episode6

 肩を揺すられて我に返ると、いつの間にか秋山が隣に立っていた。意識が現実に戻る。と同時に、ラウンジの喧騒けんそうが一気に耳へなだれ込んできた。ああ、大学にいたのか。

「何度も呼んでんのに無視すんなよ。お前、大丈夫か? ここんとこずっと様子がおかしいけど。まだ風邪治ってないのか?」

「いや、ごめん。大丈夫。試験勉強で最近寝てないから」

 ちからなく笑う俺に、「あんま無理すんなよ」と秋山は言った。

「試験の時くらいは少し無理しないとヤバイだろ」

「日頃からちゃんと勉強してれば無理する必要ないだろ、俺を見習え。俺を」

「秋山のどこを」

 言いかけると同時に、両頬を思い切り引っ張られた。

「そこは『そうだね』でいいんだよ。反論は許さん。つーか、お前のほっぺたよく伸びるな。きよめもちか」

「痛いって。離せ」

「血行をよくしてんだよ」

 そう言って秋山は両頬を上下に引っ張り始めた。

「しなくていい」

「友の優しさが分からんのか、君は」

「優しさの微塵みじんも感じられんくらい痛いっつーの」

「手抜きはよくないと思って」

「変なとこで律儀になんな。だから離せって」

「へーい」

 ようやく秋山は頬から手を離した。両頬にじんじんと鈍い痛みが残る。

「お前も今度やってやる」

「やれるもんならやってみな。俺はそんなとろくさく」

 言ってるそばから俺は秋山の両頬を思い切り引っ張った。

「速攻やられてんじゃん」

 意地悪く笑う俺に、「こんなすぐやるとは思ってなかったんだよ。離せ」と秋山。

「これ血行がよくなるらしいよ」

 頬を上下に引っ張りながら俺が言うと、「へぇ、初耳」と秋山が返した。

「お前が言ったんだろ」

「そうでしたっけ」

「まったくお前は」

 呆れる俺に、「でもお前の顔色だいぶよくなったぞ」と秋山が笑った。

「……血行がよくなったんだろ」

「だろーな」

 満足げに秋山はコーヒーを飲み始めた。その様子を俺は見ながら「お前ってすごいな」という言葉を飲み込んだ。

「あと二日、頑張ろーぜ」と秋山。

「ああ」

 あれ以来、柊と会うことすらできずにいた。

 図書館に行っても柊の姿を見つけることができず、試験が始まったせいもあってすれ違いの日々が続いていた。気になって眠れないものだからその分、試験勉強に集中することはできた。

「最近、柊さん眼鏡ばっかりだよな。飲むなら誘ってくれればいいのに、って試験中は無理か。あはは。試験が終わったら、また柊さんたちと飲もうぜ」

 秋山が楽しげに笑った。

「……会ったのか?」

 今、俺はどんな顔をしてる? 秋山が自分の顔を見る前に、俺は手で額を触るフリをして顔を隠した。きっと醜い顔をしている。こんな顔、絶対に見られたくない。

「ん? ああ、図書館で。なんだよ、お前、柊さんと顔合わせてないのか? あ、そっか。試験中だから気を使ってくれてるのかもな」

 一人納得する秋山に、「じゃあ、帰るわ。ちょっと頭痛くなってきたから、早めに明日の試験勉強しなきゃ」と俺は立ち上がった。「頑張ろうな、無理するなよ」と秋山の言葉を背中に受けながら足早にラウンジを出る。

 ……秋山とは会っているのか。

 俺は無性に腹が立ち、同時に寂しさで胸が押しつぶされるくらい苦しくなった。罪悪感に苛まれる。

 ――俺が悪いのか。俺が、柊を傷つけたのだろうか。

 校舎を出ると、見慣れたレンガ造りの建物が目に入る。それを見つめながら俺は唇を噛みしめた。

 あの中にいるのに。こんなに近くにいるのに。

 涙が溢れそうになるのを堪えながら、俺は逃げるように駈け出した。

 理由を教えてほしい。俺が悪いのなら、謝るから。

 だから……。

 どうか、俺を避けないで――。


 エレベーターを降りると、俺の部屋の前に伊集院の姿があった。

「伊集院、さん」

「久し振り。試験勉強はかどってる?」

 伊集院は、いつもの人懐っこい笑顔で俺に笑いかけた。その笑顔に、ふさいでいた気持ちが少しだけ和らいだ。

「ぼちぼちです」

「そっか。学生は大変だねぇ」

 俺はクスリと笑い、「六年も学生をやった伊集院さんの方が大変だったと思いますけど」と返した。

「はは、確かに。でもその分、他の学生より長く自由を満喫できたから結構楽しかったよ。君も楽しんでる?」

 俺は表情をくもらせるが、すぐに笑顔を作り「ぼちぼちです」と答えた。

「……そっか」

 伊集院は困ったような笑みを浮かべ、

「ところで、試験中に悪いんだけど君に聞きたいことがあるんだ。今、いいかな?」

 いきなりの伊集院の訪問に不安な気持ちになりつつも「どうぞ」と家に招き入れる。

「散らかってますけど」

 伊集院をリビングに通すと、「うちより綺麗だよ」と笑いながら言った。

「今、コーヒーを」

 キッチンに向かいかける俺を、伊集院は「いいよ」と言って断った。そして窓の方に歩いていくと、カーテンを開けて窓の外の景色を眺めた。

「隼人の部屋から見るのと同じ景色だ」

 なにが言いたいのだろう。俺は伊集院の背中を眺めながら、彼がここに来た理由を考える。

 いつもと違う。空気が違うといったらいいのか。なにかぎこちない。これまで伊集院と一緒にいて、感じたことのない居心地の悪さを今感じている。

 背中を凝視ぎょうししたまま立ち尽くしている俺に、伊集院が向き直る。

「同じ景色だけど、やっぱり違うね」

「……伊集院さん。聞きたいことってなんですか?」

 たまりかねて俺が尋ねると、さっきまでにこやかに微笑んでいた伊集院が、真顔まがおになった。

「ねぇ、三澤くん。隼人となにかあった?」

 やはり柊とのことでここに来たのか。なんとなく予想はついていたが、どう答えていいのか分からず口ごもる。

 自分自身、なにがどうなっているのかよく分からないのに、それを伊集院に説明することなんてできなかった。伊集院はそんな俺の様子に、「そう。なるほど」と一人納得していた。

「あの……」

「いや、隼人がさ。最近、全然顔出さないから気になってたんだ。じゃあアイツ、仕事中も眼鏡かけてる?」

 俺はうなずきながら、「最近、眼鏡ばかりだって秋山が言ってました」と答えた。

「隼人、君を避けてるの?」

 俺は頷く。

 伊集院は考え込むように顎をさすりながら「そう」と呟き、「君は、それをどう思っているの?」と聞いてきた。

 俺は唇を噛んだ。

 どう答えていいのか分からない。色々な感情がないぜになって溢れ、自分が本当はなにを望んでいるのか分からなくなっていた。

 そんな俺に、伊集院が優しく微笑みかけた。

「君が悪いわけじゃない。気にするな」

「でも……」

 言葉が続かない。

 分からない。悪くないと言われても、柊にあんな表情をさせてしまった。あれが俺のせいなのだとしたら、やはり俺が悪いのではないか。

 唇をふるわせ、顔をゆがませる俺に伊集院が悲しげに笑い、「俺はアイツの主治医でもある。だから、分かるんだよ。君は悪くない」と言った。

「主治医?」

 目を見開いて驚く俺を伊集院は無言で見ている。

「柊さん、どこか悪いんですか?!」

 俺は伊集院にめ寄る。

 親友という関係だけではなかったのか。愕然がくぜんとする俺に、「悪いけど、これ以上は言えない。君も分かっていると思うけど医師としての守秘義務があるからね。……それに、君はもう隼人と関わらないほうがいい」と突き放すように言うと伊集院は玄関へと歩いていく。

「ま、待って!」

 伊集院の背中に叫んだ。俺は追いすがるように彼の腕を掴む。

「酷いじゃないか! 他人ひとと関われって言ったのは、あんたたちじゃないか! それなのに、急に手のひらを返したように避けたり、関わるのをやめろだの……そんな、勝手なこと言うな! ……酷い、よ」

 俺は声をまらせる。

 俺は必要ないのか。関わるに値しない人間なのか――

「三澤くん」

 伊集院が困ったように息をついた。

「君のためを思って言っているんだ。――隼人も」

「……柊さん?」

 伊集院の言っていることが理解できず、泣きそうになる。伊集院は俺の肩に手を置き、「隼人も君の将来のことを考えて君から離れた。……だから、君も関わるのをやめた方がいい」とさとすように言った。

「なんで……」

 俺は伊集院をにらんだ。

「なんで、そんな勝手に決めるんだよ! 俺はそんなこと望んでないのにっ! なんで俺の気持ちを無視するんだ!」

 伊集院はあわれむような、なんともいえない表情で俺を見つめ、「君にはまだ先があるからだよ」と静かに言った。

「意味が分かりません。そんなの」

「じゃあ、聞こう」

 俺の言葉にかぶさるように、伊集院が声を上げた。

「君は、隼人を受け入れる覚悟があるのか?」

 そう言われた途端、俺は口ごもる。

「そういうことだ」

 伊集院は俺に背を向け、「忘れるんだ」と言って玄関へと歩き出した。

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