episode4

 伊集院は苦しげに目を細めると遠くを見つめながら、「十年。あれから、十年経った。――もう、十分だ。十分すぎるほどアイツは苦しんだ」と語り始めた。

「以前、君に妹の話を少ししたと思う。俺たちの両親は俺が高校三年の時に飛行機事故で亡くなっていてね。二人きりの兄妹だった。春菜はるなは俺たちより二つ下で、大学で知り合った隼人を家に連れていったことがきっかけで二人は付き合い始めたんだ。あの頃のアイツは真面目で、一途で、春菜とも真剣に付き合っていた。――そして隼人が大学四年の時、二人は婚約した」

 目を見開いて言葉を失う俺を伊集院は一瞥いちべつし、「言っただろう? アイツも変わったと」と言って話を続けた。

「一年浪人していた春菜が短大を卒業したら、二人は結婚するはずだった。……その春菜が、死んだ。――俺たちの目の前で」

「死、んだ?」

「……そう。隼人の卒業式の当日。三月十一日。三人で隼人の卒業祝いの食事会をするはずだったその日に」

 伊集院はそう言うとスッと目を伏せ、

「あの日、大学で合流した俺と隼人は俺たち兄妹が住むマンションに向かっていた。マンションでは春菜が食事の準備をして待っていることになっていたんだ。俺たちは隼人の選んだワインを持って、他愛たあいもない話をしながらマンションに向かった。九月から俺はアメリカに留学が決まっていたし、アイツは春から商社マン。お互い、明るい前途に希望を持っていた。マンションまであと少しというところまで来た時、信号待ちをしていた俺たちの前を一台の車が走り抜けた。助手席には春菜が乗っていた。運転席には知らない男。一瞬だったが、俺たちは春菜と目が合った。あの春菜の顔は、今でも忘れない。――その直後だ。春菜たちの乗った車が急に蛇行だこうし始め、対向車の大型トラックに衝突しょうとつしたのは。トラックの運転手は軽傷ですんだが、春菜と運転手の男は、即死だった」

 そう言ったきり、伊集院は口を閉ざした。

 重苦しい沈黙が室内を支配する。俺は伊集院にかける言葉を探したが、結局なにも言えなかった。どんな言葉も安っぽいなぐさめでしかなく、到底とうてい、伊集院には届かないと思った。

 そして俺は、柊に初めて会った日のことを思い起こす。

 ……なんて運命だ。あの日、引越しの挨拶に行ったあの日が、伊集院の妹である春菜の命日だったなんて。

 柊は現実から逃避とうひするために俺にあんなことを言ったのだろうか。今でも彼女を想い続けているのか、柊は。

「亡くなってる人になんて……勝てない」

 これは完全なる俺の独白どくはくだった。

「……すみませんっ」

 さっきあれだけかける言葉に気を使ったのに、どうして今ここで軽率けいそつな発言をしてしまうのか。自分のおろかさに腹が立ち、涙が出そうになる。

 だが伊集院はそんな俺をなぐさめるように肩に手を置き、「そんなことはない。――まだ、続きがあるんだ」と告げた。

 隣に立つ伊集院を見上げると、彼は優しい表情で俺を見ていた。その表情が俺には逆に痛々しく見え、伊集院の心の奥にある悲しみの深さを垣間見かいまみた気がした。

「聞かせて、ください」

 もう後戻りはできない。俺は、前に進む道を選択したのだから。伊集院は小さな声で「ありがとう」と言うと再び語り始めた。

「俺たちがマンションに戻ったのは深夜を過ぎた頃だった。警察や病院から色々事情を聞かれ、立っているのがやっとなくらい心身ともに疲弊ひへいしていた。事故は結局、運転手の男のハンドル操作ミスが原因ということになったが、俺たちはあえて警察になにも言わなかった。俺たちに気付いた春菜が車を止めるように運転手とめたのかもしれないし、もっとスピードを出すように春菜が言ったのかもしれない。もしかしたら、警察の見解けんかい通り運転手の男によるただのハンドル操作ミスなのかもしれない。……真実なんて、死んだ二人にしか分からない」

 伊集院は疲れたように前髪をかき上げると、小さく息をついた。

「そんな俺たちを待っていたのは、なんの準備もされていない静まり返った部屋だった。――それからだ。隼人が心を閉ざしたのは」

 その時のことを伊集院は詳しく語ろうとはしなかった。その部屋で二人はなにを語り合ったのか、気にはなったがさすがに尋ねることははばかられた。そこまでる権限は俺にはない。それでも、一つだけ尋ねたいことがあった。

「今でも柊さんは春菜さんのことを想ってるのに、伊集院さんは俺になにができると思っているんですか?」

 伊集院は悲しげに目を伏せ、「アイツの中に春菜への愛情はもう、ない。あるのは春菜のことを信じることができない自分への苛立いらだちと自分が春菜を死に追いやったという責め苦だけだ」と低く押し殺したような声で呟いた。

「死に追いやったって、そんな……」

 俺は絶句する。

「アイツは、自分があの場にいなければ春菜は死ぬことはなかったと自分を責めた。そして決まっていた就職も自ら辞退すると、俺の前から姿を消した。――俺は留学を取り止めて隼人を探した。あんな状態のアイツを独りにしたらなにをしでかすか分からないからな。あの馬鹿、親にも連絡しないで行方晦ゆくえくらましやがって……探すのに手間がかかったよ。学会で発表をすることになっていた教授の助手として君の大学に行った時、偶然アイツと再会したんだ。二年ぶりに逢ったアイツは、随分と雰囲気が変わっていたよ。自分を傷つけ、他人を傷つけ、完全に自暴自棄じぼうじきおちいっていた。……三澤くん、アイツをあんな風にしたのは俺たち兄妹なんだ。しかも――」

 まるで伊集院の言葉をさえぎるように、今日二度目の追憶のメロディが静かに奏で始めた。伊集院は話すのを一旦止めると、哀愁を帯びた音色に耳を傾けるように目を閉じた。

 どんな思いで伊集院はこの曲を聴いているのか。俺はじっと目を閉じたまま動かない伊集院を見つめながら、ひどく居たたまれない気持ちになった。

 そして最後に、まるで鎮魂ちんこんでもするように鐘の音が四度、鳴り響いた。

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