episode10

「いっ!」

 痛みで我に返り、親指からじんわりとにじみ出る血を見つめる。なにしてんだ、俺。包丁を置き、親指をくわえながら溜め息をつく。

  あのまま家に逃げ帰り、ソファに座ったままぼんやりとしていた。長い時間、座っていた気がする。

「……ああ、試験が近いんだった」

 薬を飲まなければ、とキッチンに入ったところで溜め息をつく。こんなところに薬はない。本当にどうしてしまったのか。リビングに引き返そうとした。だが薬を飲むのならなにか食べなければ、そう思い直し食事の支度を始めたのはよかったが、今度は包丁で指を切ってしまった。

「もう寝よ。かなり体調おかしいや」

 なにもやる気になれず寝室のベッドに横になる。静まり返った寝室。カーテンの隙間すきまから廊下の明かりがわずかに入り込む。

 目をつむると脳裏に柊が男子学生と楽しそうに話している姿が浮かんだ。乱暴に布団を頭までかぶり、必死に眠ろうとするが意識はハッキリとするばかりだった。頭からさっきの光景が離れない。

 俺は眠るのをあきらめ、布団から顔を出すとあの男子学生のことを考える。

 彼は誰だろう。随分と柊と仲良さそうに話していた。これまでにも学生と話している柊の姿は何度か見たことあるが、今日の彼はこれまでの事務的な感じを受けなかった。そう思った時、伊集院の言葉を思い出す。

 ……恋人、なのだろうか。

 ドクン、と心臓が強く脈を打つ。

 優しい手つきであの学生の髪を触れた柊。今、二人は付き合っているのだろうか。

 早鐘はやがねを打つように心臓が脈を打ち始める。昨日の記憶が鮮明に蘇る。柊は彼にも――

「俺には関係ない!」

 勢いよく枕に顔をうずめる。

 柊が心配して家に訪ねてくることを期待している自分が嫌だった。他の学生に優しくしている柊が嫌だった。

 ――なによりも、自分が分からなくなるのが嫌だった。

 俺は……どうしてしまったんだ。胸が締め付けられ、叫びたくなるほど苦しい。

「うぅっ」

 涙が込み上げる。どうして泣いているのか、分からない。ただ柊のことを考えると苦しくて、切なくて、どうしたらいいのか分からなかった。


 インターホンのベルの音で目が覚めた。

 あのまま眠ってしまったようだった。いつもなら覚醒するまでに時間がかかるのに、音を聞いた途端に目が覚め、意識は玄関に向かった。

 柊だったらどうしよう。期待と不安がごちゃまぜになって胸に込み上げてくる。ベッドから起き上がると、恐る恐る玄関に向かった。深呼吸をし、ドアスコープをのぞく。

 ――柊だった。

 ドアに額を押し付け、その場に座り込んだ。出たい。けれど、怖い。どう柊と顔を合わせればいいのか分からない。揺らぐ気持ちの中、俺は手を伸ばし鍵を開ける。

 ゆっくりとドアを開けると柊がホッとしたように表情を緩めた。

「秋山くんから聞いたんだ。大丈夫?」

 俺はうつむいたまま、小さくうなずいた。心配してくれている柊に悪いと思いながらも、まともに彼の顔を見ることができなかった。

「寝てたの?」

 答えず、うなずいた。

「起こして悪かったね。ゆっくり休んで」

 帰ろうとする柊に俺は思わず顔を上げる。柊は俺の顔をじっと見つめ、「どうして逃げたの?」と尋ねた。

「逃げてません」

「彼のこと?」

 俺は柊から目をらす。

 本当は知りたくてたまらないのに、聞くのが怖い。じっと唇を噛んで黙っていると柊が俺の髪に触れた。

「これのこと?」

 なにも答えることができない。俺は居たたまれなくなってうつむいた。

糸屑いとくず

 柊が言った。

「……え?」

 俺は意味が分からず顔を上げる。

「だから、彼の髪に糸屑いとくずがついてたから」

 と言って柊は髪を触って糸屑いとくずを取る真似をした。気が抜けてほうけている俺に「ね?」と柊が笑いかける。

 俺は再びうつむいた。

 ホッとしている自分に、気付いてしまった。

「安心した?」

 柊が玄関の中に入ってきた。俺は答えられないでいる。

「気になってたの?」

 そう言って俺の顎に手をかけ、顔を持ち上げる。

「言って」

 目の前の柊を直視できず、俺は視線を泳がせる。なにがなんだか分からなくなってきた。どう答えていいのかも。――自分の気持ちも。

 なにも言えないでいる俺の身体を壁に押し付け、柊は唇を重ねてきた。俺は抵抗もせず、それを受け入れる。柊がゆっくりと唇を離し、「嫌じゃないの?」

 自分でも分からない。今の状況も、拒絶しない自分も――。困惑する俺に、柊は再び唇を重ねた。さっきよりも強く。舌を絡ませてくる。そしてそのまま柊は首筋に唇をわせていく。

「は、ぁっ」

 頭がぼぅとしてなにも考えられない。

「感じてるの?」

 柊が耳元でささやいた。俺は恥ずかしくなり否定しようとすると彼は強引に俺の口をふさいだ。

「これ以上は、怖いな」

 柊がささやく。

 俺は柊をうつろな目で見上げた。今までに感じたことのない感覚が火照ほてった身体を支配していた。

「そんな目で見つめたら駄目だよ」

 柊は優しく俺の頬を撫でながら「それとも、いいの?」とささやき、柊の手が徐々に下へとおりていく。その途端、意識が現実に引き戻された。

「あ、のっ……」

 そんな俺の様子に柊が苦笑いを浮かべ、優しく頬にキスをする。

「今日はもう休んだ方がいい。……ごめんな」

 どうして柊が謝るのか分からず、俺は彼をすがるように見つめた。

「そんな潤んだ目で見ないでくれ。結構、限界に近いんだから」

 髪をかき上げながら柊は困った顔をする。

 俺は怒られたような気分になり泣きそうになる。秋山はいいのに俺は見ちゃだめなんだ。必死で泣くのを我慢していると柊が俺の腰に手を回して俺の身体を引き寄せ、「君に見つめられると……欲しくてたまらなくなるんだよ、君が」と耳たぶを甘噛みした。

 力が抜けて立っていられなくなる。ふらつく俺の身体を支えた柊は寝室へと俺を連れていく。

 ベッドに横たわる俺に「昨日、飲ませ過ぎたみたいだね。気分は悪くない?」とベッドの縁に腰かけた柊が言った。なんとかうなずくと柊は「鍵かけずに出るけどいい?」と立ち上がった。

 俺は思わず手を伸ばす。柊の手を掴み、「もう少しだけ」と声を絞り出すと柊は黙ってベッドに片膝をつき顔を近付けてきた。

 柊の唇が俺の唇に軽く触れた。

 目を開けると、生気のない柊の顔が目の前にあった。あの時と同じだ。俺は昨日の柊を思い出す。

「眠って。ここにいるから」

 そう言って、柊はさっきと同じようにベッドの縁に腰かけた。

 俺は布団を被り、込み上げる涙を必死にこらえた。自分はなにか彼を傷付けるようなことをしたのだろうか。あんな表情をさせるようなことを、してしまったのだろうか。

 沈黙が部屋の中を重くただよう。

 なにか――。なにか言って欲しい。なんでもいいから、話してほしい。

 自分からは怖くて聞くことができず、柊が口を開くのをひたすら布団の中で待った。だが、どんなに待っても彼は黙り込んだままなにも言わない。

 たまりかねた俺はそっと布団から顔を出す。柊は、ぼんやりと壁を見つめていた。

「あの……」

「ん? ……ああ、眠れない?」

 柊が優しく微笑みかける。

「なにか飲み物持ってこようか?」

 俺は首を振る。

「すみませんでした。あの、もう……大丈夫です」

 迷惑しているかもしれない、そう思った。すると柊が「邪魔してごめんな。……じゃあ、部屋に帰るよ」とぎこちない笑顔で立ち上がる。

 俺が起き上がろうとすると、柊はそれを手で制した。

「寝てて。なにかあるといけないから、鍵は開けといた方がいい」

 柊はそう言うと、静かに寝室から出ていった。玄関ドアの閉まる音を聞いた途端、涙が一筋頬を流れた。

 ……やっぱり、迷惑だったんだ。

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