episode6
「いってらっしゃい」
恨めしげな伊集院に満面の笑みを浮かべながら柊が手を振った。ジャンケンは最初の一回で勝負がついた。
「あの、ほんとにいいんですか?」
恐縮する俺に伊集院は「三澤くんはいいんだよ。お菓子買ってきてあげるからね」とまるで親戚のおじさんのようなことを言い、柊に対しては「このやろ、覚えてろよ」と文句を言って玄関から出ていった。
「さぁ、リビングに戻ろう」
歩き出した柊が数歩進んだところで、急に足を止めた。どうしたんだろう、と声をかけようとすると、「鼻はぶつからなかった?」と柊が振り向いた。
「え?」
一瞬、意味が分からなかったが、すぐにあの映画のことだと察し、「ええ……まぁ」と答えた。すると柊は「俺はぶつけた」と笑った。
「そうなんですか?」
意外だった。
驚く俺に柊は
「あ、の」
「試してみる?」
柊が壁に手を伸ばして
「あ……」
「あー、目が回る」
柊が俺の肩に頭を預け、
その瞬間、スローモーションのようにゆっくりと進んでいた
「頭がクラクラする」
柊が短く
「大丈夫ですか?」
「……ダメかも」
「水持ってきましょうか?」
「いい。ちょっとこのまま、この体勢でいたい」
柊は身体の力を抜く。その途端、俺に彼の全体重がのしかかる。よろけそうになるのをなんとか踏ん張り、柊の身体を抱えるように両手を彼の背中に回した。
「柊さん、大丈夫ですか?」
「うん、コレいい」
「俺は重いです」
「少し我慢して」
少しって……どれくらいだ。
倒れないように柊の身体を支える手に力を込める。俺の身体に彼の体温が伝わってくる。自分とは違う髪の香り。微かに煙草の匂いもする。柊の
「あの……柊さん」
「……ん」
「大丈夫ですか?」
「だいぶ……楽になった」
そう言うと、彼は俺からゆっくりと離れた。
「ありがとう」
力なく笑い、柊はリビングへと歩いていった。俺は立ち尽くしたまま、そのうしろ姿を見つめていた。
「ただいまぁ。アレ? 三澤くん。どうしたの、こんなとこで?」
伊集院が両手に買い物袋を持って戻ってきた。
「あ、おかえりなさい。早かったですね」
俺は慌てて伊集院から袋を受け取った。ズッシリと両手に受ける重みに、さっきの柊の身体の重みが一瞬
「ありがと。向かいのコンビニだからね。顔赤いよ。酔ってる?」
「そうですか?」
頬に手を当てると、熱を帯びている。酒のせいなのか、それとも――
「酔ってるねぇ」
伊集院は袋から缶ビールを一本取り出すと、俺の頬にくっつけた。缶の表面についた水滴が顔を濡らし、
「気持ちいい」
「だろ? 飲むと余計
伊集院から缶ビールを受け取り、俺たちはリビングへと向かう。
「三澤くんは酔ったらどうなるのかな?」
「んー、結構セーブしちゃう方なんですよね」
「じゃあ、今日は限界に挑戦だな。あ、でも無理はしないでね。危ないと思ったらストップね」
俺は吹き出し、「難しいこと言いますね」と言うと伊集院が豪快に笑った。
「一応、医者だからねぇ」
「開業してるんですか?」
「ああ」
リビングに入ると秋山がソファで寝ている。柊が移動させたのだろう。だが、肝心の彼の姿がなかった。
「バルコニーにいるよ」
伊集院はそう言ってキッチンに入っていった。カーテンが風で揺れている。カーテンの隙間から窓が少し開いているのが見えた。窓の
「柊さん」
「煙草の煙に気をつけて」
背中を向けたまま柊は言う。
「はい。あの、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ」
柊は煙を吐き出した。踊るように大気の中に溶けていく煙を見つめながら、俺はこれ以上なにを話していいのか分からず、その場から離れた。
ちょうどキッチンから戻ってきた伊集院が、テーブルに缶ビールを数本並べているところだった。
「ではでは、三澤くん。限界に挑戦しようか」
伊集院は缶ビールを一本手に取り、高く
「こら、なに言ってんだ」
バルコニーから戻ってきた柊が、すかさず突っ込んだ。
伊集院は柊にビールを渡しながら、「酔っぱらったことないらしいから一度は限界を知らなくちゃ」と言うと「医者のくせに危ない発言だな」と柊は
「大丈夫。いざというときはドクターストップかけるから」
「ふひ」
ソファに寝ている秋山がタイミングよく笑った。
「……ほんと幸せそうに寝てるな」
俺はソファの横に座り、寝ている秋山の頬をつついた。秋山は起きることなく気持ちよさそうに寝返りをうつ。
「気持ちよく眠りこけちゃうのが一番いい酔い方だよな」
伊集院が言った。柊は穏やかな笑顔で秋山を見ながら「そうだな」と答えた。
なんとなく声をかけるのが
「よぉし、秋山くんに続くぞ。飲もう」
伊集院は
「伊集院さんたちは、酔ったらどうなるんですか?」
気になった俺は伊集院からさっき渡された缶ビール片手に尋ねると、「陽気になる」と伊集院が楽しげに答えた。聞くまでもなかった。
次に俺は「柊さんは?」と尋ねた。柊は首をかしげて少し考えると「エッチになる、かな?」と答えた。
「は?」
伊集院がぶはっと吹き出し、「いいねぇ、三澤くん。その顔。その呆れた顔絶妙だよ」
「笑いすぎだ」
向かいに座る柊が、ティッシュを丸めて伊集院めがけて投げた。肩を揺らして笑っている伊集院の額に当たったティッシュは、そのまま床へと転がり落ちた。
「いやぁ、若いっていいね。綺麗でさ」
涙を拭いながら伊集院が言った。俺は子供扱いされているみたいで悔しかった。伊集院たちからしてみれば、俺なんて子供なんだろうけれど。
「君だって、そうなるかもよ」
柊が意地悪く笑う。
「え?」
「酔っ払うとエッチになるかも」
「……なりませんよ」
俺は口を
「どうかな」
柊が意味深な言い方をした。
「あの……」
ポスッと軽い音が鳴る。
「……おい」
柊が呆れ顔で伊集院を
「イジめたバツだ。くふふ、ポスッだって。聞いた? 三澤くん。あの音」
いつもよりテンションの高い伊集院は、お腹を抱えて笑い出した。この様子だと床にビールの缶を転がしただけでも大爆笑しかねない。
「伊集院さん、大丈夫ですか?」
心配になってテーブルへ向かいながら尋ねると、伊集院は涙目で「大丈夫。まだ
「お前が先に酔ってどうする」
柊は溜め息交じりに、
「三澤くん、コイツのことは放っておいていいよ」
「はぁ」
笑いすぎて苦しそうにしている伊集院。彼は普段こんな酔い方はしない。そういえば、今日のお肉も伊集院が用意したものだ。なにか、そう、なにかいいことでもあったのだろうか。
「柊さん、伊集院さんて内科の先生なんですか? 開業してるってさっき聞いたんですけど」
ふと気になって尋ねると、柊の顔色が変わった。血の気がひいたように青白くなり黙り込んでしまった。
「柊さん、顔色が……」
「ああ、大丈夫。うん、そうだよ。まぁ、ヤブだから通っちゃダメだよ」
「誰が
伊集院が咳き込みながら柊を
「そんなこと誰も言ってないだろ」
「今、言った。
しつこく食い下がる伊集院に、「耳まで悪くなったのか?」と面倒臭そうな柊。
伊集院は大げさにのけ反りながら、「耳までって、なんですかい。耳も腕も悪くないんですけど。営業妨害は止めて下さい。ね、三澤くん。こんなヒドイ男は無視して俺と飲もう」と俺の手首を掴むと、丸めた新聞紙が伊集院の頭に振り下ろされた。
さっきと同じポスッと軽い音がした。柊が丸めた新聞紙を持っている。
「触るな。――それは俺のだ」
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