episode5

 静まり返った室内。

 俺は伊集院が再び語り始めるのを静かに待ちながら、想像を絶する伊集院の話に非日常の世界に放り込まれたような錯覚さっかくおちいっていた。

 ――これは現実なのだろうか。

 何故、ごく普通の、誰もが持っているような幸せを望んでいただけの彼らがこんな理不尽りふじんな目にわなければいけないのか。こんな残酷ざんこくな現実が本当にあるのだろうか。もう少しすれば目覚まし時計のベルが鳴り響き、俺はこの夢から覚めるのではないか。

 本当は伊集院は内科医で柊が喘息ぜんそく持ちであるとか、皮膚科医で柊に慢性的まんせいてきな皮膚の疾患しっかんがあるとか、実は医者は医者でも歯医者で柊は差し歯だったとか、そんなごくありふれた現実が待っているのではないか。

 俺は泣きそうになるのを必死でこらえながら、祈るように目覚まし時計のベルが鳴るのを待った。早く、早く、とく気持ちだけが空回からまわりするだけで、どんなに待っても目覚まし時計のベルは鳴らず、俺はこの悪夢から目覚めることはなかった。


「悪夢を見るそうだ」


 それはまるで、死の宣告せんこくをするかのような絶望ぜつぼうただよわせた声だった。

 伊集院は目元を手で押さえながら、「悪夢と言っても俺たちに現実に起こったこと、なんだがな。――毎晩、あの日の夢を見るそうだ。春菜の乗った車がトラックに衝突する夢を。……俺は一度だけ、見たことがある。アイツの部屋に泊った時に。耳をふさぎたくなるような悲鳴を上げて飛び起きるアイツを。そして、むせび泣くアイツの姿を」そう言って天を仰いだ。

 伊集院の告白を聞きながら、俺は泣いていた。自然と涙があふれ出ていた。

 愛していた女性の死をの当たりにしただけでも死ぬほど辛いことなのに、それを毎晩、身を引きかれるほどの苦しみを毎晩のように柊は――。

 その柊を、なにも知らなかったとはいえ俺は傷つけてしまっていたのだ。不用意なことを柊に言ってしまったか、してしまったか分からないが、そんな俺になにができるというのか。自分のことしか考えられない、この俺に――

「もう、嫌だ。こんな自分……」

 俺は両手で顔をおおった。

 変わりたいと願う気持ちも、柊のことを知りたいと思う気持ちも、結局は自分のことしか考えていない。柊の気持ちを少しでも思いやったことが、俺にはあるのか。

「いいんだよ、それで。三澤くんの人生なんだから。君は前を進むことを選んだ。隼人とともに。それをどうするかはアイツが選ぶことだ。――自分の気持ちに素直になる、ということは決して自分勝手なことではない。それが、当り前のことなんだ」

「……伊集院、さん」

「自分の気持ちを相手に伝えることで初めてお互いを理解し合うことができる。|他人〈ひと》と関わるということは、そういうことだ。だから、自分を責める必要はないんだ」

 伊集院にそう言われ、ふいに秋山や堺の顔が頭に浮かんだ。

 俺は自分の思いを彼らに伝え、彼らはそれを受け止め、時には意見してくれた。彼らと一緒にいるのが楽しく、彼らを大切な友人として信頼している。

 他人ひとと関わるということがどういうことか、今初めて分かった気がした。伊集院の方を見ると彼は俺に向かってニコリと微笑んだ。その笑顔を見た途端、胸に熱いものが込み上げてきた。

「……伊集院さんは柊さんを助けたいって言ったけど、じゃあ、伊集院さんは誰が助けるんですか? 柊さんと同じくらい、いや、それ以上に伊集院さんだって傷ついているんでしょう? もしかして、柊さんが自分を責めるように伊集院さんも自分を責めているんですか? だから、この仕事を選んだんですか?」

 俺はえ切れず、早口でまくし立てた。伊集院は驚いたように一瞬目を見開き、そしてすぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「ありがとう、君は優しいね。――相手の男と春菜は予備校で同じクラスだったらしくてね。葬式の時に色々聞き回ったんだが、二人の関係については結局分からずじまいだった。……俺は春菜を信じることにした。あの時の春菜の顔は、誤解をしないでほしいと訴える顔だったから。だから俺は自分を責めてはいない。それに、この仕事は眠らない隼人のために選んだんだ」

「眠らない?」

 俺は顔を強張こわばらせた。

「そう。アイツは、今俺が処方している睡眠薬を使って日に一、二時間ほどしか寝ていないんだ」

「……でも、前に一緒に飲んだ時は」

 初めて四人で飲んだ日のソファで気持ちよさそうに眠る柊の姿を思い出す。

「あれは……まぁ、珍しいことだよ」

「そ、うなんですか?」

「ああ。普段はあんなことはない」

「……それは、悪夢を見ないためですか?」

「薬を使わなければ、確実に隼人は精神に支障ししょうをきたしていただろう。俺と再会するまでの二年、アイツは酒の力を借りて週に数時間だけ眠るという生活を送っていた。だから俺は大学を卒業するとこっちの病院に就職をし、心身ともにボロボロだったアイツを俺のもとに通わせた。今年の一月にこのクリニックを開いてからは、アイツはここに通っている。そのすぐあとだったか、アイツがあの部屋を中古で購入したのは」

「そ、うなんですか? あ、だから部屋を……」

 俺は初めて伊集院と会った時のことを思い出した。すると伊集院がここにきて初めておかしそうに顔をほころばせた。

「三澤くん、俺のこと警戒してたよね。隼人から角部屋としか聞いてなかったから君の部屋と間違えたんだ。しかもあそこってどの部屋も角部屋なんだよな。アイツめ」

 眉間みけんしわを寄せてぼやく伊集院を、俺はクスリと笑う。そして、今柊が住んでいる部屋が売りに出ていてよかったと心から思った。でなければ、その二ヶ月後に俺は柊と出会うことはなかった。

 大学の図書館で違う出会いがあったかもしれないが、きっと学生と司書という関係のままその先はなかったと思う。

「けれど」

 伊集院は再びうれい顔になる。

「ここ数週間、アイツは薬を飲んでいない。ここにも来なくなった。また昔のように自暴自棄じぼうじきになり、酒に逃げた。――原因は、君だ。三澤くん」

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