ハットランド国の憂鬱

砂花きりん

第1話

ホテルのロビーを出ようとしたら、コンシェルジュに呼び止められた。


「ミスターカトウ。その先はパブリックスペースでございます」


何事だろうか。公共の場に出ることに、何か不都合でもあるのだろうか? 


「あなた様は外国からのお客様でいらっしゃいますね。失礼ながら、お帽子をお忘れなのでは?」


コンシェルジュの男は、うやうやしく私に言った。


「おっと、これはうっかりしていた」


私は思わず頭に手をやった。そうだ、忘れていた。この国では外出時には帽子が必要なのだ。



ハットランド共和国に、新しい大統領が誕生したのは、数か月前のことである。


新大統領は就任と共に、いくつかの新しい法律を制定したそうで、

中でも世界的に注目を集めたのは、新大統領の肝いりで制定されたと言われている「ハット条例」だった。


この法律は、この国は公共の場では、いかなる場合でも帽子を被っていなければならない、という一風変わった規則なのだ。



「何という事だ。私はまだ帽子を手に入れていないのだよ」


ほとほと困り果て、自然と泣き言がついて出る。この国に着いたら、帽子が必要なことは知っていた。だが、現地で調達すれば良いくらいに軽く考えていたのだ。


「帽子がないのでしたら、お出かけは無理でございます」


コンシェルジュの男が膠もなく言い切る。


「絶対に無理なのかい?」

「ええ、法律ですから」

「ほんの数分、そこいらに帽子を買いに行くだけなのだよ。見逃してくれたら有難いんだがなぁ」

「ミスター、それは絶対におすすめ致しません」


男の顔つきがみるみる変わった。


「新大統領の下では、たとえ外国人であっても、条例違反者は厳しく罰せられます。だいたい帽子もお持ちでないのに、あなた様はどうやってこのホテルまでたどり着けたのですか?」


彼は、私のことをあやしい奴とでも思ったのか、じろじろと眺めまわした。


いやいや、こちらには、お宅のホテルのリムジンでやって来たのだ。

ただ、空港からのリムジンは自動運転、ホテルでのチェックインはロボットが受付と、全てが無人化、自動化されていたので、誰かに咎められたりなどしなかった。

言うなれば、この国の技術力のおかげで、ここまでたどり着けたのである。


「うーん、たまたま誰にも出くわさずに済んだんだよ」


男は、まだ疑わし気に私を見ている。


私はしばらく悩んだ末に、そうだ! と思い立ち、意を決して口を開いた。


「仮にだよ? 仮に私が帽子を被らずに、このまま表の道路を歩いたとしたら、どうなるのかね?」


どうせ明日も明後日も必要な帽子だ。もしも罰金がたいした額でなかったら、今から帽子屋を探してひとっ走り、表の道路を駆けてこようと思っていた。


「馬鹿な考えはお止め下さい!! 監視カメラがすぐにもあなたを見つけて、数分以内にハット特別部隊がやって来ますよ!!」


男の声は悲鳴にも近かった。


「ハット特別部隊??」


私がその名を復唱すると、彼はコクリと頷いた。


「お客様、これは親切で申し上げているのでございますよ」


彼は私の耳もとに顔を近づけて、声をひそめて語りかける。


「ハット特別部隊を甘く見てはなりません。彼らは大統領の直属で、捕まった者の中には拷問を受けて、気のふれてしまった者もいるのです」

「なんだって? 拷問だって?」


男は「しっ」と唇に指をあてて、私の言葉をさえぎった。


「用心して下さい。今やこの国の全ては、新大統領に掌握されているのです。彼は天才的な頭脳を持つ特別な御方なのです」


男はそう言って、すばやく辺りを見回した。そして、自分たちの他に誰もいないのを確認すると、右手の人さし指を一本、すっと立てた。その人差し指の先端で、何もない目の前の空間に正方形を描き始める。


「何をしているのだい?」

「私のコンピューターを起動させています」

「え、空中に?」

「そうですよ。これは新大統領が発明して国民に普及させた最新の技術です。これくらいのことはこの国では当たり前です」


男が指先で空間をたどると、仕切られた領域の中に、普段より見慣れたインターネットのwebサイト画面がこつぜんと姿を現した。


「私たちが、これほどまでに新大統領を支持するのには、いろいろと根深い、この国の事情があるのです」


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