過食傷

M.S.

過食傷

 太っている人が、嫌いです。

 〝太っている〟という事は幸福の象徴、誇示であると思います。先ず、太るには〝二つの幸福〟が必要だと考えます。

 一つが、沢山の御飯を食べられる環境があるという事。

 もう一つが、栄養をよく吸収出来る消化器官を与えられているという事。

 さぞ豊かな居場所で育つ事が出来たと考えられます。

 街中を歩いていてふと、幸福が服を着たような太った人を見るとつい羨望とか嫉妬とか、色々綯交ないまぜになった眼差しを向けてしまいます。

 そしてそれに気付いた人は首をかしいで微笑を作り、「どうも」という感じで此方こちらに会釈をするのです。

 ────私が向けた悪意になんて、さっぱり勘付かずに。

 きっと今までに悪意を向けられた事が大して無いから、そういう事に無頓着なのかもしれません。恰幅かっぷくの良い人で性格が良くない人に、あまり会った事がありません。恐らくは、今まで順当に愛を受けて育てられてきた訳ですから、性根が歪む要因が今までに無かったのでしょう。

 成る程、詰まり脂肪とは要するに、やはり〝幸福〟そのものなのでしょう。

 であれば、女性の肉に一喜一憂する男性の気持ちも解らないでもないです。

 自分の胸部を片方触ってみると、それは瑞々しい弾力なぞ無い平らな盆地でした。少し強めに押すと、すぐに指先はあばらに到達してしまいます。

 それが、ほとほと悲しいのです。

 ふと自分を慰めるように、一方の手を他方の手で撫で回します。それが私の常同行動であって、自分と他のものとの間に壁を作りたい時に無意識でやってしまう防衛機制です。自分でも解っています。

 撫でていると、右の人差し指と中指の付け根辺りに炎症による赤みが出来ていて、それが血色の薄い白亜の床に零した赤黴あかかびとでも言うようでした。

 誰が、こんな針金のような女を好いてくれるのでしょうか。


────


 ある時、暇を持て余したので携帯情報端末から電子の海に潜って、精神病についての文献を漁っていた所、面白い文献を見つけました。

 題名は『精神疾患罹患者にける自己陶酔』というもので主に境界性人格障害の罹患者がしてしまう自傷行為について取り上げたものでした。

 、この病気の破綻した思考回路と気持ち悪い精神体系を如何いかに改善出来るかをネットで模索していた訳です。

 その文献の題名を見て、自己陶酔か、と思いました。

 確かに境界性人格障害────精神病患者がする自傷行為というのは〝可哀相に思って欲しいから〟〝構って欲しいから〟という心理が働いて他人のよく目に付く手首等に傷を作るらしいけれど────。

 違います。

 自己陶酔ではありません。

 私は、私のどうしようも無い、手の施しようが無い自分の馬鹿さ加減に呆れて自分を痛めつけているだけです。

 自殺に踏み込む勇気があれば、とうにそうしています。そんな勇気すら無いから自分を殺せない程度に自分を痛めつけるしかない。もうそこが既に浅ましくて、反吐が出そうで剃刀に手が伸びるのです。

 私は手首には絶対傷を作らない。痛みをひけらかしたりしない。

 私の葛藤を〝ボーダー〟という片仮名四文字で終わらせたくない。解った気で「大丈夫?」と声を掛ける偽善者の口の中をこの剃刀でずたずたにしてやりたい。それか自分の心が形を持って目の前に在ったなら何回も突き刺して心を殺し、不感症になりたい。

 そんな事は出来ないから、代わりに〝自分は周りに助けを求めてはならない〟と戒めの意味も込めて、自身の青白い俎板まないたのトルソーに、剃刀で傷を付けておくのです。

 けれど、きっとこの自傷行為すら世間では自己陶酔にカテゴライズされてしまうでしょう。

 傷を作る過程なんて、人の目には見えませんから。


────


「また、斬ってしまったの?」

 私が活用している学校の保健室、その牢名主ろうなぬしでもある養護教諭の彼が、保健室の扉を開けた私に背中を向けたままそう声を掛けます。

 何か、薬品棚の整理をしている所だったようです。

 保健室登校をしている生徒は私以外には居ないようで、それはそれで他の生徒と顔を合わせる事も無いから都合は良いのですが、逆に取ればそれは〝私以外の人間は忠実に学校をこなしている〟と言える訳です。そこに一握の悔しさと言うか惨めさを感じない訳ではないですが、それを考えれば考える程に自分の矮小わいしょうさがつまびらかになるので考えたくないです。

「別に、斬ってません」

 意地を張って、私はそう返します。

 これは嘘です。

 本当は、昨日、斬りました。けれど斬ったのは手首では無く胴体前面です。勿論今の私は制服を着ているので表面上から見てそれが解る術は無いはずだし、加えて今彼は向こうを向いているから私を視界にすら入れていません。薬品棚の扉に嵌め込まれた硝子がらす越しに、反射した私を見ているとしても、不可解です。

「嘘、吐いているね」

 それでも、何故か彼には解るようです。

 前に、彼が大学の教育学部在学中に独学で心理学も勉強していたと、訊いてもいない事を聞かされました。心理学を学んだ人が為せるわざなのか、しくは養護教諭養成課程には〝精神病持ちを見た時に、剃刀で何処を斬ったか瞬時に判断する能力〟を付ける事がカリキュラムに含まれているのでしょうか。

「仮にそうだとして、何だと言うんですか? 他に傷つけて良いものがあるなら、そっちを傷付けます。そんな都合の良いものが無いから、自分を傷付けるんじゃないですか」

「皮膚を斬る以外で、自分の傷付け方を探すべきだよ。体と心、どっちも傷付けるより、心だけ傷が付いていた方が、幾分ましだと思わないか?」

 彼の問いが終わるより先に、私はベッドに向かって布団を被ります。

「......五月蝿うるさい」

 普通にも特別にも、悪人にすらも成り切れない私の呟きは、彼に届かせる事無く、布団の中にくもって吸われていきました。

 彼の意味の分からない寄り添い方は────はっきり言って私の心にみ入ります。だからそれはそのまま不快なんです。

 私は彼を嫌いたいのに嫌いに成り切れずにいます。

 たとえるなら、喧嘩した友達と今後一切口を利かないと決意したは良いのに、次の日になってすんなり相手が謝ってきてしまい、拳を振り下ろす先を見失うとでも言うような。まぁ、私に友達は居ないのでこの喩えが当て嵌まっているか少し自信が無いのですが。


 昼食の時間のチャイムが鳴り、微睡まどろんでいると彼が給食を持って来てくれました。

「はい、どうぞ」

 そう言いながら、ベッドサイドに置かれたテーブルに給食の乗った盆を置きました。

「......どうも」

「うん」

 私の抑揚はらまない返事に対して、軽く手をあげてあしらう彼です。

 そんなぞんざいでおざなりな、養護教諭らしさの欠片も無い彼の対応に心地良さを感じてしまうのは何故でしょう?

 通っている精神科の看護師がするうやうやし過ぎて気持ち悪い笑顔より、丁度良い。

 家の自室よりこの保健室の方がよっぽど居心地が良いです。

 ────この瞬間に、この空間以外の人類が滅んで、彼と二人きりになれたら。

 なんて、そんな妄想をしてしまうくらいには。

 鬱病の症状の一つで、罪業妄想ざいごうもうそうというものがあります(文献を閲覧していた時に見つけた情報です)────それは〝自分は取り返しのつかない事をしてしまった〟と、実際にはそこまで大事でも無いものを大仰に捉えてしまう異常思考です。失敗をしてしまったので死ぬしか無い、とかそんな具合にです。その点から逆説的に考えると私はやっぱり鬱病ではないのです。

 だって。

 どうしても。

 どうしようもなく。

 彼と一緒にだなんて、ふしだらな考え事までしてしまうくらいなんです。そしてあわよくばそれを秘め事にして、私と彼で同じやましさを赤ん坊のように抱えたい。

 最近、寝る前の時間は人生の反省会なんかではなく、彼のくれた言葉を愛でる事が日課になってしまっています。

 罪業妄想じゃなく────韜晦空想とうかいくうそうという感じです。私は。

「その変にしといたら?」

「───え?」

 ほうけて────それこそ自己陶酔じみた思惑にふけっていると、気付けば彼は自身のパーソナルスペースである仕事机から立ち上がって私の側に来ていました。

 まさか私の気持ち悪い妄想を勝手に覗き見ていたとしたら業腹ごうはらです────だなんて、統合失調症患者がのたまうように思考が盗聴されているだなんて私は言いません。そもそも、母に無理矢理連れられた精神科で傲然ごうぜんたる医者が大して私の話も聞かずに私を異常者扱いして、解りやすいレッテルを貼ったというだけです。

 一瞬、彼の言は私の頭の中の妄執もうしつ穿うがったのかと思った事は否めませんが、そうではありませんでした。

「ご飯。君の場合、腹八分目でも多過ぎる。作ってくれてる調理員の人には申し訳ないかもしれないけど、残しておいたら? 少しでも食べ過ぎると────吐いてしまうんだろう?」

 やっぱり。

 彼はおかしい。

 可笑しい。

 可笑しいから普通に可笑わらってしまいました。

「普通真っ当な人なら、吐く事を止めさせようとして、食べる事を推奨するものじゃないですか」

「ん? ああ、確かに。そりゃそうだ。ははは、どうかしてたよ。気分を悪くしたかい? 悪気は無いよ、これでもおもんぱかったつもりなんだ」

「別に、気にしてません」

 貴方あなたのそういう所が好きなので────なんて続きを紡ぐ勇気はありません。それこそ幽鬼のような女に言われても困惑するでしょう。

 けれど、私は捻くれ者の臆病者の天邪鬼ですから────。

「それに、私は別に摂食障害ではありませんから」

「ふぅん、そうなのかい?」

 私の言葉に、彼は特段それをあげつらおうという気を起こした訳でも無さそうに、そう言って流して見せました。

 確かに、手の甲に吐きだこみたいな発赤ほっせきの化粧をして言っても説得力は無いのですが。

 捻くれ者の臆病者の天邪鬼の私は────。

「私の口腔を、確認してみたらどうですか?」

 そう彼に提案しました。

 摂食障害のというのはその痩身に関してもそうですが、その他に手の甲と歯にもそれが現れます。前者は食べ過ぎた罪悪感から嘔吐を誘発する時、手を喉に挿し入れる際に手の甲に歯が当たってしまう事、後者の歯というのは、食道から上がってきた酸性の胃液が歯を酸蝕さんしょくしてしまう事がそれぞれ原因だそうです。

「じゃあ、見せてみなよ」

 意図を察した彼は、挑戦的とも言える私の提案に乗っかって、給食のお盆を置いていたベッドサイドテーブルを退かし、私の目線に屈みました。

 私はおとがいを上に向け、彼を待ちました。そんな姿勢のまま、開眼しているのは少し間抜けと思い────いや、そんな照れ隠しは稚拙ちせつ過ぎます。閉眼すると、自分がまるで挑発的に口吸いを待つような体勢になっていると気づき、今更ながら恥じ入ってしまったのです。

 彼は、既に上を向けている私の下顎の先を、更に上に向けるようにぐいっと持ち上げる意地悪をしました。彼からすれば意地悪のつもりでやった訳ではないのでしょうが────いや、やはり意地悪だったのかもしれません。

「っ......」

 お陰で少し、媚びるようなくぐもった声が出てしまったのは、閉眼していて彼が触れるタイミングを計れずに息張る事が出来なかった所為せいです。決して婀娜あだっぽく見せようとか、健気な気持ちがあった訳ではありません。

 次に彼は私の下顎を下方に押すようにして、私を開口させました。少しすると、視認するだけでは飽き足らなかったのか、指を口腔内に侵入させ、歯の裏を撫弄ぶろうしてなぞるように触診していきました。

 その際、彼の爪先が口腔粘膜を何度か掠めたので、私は堪らずにぬるい呼気を漏らすと、彼はすっと素直に指を引っ込めました。

 ふぅ、と息を整えた後、私は彼に訊きます。

「所見はどうでしたか」

「成る程ね。斬りはしても吐きはしてないみたいだ。......てっきり手の甲のそれは吐きだこだと思っていたよ」

 彼は何も感じていない風にそう答えます。まぁ、実際何も感じていないのでしょう。

 ももの肉付きが悪いからといって、スカートをたくし上げるのではなく口腔粘膜を晒すような女です。そんな女に感じるものなんて、やはりあるはずもないでしょうね。


────


 そんな保健室の深窓しんそうに隠れるような過ごし方で一学期は終わってしまいました。

 深窓、というとなんだが私が俗世間から隔絶された場所で穢れを知らずにはぐくまれたというような意味合いに聞こえてしまいますね。誤解を解くためには深窓の令嬢ならぬ深創しんそう冷笑れいしょうと言うべきでしょう。この冷笑というのは勿論私がするそれではなくて、周りの生徒が私に向けるそれです────。

 閑話休題。

 一学期を終えた私には目下もっかに問題がありました。

 それは夏休み。

 夏休みという事は学校に登校する義務が無いという事です。言うまでもなく部活動には所属していませんし、友人も居ません。

 時間を潰す術が無いのです。

 必然、消去法的に自宅で過ごす事を余儀無くされる訳ですが────余儀が無い程度で自宅に居続けようとは思えません。

 精神的苦痛が伴うのです。

 比較的良好な家庭であれば、皆さん自宅で思い思いに過ごすでしょうが、こと私の家に関して言えば中々そういう訳にもいきません。

 まず、自室に電灯がありません。

 これは母が電気代の無駄という名目で取り付けてくれないのです。夜に月の明かりを頼りにして勉学に勤しむ程私はうぶではありません。

 シャワーの水音を出すと浴室内に入って来て水道代の無駄だとなじられます。流石に不衛生なので入るなとまでは言われませんが。

 最近では食費の催促もはばかられる程に暴力を振るわれる事も増えました────今年の夏休みはアルバイトを探すのも良いかもしれません。出来るものがあればですが。

 出席日数稼ぎに教室へ登校した時(本来は保健室へ登校するのではなく、教室に登校するべきですから、この言い方は可笑わらえますね)、クラスでこんな話を耳に挟みました。ある女子が、別の女子に〝母の日に造花のガーネットをプレゼントした〟と話していたのを聴きました。

 私は、そんな事をしては母親に殴られはしないかと危惧したのですが。

 〝一生の宝物にするって、喜んでくれたよ〟

 ────母親が子供を殴らない家庭というのもあるらしくて。

 つい、私はその日に保健室で食べた少ない昼食をその場で吐瀉としゃしてしまいました。

 私の母親であれば、私の喉を花瓶に窒息するまで彼岸花を挿し込むところです。

 とまぁ、私の家で起こっている現在進行形の不可逆的進行性な不和に関しては枚挙まいきょいとまが無く、その内容をつづればそれこそ本が一冊出来てしまうような有様ですので不幸自慢はこの辺にしたいところです。

 不幸自慢というのは為にやる、という側面もあるのですが。

 不幸以外に何も無い人間というのは、その不幸自体を自身のアイデンティティにしたがる、という心理が働いてするものでもあると思うのです。

 そういうお話も掘り下げてお伝えしたいですけど、止めておきます。理解出来ない人には一生理解出来ない心理機序ですし、理解出来てしまう人には説明するまでもない事です。

 まさしく、事実は小説より奇なり、ですね────いや、奇なんかでは足りなくて、最早もはや、哀しき事実は小説よりなり、と私は言いたいです。

 私の視点で何か一つ、物語が語られるというのなら、それは幻覚に囚われる心失者の譫言うわごとと何ら変わりは無いのでしょうね。


────


 修了式があった日の夜、寝床で、生きている事に対する懺悔もそこそこに明日からの────一番精神的負荷が軽い夏休みの消費の仕方を考えていたのですが、中々良い案は浮かびません。

 そもそも夏休みとは家庭内に不和が生じている生徒を考慮した前提で作られた訳ではないのですから、良い案など考え付かなくて当然です。良い案など元々無いのかもしれません。逆に、公立学校が「全校生徒の中で家庭に居場所の無い生徒も居るだろうから、夏休みを短縮しましょう」なんて言い出したら自治体の昨今にける地域の家庭事情の認識がれ過ぎです。私の立場でも、世も末だと思うでしょう────末なのは私だけです。

 私だけが終わっています。

 だから、周りの人達を羨む────羨むなんて言い方は奇麗過ぎますね、ねたみです。環境や周囲に対して勝手にやっかむのは筋違いだし、一夜の間に夏休みが過ぎて欲しいと思うのも私の怠慢です。

 実際的な話、周りをうとましく思うより自分が消えた方が早いという話は身も蓋も無いようではあっても箴言しんげんではあると思います。

 仮に私が自室で蒸し焼きになって乾涸ひからびて熱中症になろうとも世界には何の影響も与えません。与えられません。死んでまで構って欲しいとも思っていません。死ぬ事で周りが構ってくれるようになるなんていうのは皮肉が過ぎます。まぁ火葬したら皮も肉も残らないのですが。案外皮肉骨髄ひにくこつずいという言葉は私みたいな人間が考え出したのかも。どうせ違うでしょうけど。

 全ての道がローマに通ずるように、全ての不智が鈍間で貧ずるのです。私の場合は。

 ────いけませんね。

 夜半と微睡という組み合わせは私にとって十分致死です。よく寝る前はこうなってしまいます。

 けれど、進歩したとも思いますよ。

 小さい頃はこの時間、母親に殴られないように、明日はどのように媚びを売るかを考えていましたから。

 それを基準に考えれば、十分な、進歩です。


 良い時間の潰し方を考え付く事の無いまま朝を迎える事になりました────と言ってもゆっくりしてはいられません。親が起床する前には外出しておきたいところです。顔を合わせるのも────足音を聴く事も、辛いです。

 今はもう無意識でやってしまう抜き足差し足忍び足でリビングのソファーでいびきを出す母親を尻目に、母親の自室にある財布から一万円拝借(返す気は無いのですが)して、朝日が寝ぼけまなこくゆる中────結局、学校の図書室へ向かう事になりました。

 夏休みと言っても先生までもが夏休みな訳ではないし、部活動の生徒らも居るので学校は開放しています。こと図書室に関しては騒がしいやからからすれば用事の無い場所ですし、長期休暇中であれば尚更なおさら人が訪れる事はないだろうという読みです。

 して、その読みは当たっていました。私のような物好きは他に一人として居ませんでした。

 冷房の電源を付けて、その冷気が図書室を満たす間にどの本で時間をつくろうか物色します。

 新たに取り寄せた新刊を並べる本棚に、流行りの恋愛小説が置いてあったので手に取りました────。


 そして、止めておけば良かったと思いました。なぜかと言えば、その小説に登場する女性が失外套症候群しつがいとうしょうこうぐんで死亡してしまったからです。

 この悲劇の物語は私に気付きを与えました。

 暗示的、寓意ぐうい的と言うまでもなく、それは直截ちょくせつ的に、私には感じました。

 ────孤独。

 自分の未来を予知されたような気分になりました。

 自分が終わっているのは解っていました。

 けれど、自分で思い込むのと、他の物から「終わっている」と突きつけられるのでは、少々差異があるようです。自分で思い込むのは防衛機制で、突きつけられるのは攻撃されるという事です。

 この女性は最後に病床でパートナーの男性に謝意の言葉を遺しましたが、私は何を遺せるのでしょうか────否、遺言を聞き届けてくれる人が居るのでしょうか?

 現実逃避の手段として手にした本に打ちのめされ、気付けば私は図書室の机に頬を付けて泣いていて、そこから夏の空を見上げていました。


 日が暮れなずむあたりまでそうしていたと思います。

 本を読む人なら解ると思うのですが、喪失感が伴う物語の場合、悲しくて寂しくて何も手につかなくなってしまって打ちひしがれてふさぎ込んでしまう事があります。

 過剰な感情移入と言えば解りやすいでしょうか。私の場合、それが顕著な感じがします。

 窓からグラウンドを覗くと運動部員が地面にトンボを掛けてならしていました。

 私もいつまでもここに居る訳にはいかないので、学校を出ました。

 時刻は十八時、まだ自宅に帰る気にはなれない時間帯なので、近くのファストフード店へ入り、夜食兼時間潰しです。

 元々図書室で本を借りて(図書委員が居ないので無断持ち出しになってしまいますが)、それで時間を潰そうと思っていたのですが、読書に勤しめるような精神状態ではなくなってしまった為、ドリンクを二口程すすって、壁にもたれて目を閉じました。


────


 そんな風に一週間が過ぎた頃。

 頭が可笑おかしくなってしまいました。

 人が恋しくなってしまった訳です。

 自然に、必然に、頭に浮かぶのは養護教諭の彼の事でした。

 彼に再逢さいおう出来るのが少なくとも一ヶ月後と知った時────私は振り切れて狂うしかありませんでした。

 悪いでしょうか?

 食傷しょくしょう気味の毎日に辟易へきえきして、世間から隔絶されたような気持ちになって、将来が不安になって、自己嫌悪に陥って、無為で多大な時間の奔流ほんりゅう翻弄ほんろうされて、フィクションに胸を締め付けられて、精神的に弱っている時に彼の事を思い出して気が狂ってしまう事は悪い事なのでしょうか?

 その工程の最中さなかでつい────自戒を破って、胴体ではなく手首に剃刀を当ててしまうのは悪い事でしょうか?

 もう自分でも止められません。

 始業式の日は教室ではなく保健室に行かせてもらいます。

 見て欲しくて。

 観て欲しくて。

 診て欲しくて。

 魅て欲しくて。

 後、貴方に逢えるまでの三十日と言う、一生とも言えるような懲役の中で毎夜半に、私はこの気持ちを心と身体に篆刻てんこくするよう手首を斬るのです。


────


 その後、三十日の苦行をやりおおせた私は確かに幽鬼のようでした。いや、幽鬼の方がまだ可愛げがあったかもしれません。かすかな鬼ですから。実存じつぞんしていないだけ、幽鬼の方がまだましです。実際にそんなものが居れば、唯々ただただ気持ちが悪いだけですから。

 気持ち悪い私は────片方の前腕に十五のきず、計三十の斬り創を両腕にぶら下げて校門を潜り、足音を響かせて保健室へ直行します。

 がらっと音をけたたましく鳴らし、引き戸を開きます。

 見える右斜め前方の机に彼は────想い人でもあり、私をこんな風にした犯人は、私の心を勾引かどわかした罪を自覚せずに、そこに腰掛けていました。

「やぁ、おはよう。夏休みは────」

 軽々な彼の挨拶を遮るように私は、彼の前に両腕を差し出しました。

「────............」

 すると彼は顔を強張らせ、私を見上げました。

 それはなんだか、いつもは中庸ちゅうように徹して、のらりくらりとしているような彼に一矢報いたような感じがして、少し胸が満たされたように感じます。

見観診魅て下さい「貴方の所為です「貴方が私に優しくしたから私は可能性を考えてしまいました「どうしてくれるんですか「貴方が居なければ私は私のままで居られました「夏休みに私がどんな思いで────どんな想いで過ごしたか解りますか「解ってくれますか「さっきは何て言いかけたんですか?「〝夏休みは楽しく過ごせたか〟......ですか?「最悪でしたよ、これ以上無いくらい「現実でも空想でも逃げる場所なんて無くて────。


「貴方にもらった言葉が頼りでした。


「貴方がそんなだから「貴方がそうじゃなければ私はきっと強いままで居られたのに「〝頭の可笑しい気狂きちがい女だ〟って罵って一蹴いっしゅうしてくれれば私は不感症のままで居られたのに......


「もうどうすれば良いか解りません、何とかして下さい」


 まくし立てるように言うと、保健室の中には私の弾んだ息を吐き出す音がこだまするようでした。

 彼は立ち上がり、私の肩に手を置きます。

「......横になろう」

「病人扱いですか」

「立派な病人だよ。顔が赤いし熱っぽい。横になった方が良い」

「そうなんでしょうね。頭を冷やす為に────可笑しくなった頭を冷やす為にそうします」

「誰かに頭が可笑しいって言われたのか?」

「......」


 思えば彼は、私が入学して保健室でお世話になるようになってから精神科を勧める事はありませんでした。あくまで私は彼の中で〝精神疾患〟ではなく〝整形外科疾患〟として見てくれていたのでした。

「横になりなさい」

 言われるがままに私はベッドに横になり、言われるでもなくブラウスの前を開くと彼は、

「これは、一仕事だね」

 と、稚児ちごの悪戯を見つけた時のような慈顔と共に笑って見せたのでした。

 保健室に足繁あししげく訪れる私を気狂いではなく────転んで膝を擦り剥いて泣く幼児を慰めるようにする────それの、どれだけ嬉しい事でしょう。

 私の心を計算して先回りしているのか、素でやっているかは知りませんが、私にとって彼の言動はやはり覿面てきめん過ぎました。

「先生」

「何?」

「結婚して下さい」

「そんな事言われたら、手元が狂っちゃうな」

「狂っても、良いですよ」

「......じゃあ賭けをしよう」

「?」


「卒業までに君が自分を創付きずつけなかったら、結婚してあげる」


 次は三十日では無く、二年と半年と聞かされ、私はどう思ったかというと────。


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