episode5

 ゴシック調のった造りの建物を見上げ、深い溜め息をついた。少し前までは毎日を楽しく暮らしていたのに、今ではこの月宮館を見るのも嫌になっていた。

 俺は大きく深呼吸するとエントランスへと歩き出す。

 顔を強張こわばらせながらエレベーターを下り、足音をたてないように自宅へと向かう。祈るような思いで柊の部屋の前を通り過ぎると緊張がわずかに解け、ホッと息をついた。あと少しだ、そう思った瞬間、背後の柊の部屋のドアが開いた。

「おかえり」

 俺はビクリと体を震わせる。振り向くことができず、背を向けたまま「こんばんは」と答えた。

「風邪大丈夫?」

 柊が尋ねた。足音が近付いてくる。

「三澤くん。どうして、こっちを見ないの?」

 俺は答えることができない。逃げたい。けれど、思いとは裏腹に身体が動かない。

「三澤くん?」

 不安そうな柊の声に恐る恐る振り返る。困惑顔の柊に俺は顔をそむける。傷ついているのは俺の方なのに、どうしてこんな罪悪感を抱かなくてはいけないのか。

「す、みません」

 俺は駆け出し、ドアの鍵を開けて部屋に逃げ込んだ。ドアを閉めようとすると、柊が強引に中に入ってきて俺の身体を抱き寄せた。

「どうして逃げるんだ」

 すごい力で抱き締められ、柊の身体を引き離すことができない。なにより、懐かしい柊の匂いと伝わる温もりに手に力が入らなかった。

 こばめない自分がいる、そう思うと余計にみじめな気持ちになった。

 こばみきれないでいる俺に、柊が強引に唇を重ねてきた。そのまま、廊下に押し倒される。

「いや、だ」

 なんとか声を絞り出すと、柊は一層悲しそうに俺を見つめて乱暴に唇を重ねた。手首を掴まれ、柊は首に唇をわせていく。

「や、めて。……やめ、ろっ」

 夢中で叫んだ。柊が動きを止めた。首にわせていた唇を離し、俺の顔を見つめる。

「祐一」

 柊から名前を呼ばれ、心臓が早鐘はやがねのように激しく脈を打ちだす。

 俺の頬を優しくでながら、「祐一、お前の気持ちが知りたい」と柊はささやく。彼の眼差しに胸が締め付けられ、その苦しさに俺は顔をゆがめ、わずかに視線をらす。

 言わなければ。今度こそ、自分の気持ちを――

「……嘘つき」

 けれど出てきた言葉は、言おうとしていたものではなかった。

 どうしても頭からあの学生のことが離れない。寝込んでいる二日間ずっと柊と楽しそうに話している姿が、部屋の中に入っていく姿が、脳裏をちらつき、俺の精神をむしばんだ。

 なにより、嘘をついた柊が許せなかった。その思いが自分の中で強くあったからかもしれない。

「嘘?」

 柊は困惑したのか、手首を掴んでいた手の力をわずかに緩めた。その瞬間、俺は柊の手を振りほどき、自由になった両手で思い切り柊の身体を突き飛ばした。柊は尻もちをつき、玄関のドアに頭を打ち付けた。後頭部を押さえてうめき声を上げる柊に構うことなく、「あの日、あんたの家に来たじゃないか!」と俺は叫んだ。

 俺が言おうとしていることをすぐに理解したようで、「確かに彼とは昔付き合っていた。あの日は、家に置いて行った本を取りに来ただけだ。君に嘘は言っていない」と柊は言った。

 やっぱり付き合っていたんだ。あの学生と……。

 俺は震える唇を噛んだ。

「彼とは本当に」

 柊の言葉をさえぎり、「もういい、出て行って」と俺は玄関ドアを指差した。

 もうなにも聞きたくない。あの男と柊の話なんて……聞きたくはなかった。

 柊はよろりと立ち上がると、いきなり俺の手首を掴んだ。

「じゃあ、お前が秋山の家にいた数日間、俺がどんな思いでいたか分かるか?!」

 柊が俺の手首を強く引き寄せ、抱き締めた。

「……頼む。俺以外のヤツと、そんな楽しそうにしないでくれ」

「柊、さん?」

 柊の身体がかすかに震えている。

 俺は驚いて顔を上げるが、柊の表情をうかがうことはできなかった。いっそう力を込めて抱き締めてくる柊に、いいようのない感情が湧き上がってくる。

 俺はこばむことを止め、そのまま柊に身体を預けた。もしかして、彼も俺と同じ気持ちなのだろうか。今、気持ちを伝えてもいいだろうか。俺は、恐る恐る、行き場のないまま固まっていた腕を柊の背中に回した。柊がびくりと反応する。温かい。伝わってくる柊の体温を感じながら、これまでに経験したことのない幸福感に酔いしれる。

 すると、しばらくして「すまない」と柊が静かに俺の身体を離した。

「忘れてくれ。君は、もっと他人ひとと関わらなくてはいけなかったな」

 柊は顔を伏せたまま俺を見ようとしない。

 様子がおかしい。

「柊さん?」

「すまなかった」

 柊はもう一度謝ると、俺と目を合わせることなく外へと出ていった。

 取り残された俺はわけが分からず、ただ呆然ぼうぜんとしたまま動くことができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る