終章 月宮館へ

episode1

「わざわざ、来てもらって悪かったね」

「いえ、夏休みで時間を持て余してたんでちょうどよかったです」

 約束の時間に尋ねると、白衣姿の伊集院がいつもの人懐っこい笑顔で出迎えてくれた。診療中は眼鏡をかけているようだ。

 黒ぶち眼鏡をかけた伊集院は、なんだか俺の知っている伊集院とは別人のように見えた。

「落ち着いて見えるだろ? この仕事は信頼が一番だからね」

 眼鏡をくいっと上げながら、伊集院が言った。

「似合ってますよ」

「やっぱり?」

 俺はクスリと笑い、「今日はもう終わりなんですよね」と尋ねた。俺たち以外、誰もいない待合室。淡いブルーの壁紙を見上げながら、俺は前と同じオットマンに腰かけた。

「ああ、今日の診療は午前中だけだからゆっくりしてって。隼人は仕事?」

「はい。今日は図書館に新システムを導入するらしくて帰りが遅くなるそうです」

「そりゃ、大変だ。うちも、業者から電子カルテの導入を勧められてるんだよね。高いんだ、これが」

 伊集院が口をへの字にして肩をすくめてみせた。

「前と同じハーブティでいい? ちょっと待ってて」

「ありがとうございます」

 奥の部屋に入っていく伊集院の背中を見送り、俺は向かいの壁にかけられた壁時計を見上げた。静かに時を刻み続ける秒針を見つめながら、今朝かかってきた伊集院からの電話を思い出す。

 最後に会った日からすでに三週間が経っていた。あれから二度程治療のために通っていた柊――不摂生を重ねていたために伊集院からこってりしぼられたらしい――を通して「会いたい」と伊集院に意思表示していたのだが、仕事の都合でなかなか伊集院の時間が取れず、ようやく今日「二時に会えないか?」と連絡がきたのだ。

「なかなか会えなくて悪かったね」

 奥で白衣を脱いできたらしく、薄いピンクのシャツにネイビーのパンツ姿の伊集院がティーカップをのせたトレーを持って戻ってきた。

「いえ、こっちこそ忙しいのに無理いってすみません」

「学会が重なってね。それに、この不景気による患者の激増でオーバーワークの毎日だったよ」

 疲れた声でそう言うと、伊集院は俺の前にハーブティの入ったティーカップを置いた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、慣れてるよ」

 伊集院はニコリとほほ笑むと、

「どうぞ。カフェオレも美味いけど、これもなかなかだろ?」

「はい。これ、ブレンドしてますよね?」

 ティーカップを手に取り、口に運ぶ。今回は味わう余裕があるせいか、前飲んだ時には気付かなかったわずかな柑橘系の味を感じることができた。

 ホッとひと息つくと、「うち特製のハーブティ、気に入ってもらえてよかった。使ってるハーブは、セージにセントジョーンズワート、ジャーマンカモミール、それにオレンジピール。このオレンジピールがないと飲みづらいかもな」と伊集院が言った。

「落ち着きますね、これ」

「だろう? 試験前に飲むと効果的だよ」

「もっと前に教えてほしかったです」

 苦笑いを浮かべる俺に、「確かに」と伊集院が笑った。

「ところで、隼人の調子はどう?」

 持っていたティーカップを伊集院は静かにテーブルに置いた。

「まだ、うなされて夜中に起きることがあります。前よりだいぶ減りましたけど」

 手元のティーカップに視線を落としながら俺は言った。

「薬は?」

「伊集院さんの指示通り、徐々に減らしてます」

「それならいい。かなり強めの薬だったから、ね。――君は、大丈夫?」

「はい」

 力強く頷く俺に伊集院は表情を緩めた。

 俺も柊も簡単に楽になるとは思っていない。自分の中の気持ちをいくら受け入れることができたとしても、あの悪夢のような現実をなかったことにはできない。その現実を受け入れるには、もう少し時間が必要だということを俺も柊も十分理解していた。

 俺はティーカップをテーブルに置くと一旦座り直し、「ひとつ聞いてもいいですか?」と向かいに座る伊集院を見据えた。

「いくつでもどうぞ。時間はたっぷりあるからね」

 俺は伊集院に軽く頭を下げ、口を開いた。

「伊集院さんは、この仕事をこれからも続けていくんですか?」

 柊を救うためにこの仕事を選んだ伊集院は、柊が苦しみから解放された時、自分も解放されると言った。

 他人の抱えた闇を診るこの仕事。よほどの強靭な精神力がなければ、その闇にのみ込まれかねない。それを自らも闇を抱えながら、伊集院は十年という長い年月他人の闇と向き合ってきた。

 柊のために――。

 伊集院の言う解放とは、いったい何なのか。それがずっと気になっていた。

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