髪を切る
上海公司
第1話
少しだけ重たさのあるガラス張りの扉を押し開けると、カランカランと耳に心地よい音が僕を迎え入れてくれた。
「いらっしゃい、ちょっと掛けて待っててね。」
美容師の久田さんはいつも通りの優しい口調で僕に言った。僕は、はい、と返事をして左手にある椅子に腰を下ろす。
「それでね。第一志望の大学落ちたからって浪人するって言い出してな。」
「ほんとぉ?浪人って大変やんな。その間塾とか通うん?」
久田さんは先客との会話に戻った。その間もチョキチョキとハサミを手際良く動かしている。僕は手元にあった雑誌を手に取り、ヘアカタログをいくつか眺めてみた。ヘアモデルの顔がカッコ良いので、とてもカッコ良いとは言えない自分の顔にはどの髪型も似合わないような気がする。
「どうせなら国立に行ってほしいやんな。」
「学費払わなかんのは親やからねぇ。」
久田さんと先客の女性はアハハハと声を出して笑った。私立大学に通い、留年までしてしまった自分には耳の痛い話だった。
「おまたせ。どうぞー」
久田さんに呼ばれ、僕は顔を上げた。先客の女性は店を後にするところで、髪を切るためのその席は僕のために開けられていた。
「どのぐらい切りましょう。」
僕が席に座ると、久田さんは散髪エプロンを準備しながら尋ねる。
「前髪はあまり切らずに、後ろと横は短めで。」
久田さんはいつも大体これだけで思った通りに切ってくれる。霧吹きで僕の髪を濡らし、櫛ですき始める。
僕が初めてこの美容院を訪れたのは中学3年生の時だった。それまでは家の近くの床屋に通っていたのだが、クラスメイトに教えられて初めて「美容院」を訪れた。店に入るのに緊張して、店の周りをぐるぐるとした覚えがある。
その時も今と同じように、鏡に映る自分を見ながら久田さんに髪を切ってもらった。当時の僕はこれからの事に期待していたような気がする。中学卒業を目前に控えて、これから夢を追いかけて、「すごいやつ」になるために青春を謳歌していくんだと、胸が高鳴っていた。だが結局、「すごいやつ」というのがどんなやつなのか具体的な事は何一つ分かっていなかったし、青春というものの実体が何なのかも分からないままここまで来てしまった。
「ソフトモヒカンとかにしなくていいの?」
久田さんは半笑い気味で言う。
「しませんよ。」
いきなりの提案に度肝を抜かれながら僕は答えた。
「いっつもおんなじような髪型やから、変えんでいいのかなぁと思って。」
「髪型、あんまり変えたくないんですよね。彼女にも今のが似合ってるって言われたんで。」
そう言うと久田さんは驚いた顔で歓声を上げた。
「彼女出来たん?」
「はい。」
僕は小さく頷いた。
「同い年?」
「年下です。」
「いくつ?」
「19歳です。」
「19歳って言ったら結構離れてるやん。あんたもう大学4年でしょ?」
「はい。」
本当の事を言うと彼女の年齢はもう二つばかり下であったが、それは口にはしないでおいた。
僕は耳元でチョキチョキと歯切れの良いハサミの音を聞いた。彼女の話が出ると自分でも気付かぬうちにズボンのポケットに手を伸ばしていた。どうせ彼女からの返信がない事は分かっているのに。
昨日の朝彼女に連絡してから、返事が一向に返って来ない。返事が遅いのはいつもの事のはずである。高校生と大学生、置かれた立場も違うのだし、生活のルーティンも違う。ラインを目にする回数だって違う。分かっているはずなのに、何故だか最近すれ違いが多いと感じてしまう。僕は内心イライラを募らせていた。年下の彼女にではなく、こんな事で気持ちを乱してしまう自分にだ。本心を言えば、僕は年下の彼女の前では大人で、イケてる男でありたかった。しかし大した女性経験のない自分にはそんな事できるはずもなく、結局こんな些細な事で気持ちを乱してしまう。僕の彼女は言うなれば実体のない青春を今まさに謳歌している。部活や勉強を一生懸命にやり、やりたい事を決めて自分の道を歩んでいる。対する自分はどうだ?大学が春休みに入ってから、ただ惰眠、惰眠の毎日。企業説明会とかもっと積極的に参加すればいいのに、それすらせずにただ自分が腐っていくのを感じるだけだ。ただ、僕だって別にやりたい事がないわけじゃない。そんな言い訳をしてみるが、今の僕の生活はあまりに生産性がないように感じる。
僕はこの「生産性」という言葉が嫌いだ。なんだか自分の本質を突き詰められているような気がしてどきりとしてしまうのだ。「生産性が高い」とは多分「短時間で価値のあるものを作る事、または価値のある事をする事」を言うのだと思う。
では価値がある、とはどんな事を言うんだろうか。どこかの企業に入って、役職について、お金をたくさんもらって、多勢の人を動かす。それは価値がある事だろうか。きっとそこに価値を見出せる人が就職活動で成功していくんだろうな、とぼんやり考える。ただ僕はそこに価値があるだろうかと疑ってしまう。どれだけ高い役職についたって、代わりの人間は必ずいる。会社に入って唯一無二の存在になろうなんて無理な話だ。だけどこうやってぐだぐだと社会批判をして、現実逃避をして、年下の彼女を羨ましいと思って、青春の残り香を追いかけている僕はさしずめモラトリアム人間というやつだ。そう、モラトリアム人間だ。
自分の黒い髪がエプロンの上にふわりと落ちていくのを見た。自分の体から離れた黒髪の束はもう僕の一部ではない。それと一緒に、何かが僕の身体から抜けていくような気がした。
「もうすぐ卒業でしょ?大学出たらどうするの?」
久田さんの言葉が胸に刺さる。
「僕、一年留年するんです。」
「ええ??そんなん?」
「はい。」
「じゃあ今から就活?」
「はい。」
「そーなんやぁ。せっかく彼女も出来たんやし、しっかりせなあ。」
久田さんは母親のような事を言った。実際に母に同じ事を言われたら、そんな事わかってるよ、と反抗心を抱くだろうが、親でも親戚でもない久田さんに言われると、本当にしっかりしなければならないという気持ちが込み上げてくる。
「サークルでやってたダンスの先生とかにはならんの?」
「なりませんよ。」
ブーン、と電動カミソリの音がして、うなじに硬い感触を感じる。カミソリを当てられると毎回、切れてしまうんじゃないかと思って緊張してしまう。
作家になりたい。そう思ったのは去年の6月、就職活動の真っ只中にいた時だった。大手証券会社の二次試験が通らず、お祈りメールをもらった時に思ったのだ。あれ、おかしいな、悔しくない。別にこの企業に入れなくても良かったんだな。それから少し頭を空っぽにして考えてみると、自分のやりたい事は意外とすんなり見つかった。作家になりたい。自分だけの、自分にしか書けない文章で誰かの心を動かす事が出来たとしたら、それはとても価値がある事なんじゃないだろうか?
「ワックスつける?」
久田さんが尋ねる。
「お願いします。」
と僕。久田さんは両手にワックスを馴染ませると、僕の髪にそれを付け、丁寧に毛束を作り始めた。
6月以降は執筆活動に励んだ。書き始めてみると、意外と話は進むもので、やっぱり自分にはこの道があってるんじゃないかと思ったりした。もしかしたら自分は長い間、頭の中で物語を綴り続けていたのかもしれない。そんな事を本気で信じられるほどに僕は本を書く事に夢中になった。だけどそんなのは幻想であった。応募した作家賞の一次審査にも通らなかったと知ったのはつい2日前のことだ。勝手に自信を持って、期待していた自分に、一次審査落選という事実はそっと教えてくれたような気がした。
違うんだよ。勘違いしちゃあいけない。君はそんなにすごい人間じゃないんだよ。
そんな風に教えてくれた気がして妙に腑に落ちるところがあった。そうだった。そうだった。「夢」というものを叶えられるのはほんのひと握りの人間だ。みんなそこに折り合いをつけて生きているんだ。自分もしっかりしないと。
「こんなもんでいかがでしょうか?」
久田さんの声にはっとして、僕は顔を上げた。そこには前髪は少し長いままに、スッキリした髪型の僕の顔があった。
「後ろはこんな感じ。」
そう言って久田さんは僕の頭の後ろで2面鏡を開いた。
「はい、大丈夫です。」
僕はそう言った。
髪を切るとは不思議な事だ。まるで少しだけ時間が巻き戻った心地がする。ほんの数ミリグラム軽くなっただけなのに、気持ちの方は随分と重さがなくなったような気がする。散乱した黒い髪には、何か暗くて後ろめたいものが宿っており、ついさっき久田さんの手によって僕の身体から切り離されていったように感じる。
「御無礼致しました。」
「ありがとうございました。」
僕は立ち上がってレジへ向かった。
「2000円でいいよ。」
「いつもありがとうございます。」
久田さんはいつもおまけしてくれる。
「いえいえ、帰り、気をつけてね。」
久田さんはそう言って僕を送り出してくれた。
少しだけ重たさのあるガラス張りの扉を押し開けると、カランカランと耳に心地よい音が僕の背中をそっと押してくれたような気がする。
髪を切る、とは不思議な事だ。なんだかそれだけの事で、物事は良い方向へと進んでいくんじゃないかと感じる。もしかしたら年下の彼女はお世辞でもカッコいいとか言ってくれるかもしれない。今机に向かったら、もしかしたら素敵な物語が書けるかもしれない。
もう少しだけ夢を追ってみようか、僕はそう思った。もしかしたらまた、前に進めなくなるかもしれない、そんな不安も少しだけよぎった。そうだ。その時はまた髪を切りに来よう。そうして少しだけ時間を巻き戻して、また前に進むんだ。
髪を切る 上海公司 @kosi-syanghai
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