった。この女は息子を殺した大罪人でもある。牢につないでおけ」
レイマート王の声がかすかに聞こえる中で、私の意識は途絶えた。
つぎに目が覚めると、全面石張り。目の前には檻の鉄棒が並んでいるから、ここは牢らしい。私の目が覚めたのに気付いた向かいの囚人が声をかけてきた。
「起きたかお嬢ちゃん」
「……」
「お前さんは何をやらかしたんだい? こんな極悪人ばっかの牢に入れられるなんて相当だぜ?」
「……」
「この女は王太子様を殺したんだよ」
看守が勝手に答えた。
「おいおい、そりゃゴツいことをやっちゃってるじゃないか」
「……」
私が何も言わないので、面白くなくなってしまったのか、向かいの囚人はもう何も話しかけてこなくなった。
このまま殺されるのだろうか? そうなら、静かにあっさりと殺してほしいな。もう帰るところもないだろう。それなら私もクランさんのところへ……
「スネル・シルバータ、出ろ」
看守が牢を開けた。
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