『猫みる、猫かぶる。』KAC2022#12

 猫神ねこがみさまを前にして、あたしは四つん這いになって伏せる。

 額が見えるように顔を上げると、あたしよりも一回り大きな猫神さまが、分厚い肉球を額にぽんっ、と当ててくれた。


「ルールは分かっているね……あなたの肉球でも時間の延長はできるけど、それをすればねこの姿に戻るのが難しくなるからね……。

 さあ、注意事項を理解したなら、六時間の人間時間を楽しんでおいで」


 ブルーアッシュの毛並みを撫でられる。その手つきにうっとりとしていると、いつの間にかあたしの毛並みはなくなっていて……見えているのは肌色だった。

 目線も高くなり、猫神さまを見下ろしている……うわあ、撫でたくなってきたにゃあ――、


「こら。神を上から撫でる気かい? まったく……この子は……」


 猫神さまがつんつん、と手で自分の額を指す……隣にあった姿見に目を向け確認した。毛並みと同じ色の前髪を上げて額を見ると、肉球のスタンプが押されている。今は真っ赤だけど、時間経過と共に次第に消えていくシステムだ。時間を忘れたら額を見ればいいってことか!


「なんだかお洋服がきつい気がするけど……」


「あんたが成長期だからだろうねえ。まさか、用意しておいた服のサイズがそこまで合わないとは思わなかったわ……、どうせショッピングをして洋服を買うのでしょう? なら、こっちで用意をする必要はないわよね?」


 ぴちぴちのTシャツに太ももが出ている短パンだけどまあいっか。動きやすいし、オシャレとは無縁のアイテムだから目立たないよね!


「……やっぱりジャージを着なさい。人間として繁殖されても困るから……」

「オシャレをしていないあたしに見惚れるオスなんていにゃいでしょうよー」


「上下に動くんじゃないよ、心配だわ……ほんとに……」


 眉間を指で押す猫神さまに挨拶をして、あたしは人間世界へ飛び込んだ!



 猫の世界で得た小判を人間世界で使える現金に変えて、目星をつけていたお店を巡るショッピングを楽しんだ後……、


 荷物を預けて猫時代の散歩ルートを辿っていたら、公園のブランコに乗って前後に揺れている人を見つけた……スーツを着た女の人だ。

 お弁当を食べていたのだろうけど、膝の上から落ちてしまったそれは、中身を盛大にこぼして地面に転がっている。

 女の人はそれを拾おうともしないでブランコを漕いでいる……どうしたんだろう?


 ぽかんと口を開けて、目の前のなにもない空間をじっと見つめていて……、


「お、おねーさん、これ、食べないの? 

 ……もう食べられないと思うけど、拾った方がいいんじゃないの?」


 意地汚いカラスが近づいてくるよ? と忠告しても、彼女はあたしのことを見ていなかった。

 視線は向いているけど……瞳に光がない。死んでるような……、


 ピチピチ跳ね終えた後の魚の目がこんな感じだった気がする。


「おねーさんっ!」


 強く肩を叩くと、おねーさんの瞳に光が戻った。目の前にいるあたしに気づいてはっとし、周囲を見回し状況を把握したのか、足下のお弁当を拾って、あたしに向けてにっこりと笑った。


「ありがとう。学生さん? 今日はお休みなのかな? ちょっとお姉さん、時間感覚が狂っちゃってねー、今が何曜日かも分からないの、重症なの……」


 どんよりとした重く黒いオーラを放つおねーさんは、両手をぱんっと頬に当てて、


「んっ! よし、午後もがんばろ! 

 ありがとう、学生さん。あなたの可愛い顔を見ていたら元気が出たわ」


 言って、こぼしたお弁当を袋にしまって立ち上がるおねーさん……、昼食も満足に食べないで動けるのだろうか、と心配になる。

 ……おねーさんの笑顔からは無理が見えたし、口に出して聞かなくとも苦しい思いをして、痛みを抱えているのはまる分かりだった。


 公園で一人、ぼーっとしてしまうくらいにはストレスを抱えている……、なのにおねーさんは初対面のあたしに心配をかけまいと笑顔を振り撒いた。

 八つ当たりすることもできたのに……、してもおかしくないほど追い詰められていたのに――なのに、さらに抱え込んで誰にも見せないように隠した。


 あたしの前で猫を被った。


 離れていくおねーさんの背中を見ていると、不安になってくる。

 まるでその先が、空へ続く透明な階段を上がっているように見えて――っ。


「…………」


 おねーさん、猫の手も借りたいくらいに追い詰められているなら、貸してあげよっか?



 おねーさんは会社に居場所がなかった。

 他の人間の話を盗み聞きすると、社長の誘いを断ったことで過剰な仕事量がおねーさんに押し付けられた。悪評を流され、仲間はずれにされ、誰も味方がいない中で、おねーさんは一人で戦っていたのだ。


「これ、明日までによろしく」

「で、でも社長……これは徹夜をしないと……」

「うん、じゃあ徹夜して。書類がないと明日、会議にならないから任せたよ」

「社長っ、あの、誰か、他にも……」

「断ったのは君じゃないか」


 おねーさんは唇が切れるほど噛んで堪えていた。


「股を開けとは言わん。それでも多少のサシ飲みくらいはいいじゃないか」

「いえ……、それは」


「断るなら、君への態度を変えるつもりはないよ。君も、周りの子と同じ高給を貰っているはずだろう? 憧れた豪遊生活に慣れた君が、今更、昔に戻れるのかな?」


 薄汚い手でおねーさんの髪を撫でた男が、部屋を出ていった。

 ……しん、と静かになる部屋で、電話の音が鳴り響く。


「……はい。私が担当の者ですが――」



 おねーさんがトイレに入った隙を見て、窓から侵入、おねーさんの背後を取る。


「え、あなた……っ!?」

「おねーさん、じっとしててね」


 その猫を被る習性が首を絞めているなら、解いてあげる。

 あたしの肉球でおねーさんの額を押せば――猫なんて被れなくなる。


 あたしが猫を被れないように――今、人間の姿でいることができているように。

 おねーさんは心の底から人間になるべきなんだ!!



 おねーさんは社長室へ向かっていった。

 おねーさんが日頃、心の中で思っていることを、猫を被ることで蓋をしてしまっているなら、その鬱憤の全てを吐き出させてしまえばいいのだ。

 ぱんぱんに溜めているから破裂する。だったら適度に空気を抜いてあげれば、きっとおねーさんは『自殺』なんて悲しい結果を求めないはず……。


 今頃、言いたいことを言って、スッキリしているんだろうなあ……と思って社長室をそっと覗いてみると……、



 おねーさんが男の人に馬乗りになっていて。


 握り締めた両の拳を男の顔面に振り下ろしているところだった。


 おねーさんが殴って、血が舞う。


 赤い絨毯に、少しだけ濃い赤色の点々が滲んでいく。


「…………え?」


「殺す、殺す、殺す。死ね、死ねよ、奥さんと子供がいながら女性社員に手を出しまくりやがって、クズ野郎が。なにが股を開けとは言わん、だ。どうせサシ飲みしたドリンクに睡眠薬か媚薬でも盛って、『そういう行為』を促すだけだろ……筒抜けなんだよ間抜けが」


 おねーさんの手が届く範囲に、カッターナイフが落ちていて……まずい!

 おねーさんが自殺しなくても、このままじゃ殺人者になっちゃう!!


「お、おまえ……こんなことをして、会社にい続けられる、と……?」


「思ってないわよ。もう全部スッキリした、だからどうでもいい……。高給を与えて、その贅沢な生活に浸らせた後に、辞められない理由を作って女を喰い物にする……、まんまとはめられたわよ。この会社を辞めたら、私は今のマンションには住めなくなる、毎日の贅沢もできなくなる……でもね、どうせもう関係ないの。だって私の生活は刑務所に変わるんだから……、そうね、贅沢はできないけど、衣食住は保証されているのかも」


「俺、を、殺す、つもりか――」


「楽には死なせない。痛みを与え続け――」



「おねーさんッッ!!」



 あたしの声におねーさんが振り向き……しまったっ、衝撃を与えたことで猫を被れなかったおねーさんがまともに戻った!


「いや……なにこれ、なん、これ、血がたくさんッッ!?!?」

「おねーさん落ち着いてッ、冷静に、そのナイフを置き」


「いやぁああああああああああああああああああああああああっっ!?」


 錯乱したおねーさんが部屋の窓を開けた。

 ……っ、最悪っ、これじゃあ殺人者以上の最悪の結果ににゃってしまう!!


「おねーさん、ダメッッ!!」

「もう終わらせる……全部」


 ふっ、と。


 飛び降りたおねーさんの姿が真下へ吸い込まれていく。


 窓から飛び降りたあたしは、十階の高さから落ちるおねーさんを追いかけ……しかし、速度が足りない。なぜならあたしの姿が、猫に戻りかけていて……ッ!


「嘘っ、早い!?」


 おねーさんに肉球を当てたから!? だから変身時間も短縮されて……っ。

 だったら。


 あたしは一瞬、迷う。もしも自分の肉球で人間時間を延長したら……、あたしは簡単には猫の姿に戻れなくなる――だとしても。


 このままおねーさんを見殺しにはできないッ!!


 ガンッ、と、手の平を額へ叩きつけるように。

 そして、猫へ戻りかけていた変身が止まり、人間の姿へ定着していく。


 壁を蹴り、駆けて、おねーさんへ手を伸ばす。


「おねーさんっ!!」


 残り五階、四階、三階――、


 届けッッ!!


 地面と衝突する寸前で……、おねーさんの体を抱きかかえられた。



「……おねーさん、無事!?」

「……ほしい」


「え、なに!?」

「癒しが、欲しい……」


「癒し!?」

「猫、もふりたい……」


「こ、この姿が定着した後で言わないでよもうっっ!!」





 あたしが猫の姿に戻れたのは、おねーさんと同居をしてから十年後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る