episode8

「う、わぁ」

 俺は柊の身体を押し退け、うしろへ飛び退いた。

「奪っちゃった」

 柊が笑いながら床に寝転がった。

「ひ、ひ、柊さん?!」

 なにが起こったのか、頭が真っ白になり考えることもできない。混乱する俺を尻目しりめに柊は額に手を当て、大きく溜め息をついた。

「言っただろ? せっかく我慢してたのに」

 柊は俺に顔を向け、

「酔っぱらいには気をつけた方がいいよ。君、無防備すぎ」

「あ、あの」

 なおも動揺を隠せないでいる俺に、柊は苦笑くしょうする。

「嫌だった?」

「え? あ、の」

 返答にきゅうしていると「うるさいなぁ」とソファで寝ていた秋山がむくりと起き上がった。

「祐一? うるさいぞ」

 目をこすりながら文句を言う秋山に「あ、ごめん」と慌てて謝った。いやまて、なんで俺が謝らなければいけないんだ。

 両手で顔を覆い、冷静になろうと意識を集中させていると、「あれ、柊さんどうかしたんですか?」と床に転がっている柊に驚いた声を上げる秋山。柊がどう答えるのか気になり、集中させていた意識は二人の会話に向かう。

 柊は寝転がったまま「酔ったみたい」とだけ答えた。

「珍しいですね」

「いつもよりペース上げてたみたいだ」

 笑いながら言う柊の声。

「俺もっす」

 照れながら笑う秋山に、「いや、お前はいつもだろ」と俺は思わず顔を上げて突っ込んだ。秋山は聞こえているはずの俺の突っ込みを無視し、「あれ、伊集院さんは?」と部屋を見回した。

「コンビニ。もうすぐ帰ってくるよ」

 身体を起こしながら柊が答えた。すると、タイミングを合わせたかのように玄関のドアが開く音がした。

「あっ、帰ってきた」

 秋山が、酒、酒と口ずさみながら玄関へ走っていく。

「悪かったね」

 呆れながら玄関に消えていった秋山を見ていた俺に、柊は謝るとバルコニーへと消えていった。

 俺は、なにも答えることができなかった。前にも見たことがある。あの表情。あんな顔見せられたら――

 ちょうどその時、一陣いちじんの風が室内に吹き込みカーテンがふわりと舞った。一瞬、カーテンの隙間から見えた淋しげな柊の背中。声をかけようとしたが、それをはばむようにカーテンが風でゆらゆらとゆらめいた。

 薄っぺらな一枚のカーテンが、超えることのできない大きな壁のように俺には見えた。

「買ってきたよぉ」

 伊集院が買い物袋を抱えて部屋に入ってきた。どれだけ飲む気なんだ、と思うほど買い物袋いっぱいにビールが入っている。それをテーブルの上に置くと、ふぅと大きく息をついた。座り込んだままでいる俺に「あれ、隼人は?」と伊集院。

「バルコニーです」

 俺はそう言うしか出来なかった。

「なんか飲み過ぎたみたいですよ」

 あとから部屋に入ってきた秋山が言った。手にはジャイアントなコーンが握られている。小学生かお前は。ていうか、あれは俺たちに買ってきたものだろうか。伊集院の中の俺たちはどう見えているのだろう。好きだけど。嬉しいけど。なんか複雑。

「そんなに強くないのに飲むから」

 伊集院が苦笑した。

「そうなんですか?」

 秋山は意外そうに、「かなり強いと思ってたのに」とバルコニーの方を見ながら言った。ペリペリとアイスの包装紙を目を輝かせながらめくる秋山。それを見て伊集院はクスリと笑い、「ビールも一ケースくらいしか飲めないし、ワインも二本くらいでダウンするよ」と答えた。

「そんなのみんなダウンしますよ」

「え、そう?」と意外そうな伊集院。

「それ以上に伊集院さんは強いんですね」

 秋山は絶句した。

「そんなことは、あるかな」

「柊さんが伊集院のことワクって言ってましたよ」

「あ、よく言われる。酔ってるのにね」

 伊集院は笑い、

「ま、秋山くんも起きたことだし飲み明かそう」

 伊集院が俺たちにビールを手渡してきた。

 俺たちが話している間にアイスを平らげた秋山は、「そうっすね」と調子よく言うと素早くプルタブを開け、ビールをあおる。

 俺はバルコニーの柊が気になったが、結局ビールを手に取り床に座り込んだ。

 どう声をかければいいのか分からなかったのだ。それに……アレはいったいなんだったんだ。脳裏に蘇る衝撃的な出来事に俺は慌てて頭を振り回す。

「わっ、どうしたんだよ、いきなり。酔いがまわるぞ」

 秋山が驚いたように俺を見た。

「なんでもない。――むしろ、酔っぱらいたいかも」

「そういう時は、酒だぁ!」

 伊集院がビールを高らかにかかげた。

「そだそだ」

 秋山も一緒になってビールをかかげる。また置いてけぼりになるのは嫌だったので、「じゃあ、飲む!」と俺はビールを勢いよく口に含んだ。


 缶ビールを二本空けたところで身体が火照り出し、呂律ろれつも怪しくなってきた。ふわふわと浮いているような気持ちのいい心持ちになり自然と笑みが浮かぶ。

「あらら、三澤くんも秋山くんも弱いね」

 伊集院がクスクスと笑う。

「伊集院さんは変わらないですね。本当に酔っぱらった伊集院さんを見てみたいです」

「ワクだからなぁ。まだ俺も前後不覚になるほど酔ったことないんだよね」

「なっちゃだめですよ」

 伊集院が声を上げて笑った。

「やっぱり、酔うなら秋山くんの酔い方がいいよねぇ」

 伊集院が床に転がって寝ている秋山を見た。

「なんだよ、気持ちよさそうに寝やがって」

 俺は口をとがらせる。

「結局、残ったのは俺たちだけか」

 そう言って伊集院はソファに目をやる。ソファでは柊が寝息を立てていた。

 あの後、バルコニーから部屋に入ってすぐソファに眠りこけてしまったのだ。やはり飲み過ぎていただけか。体調が悪くなくてよかったが、酔っていたとはいえ、アレは――

「なに考えてるの? 難しそうな顔して」

 伊集院が缶ビールを片手に尋ねてきた。ハッと我に返り「あ、いえ」と言葉をにごす。いくら伊集院でも、さすがに言えない。

「いや、二人とも気持ちよさそうでずるいなって」

 誤魔化すように床に転がっている秋山を見た。規則正しい寝息をたてながらクッションを抱いて寝ている秋山。さっきまで寝ていたのにまだ寝れるのか。

「ほんとにね。まぁ、隼人のあの姿は珍しいけどな。――三澤くんは、もう少しくらいいけそう?」

「あと少しなら」

「サークルとかには入らないの? 飲んで騒いで楽しいよ」

「考えてはいるんですけど、ノリについていけないというか」

「はは、羽目はめはずせないか」

 伊集院は屈託くったくなく笑い「昔の俺と似てるな」と目を細めた。

「伊集院さん、と?」

 俺は首をかしげる。

「あ、今、そうかな? とか思わなかった? 俺だって昔は引っ込み思案の大人しい男の子だったんだよ」

 にわかに信じがたい。引っ込み思案の大人しい男が、どう間違ったらこんなコミュ力の高い人間になるのだろうか。俺はまじまじと伊集院を見つめた。

「その目は信じてないな」

 伊集院がグイッと顔を近付けてきた。と同時に俺は身体をうしろに引いて床に手をつく。さっきのこともあり、敏感に身体が反応する。

「そんなこと……信じられません」

 伊集院が声を上げて笑った。

「そうだよなぁ、俺も信じられん。まさか自分がこんな風になるなんてな。――これもすべて隼人のお陰かな」

「柊さん、ですか?」

 伊集院がうなずく。

「俺の妹とアイツが付き合っててさ。大学も俺たち一緒だったからね」

 伊集院が当時を思い出すように天を仰ぎ、

「サークルやら飲み会やらに無理矢理連れ回されたんだよ。で、こんなんなりました」

 俺はソファで寝息を立てている柊を見る。

 伊集院の妹とも付き合っていたんだ。……今は、別れているんだよな。でも二人は、今も一緒にいるのか――

「柊さんは学生時代からあんな感じだったんですね」

 俺がそう言うと、伊集院が首を振った。

「いや、彼も変わったよ」

 伊集院が手に持ったビールの缶に視線を落とす。

「だいぶ、ね」

「そうなんですか?」

 ということは、昔はもっとすごかったのだろうか。俺は前に月宮館で会った二人の女性を思い出す。

「そう。みんな変わるんだよ」

 伊集院はしみじみと言う。

「変わりますか」

「そう、変わるよ。だから、今この時を楽しんでおかないとね」

 そう言って、新しい缶ビールを俺に向かって投げた。俺は慌ててキャッチする。

「飲もう」

 楽しげに笑う伊集院に、今の話がどこまで本当のことなのか疑問に思う。こんなに人は変わるのか。

「じゃあ、俺も」

 ――変わりたい。

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