episode6

「いってらっしゃい」

 恨めしげな伊集院に満面の笑みを浮かべながら柊が手を振った。ジャンケンは最初の一回で勝負がついた。 

「あの、ほんとにいいんですか?」

 恐縮する俺に伊集院は「三澤くんはいいんだよ。お菓子買ってきてあげるからね」とまるで親戚のおじさんのようなことを言い、柊に対しては「このやろ、覚えてろよ」と文句を言って玄関から出ていった。

「さぁ、リビングに戻ろう」

 歩き出した柊が数歩進んだところで、急に足を止めた。どうしたんだろう、と声をかけようとすると、「鼻はぶつからなかった?」と柊が振り向いた。

「え?」

 一瞬、意味が分からなかったが、すぐにあの映画のことだと察し、「ええ……まぁ」と答えた。すると柊は「俺はぶつけた」と笑った。

「そうなんですか?」

 意外だった。

 驚く俺に柊は苦笑くしょうしながらうなずき、「若かったしね。――今は、ぶつけることなんてないけど」とまっすぐ俺を見つめる。見たことのない表情かおの柊。その引き込まれそうな眼差しに、目をらすことができない。

「あ、の」

「試してみる?」

 柊が壁に手を伸ばしてく手をさえぎると、俺の顎に手をかけた。ゆっくりと彼の顔が近付いてくる。状況を理解することができず、目を見開いたまま、動くことも声を出すこともできないでいる俺の顔に柊の息がかかった。

「あ……」

「あー、目が回る」

 柊が俺の肩に頭を預け、うなり声を上げた。

 その瞬間、スローモーションのようにゆっくりと進んでいた時間ときが、もとの速さで刻み始める。息をするのも忘れていた俺は、浅い呼吸を何度も繰り返しながら心臓に空気を送り込む。

「頭がクラクラする」

 柊が短くうめいた。

「大丈夫ですか?」

「……ダメかも」

「水持ってきましょうか?」

「いい。ちょっとこのまま、この体勢でいたい」

 柊は身体の力を抜く。その途端、俺に彼の全体重がのしかかる。よろけそうになるのをなんとか踏ん張り、柊の身体を抱えるように両手を彼の背中に回した。

「柊さん、大丈夫ですか?」

「うん、コレいい」

「俺は重いです」

「少し我慢して」

 少しって……どれくらいだ。

 倒れないように柊の身体を支える手に力を込める。俺の身体に彼の体温が伝わってくる。自分とは違う髪の香り。微かに煙草の匂いもする。柊の鼓動こどうが服を通して伝わる。いや、もしかしたら自分の鼓動こどうかもしれない。どっちのものか分からないが、鼓動こどうは徐々に早くなっていく。

「あの……柊さん」

「……ん」

「大丈夫ですか?」

「だいぶ……楽になった」

 そう言うと、彼は俺からゆっくりと離れた。

「ありがとう」

 力なく笑い、柊はリビングへと歩いていった。俺は立ち尽くしたまま、そのうしろ姿を見つめていた。


「ただいまぁ。アレ? 三澤くん。どうしたの、こんなとこで?」

 伊集院が両手に買い物袋を持って戻ってきた。

「あ、おかえりなさい。早かったですね」

 俺は慌てて伊集院から袋を受け取った。ズッシリと両手に受ける重みに、さっきの柊の身体の重みが一瞬よみがえる。

「ありがと。向かいのコンビニだからね。顔赤いよ。酔ってる?」

「そうですか?」

 頬に手を当てると、熱を帯びている。酒のせいなのか、それとも――

「酔ってるねぇ」

 伊集院は袋から缶ビールを一本取り出すと、俺の頬にくっつけた。缶の表面についた水滴が顔を濡らし、火照ほてりが引いていく。

「気持ちいい」

「だろ? 飲むと余計火照ほてるけどな。行こう」

 伊集院から缶ビールを受け取り、俺たちはリビングへと向かう。

「三澤くんは酔ったらどうなるのかな?」

「んー、結構セーブしちゃう方なんですよね」

「じゃあ、今日は限界に挑戦だな。あ、でも無理はしないでね。危ないと思ったらストップね」

 俺は吹き出し、「難しいこと言いますね」と言うと伊集院が豪快に笑った。

「一応、医者だからねぇ」

「開業してるんですか?」

「ああ」

 リビングに入ると秋山がソファで寝ている。柊が移動させたのだろう。だが、肝心の彼の姿がなかった。

「バルコニーにいるよ」

 伊集院はそう言ってキッチンに入っていった。カーテンが風で揺れている。カーテンの隙間から窓が少し開いているのが見えた。窓のかたわらに行くと、バルコニーで柊が背中を向けて煙草を吸っていた。

「柊さん」

「煙草の煙に気をつけて」

 背中を向けたまま柊は言う。

「はい。あの、大丈夫ですか?」

「……大丈夫だよ」

 柊は煙を吐き出した。踊るように大気の中に溶けていく煙を見つめながら、俺はこれ以上なにを話していいのか分からず、その場から離れた。

 ちょうどキッチンから戻ってきた伊集院が、テーブルに缶ビールを数本並べているところだった。

「ではでは、三澤くん。限界に挑戦しようか」

 伊集院は缶ビールを一本手に取り、高くかかげながら楽しげに言った。

「こら、なに言ってんだ」

 バルコニーから戻ってきた柊が、すかさず突っ込んだ。

 伊集院は柊にビールを渡しながら、「酔っぱらったことないらしいから一度は限界を知らなくちゃ」と言うと「医者のくせに危ない発言だな」と柊は渋顔じゅうめんになる。

「大丈夫。いざというときはドクターストップかけるから」

「ふひ」

 ソファに寝ている秋山がタイミングよく笑った。

「……ほんと幸せそうに寝てるな」

 俺はソファの横に座り、寝ている秋山の頬をつついた。秋山は起きることなく気持ちよさそうに寝返りをうつ。

「気持ちよく眠りこけちゃうのが一番いい酔い方だよな」

 伊集院が言った。柊は穏やかな笑顔で秋山を見ながら「そうだな」と答えた。

 なんとなく声をかけるのが躊躇ためらわれ、俺は二人のやり取りを静かに見ていた。

「よぉし、秋山くんに続くぞ。飲もう」

 伊集院は口火くちびを切るようにビールをあおった。

「伊集院さんたちは、酔ったらどうなるんですか?」

 気になった俺は伊集院からさっき渡された缶ビール片手に尋ねると、「陽気になる」と伊集院が楽しげに答えた。聞くまでもなかった。

 次に俺は「柊さんは?」と尋ねた。柊は首をかしげて少し考えると「エッチになる、かな?」と答えた。

「は?」

 伊集院がぶはっと吹き出し、「いいねぇ、三澤くん。その顔。その呆れた顔絶妙だよ」

「笑いすぎだ」

 向かいに座る柊が、ティッシュを丸めて伊集院めがけて投げた。肩を揺らして笑っている伊集院の額に当たったティッシュは、そのまま床へと転がり落ちた。

「いやぁ、若いっていいね。綺麗でさ」

 涙を拭いながら伊集院が言った。俺は子供扱いされているみたいで悔しかった。伊集院たちからしてみれば、俺なんて子供なんだろうけれど。

 不貞腐ふてくされていると、「ああ、ごめん。でも、馬鹿にしてるわけじゃないよ。その初々しさがうらやましいんだよ」と伊集院が少し困ったような笑みを浮かべた。

「君だって、そうなるかもよ」

 柊が意地悪く笑う。

「え?」

「酔っ払うとエッチになるかも」

「……なりませんよ」

 俺は口をとがらせる。

「どうかな」

 柊が意味深な言い方をした。

「あの……」

 狼狽うろたえる俺に「任せろ」と伊集院は立ち上がるとカウンターに置いてある新聞紙をクルクルクルッと素早く丸めて「成敗せいばい!」と柊の頭に振り下ろした。

 ポスッと軽い音が鳴る。

「……おい」

 柊が呆れ顔で伊集院をにらんだ。

「イジめたバツだ。くふふ、ポスッだって。聞いた? 三澤くん。あの音」

 いつもよりテンションの高い伊集院は、お腹を抱えて笑い出した。この様子だと床にビールの缶を転がしただけでも大爆笑しかねない。

「伊集院さん、大丈夫ですか?」

 心配になってテーブルへ向かいながら尋ねると、伊集院は涙目で「大丈夫。まだ素面シラフだから」と酔っぱらいの常套句じょうとうくを言う。なんだか今日は皆、酔いが回るのが早い気がする。

「お前が先に酔ってどうする」

 柊は溜め息交じりに、

「三澤くん、コイツのことは放っておいていいよ」 

「はぁ」

 笑いすぎて苦しそうにしている伊集院。彼は普段こんな酔い方はしない。そういえば、今日のお肉も伊集院が用意したものだ。なにか、そう、なにかいいことでもあったのだろうか。

「柊さん、伊集院さんて内科の先生なんですか? 開業してるってさっき聞いたんですけど」

 ふと気になって尋ねると、柊の顔色が変わった。血の気がひいたように青白くなり黙り込んでしまった。

「柊さん、顔色が……」

「ああ、大丈夫。うん、そうだよ。まぁ、ヤブだから通っちゃダメだよ」

「誰が藪蚊やぶかだ」

 伊集院が咳き込みながら柊をにらんだ。

「そんなこと誰も言ってないだろ」

「今、言った。藪蚊やぶかって言った」

 しつこく食い下がる伊集院に、「耳まで悪くなったのか?」と面倒臭そうな柊。

伊集院は大げさにのけ反りながら、「耳までって、なんですかい。耳も腕も悪くないんですけど。営業妨害は止めて下さい。ね、三澤くん。こんなヒドイ男は無視して俺と飲もう」と俺の手首を掴むと、丸めた新聞紙が伊集院の頭に振り下ろされた。

 さっきと同じポスッと軽い音がした。柊が丸めた新聞紙を持っている。


「触るな。――それは俺のだ」

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