奇妙なまろうど
むきむきあかちゃん
奇妙なまろうど
こんな古臭くて客の来ない、老夫婦ふたりで営む小さな料理店に妙な客が現れた。
この料理店は、一日に十人客が来れば良い方、しかも大半が経営する老夫婦の友人や親類という、何とも盛況という字が程遠い店であった。しかし、老夫婦は食べていけるだけの貯金は充分に持っていたので、老後のちょっとした趣味のような気持ちでこの料理店を続けていた。
ある日、料理店に、ガラガラと音を立ててドアを開ける音が響いた。その時間は常連の、つまり老夫婦の知り合いたちは、みな町内会やら裁縫の集まりやらに出かけている時間だった。なので、はて誰が来たのやらと、厨房にいた二人はドアの方をぬっと振り向いた。
ドアを開けたその客は、ゆらゆらと店に入ってきた。
深く山高帽を被り、身体は真っ黒なコートにすっぽり包まれ、縮こまるように肩をすくめている。その姿はまるで、木にぶら下がる夜行性の蝙蝠(こうもり)のようであった。
いちばんドアに近い席にストンと座ると、机に置かれたメニューに目もくれずに内ポケットから何やら雑誌とタロットカードを出しはじめた。そして雑誌の、何度も開いたのであろう折り目がたくさんついたページをパタンと開いた。
次にタロットカードも箱から出してシャッフルして、何枚か取ると机に並べた。雑誌のページとタロットカードの絵を見比べ、ぶつぶつ何か言っている。どうやら占いをしているようである。
戸惑いながらも、老夫婦のうちの妻がお冷を出すと、頭をちょっと下げて礼儀正しく受け取った——は良いものの、一向にそのお冷をちびちび啜ってるだけで、料理を頼む気配がまったくない。タロットカードをもう一度シャッフルしなおしてカードを引き直したりしている。
「なんだ、あの客は。」しびれを切らしたように夫が言った。
「いつになったら注文するんだ。」
「ほんと、何しに来たんでしょうねえ。何か、声をかけた方がいいのかしら。」
しばらく夫婦は顔を見合わせたあと、妻のほうが
「私がやりますから。」
と、厨房を出て行った。
妻は、客に近づくと、
「あの、お客さん。ご注文はどうされますか。」と恐る恐る尋ねた。
客は少し山高帽のつばをあげると、妻の目をじっと見つめた。
「なにか注文しなくては駄目なのですか?」
本当に不思議そうに、客はそう言った。客の声は男のもので、思ったよりもずっと若い声だった。彼の目は純粋な幼児のように真ん丸だったが、奥の方が濁っているように見えた。
「ええ、だってここは料理店ですから。」妻は頷いた。
「そうなんですか。カフェでは、コーヒー一杯で何時間も居座るのが普通と聞いたので。すみません。」
とても申し訳なさそうに、コウモリ青年は俯いた。カフェと料理店は似ても似つかない場所だし、金を払って飲むコーヒーと、タダで注文前に飲むお冷はまったく違う。
なんだが腑に落ちない気分になりながらも、妻はメニューを指差して青年に言った。
「これ、メニューなんで、料理が決まったら言ってくださいな。」
すると青年は首を横に振った。
「申し訳ありません。今ぼく、食欲がなくて。もう少しだけ待っていただけますか。」
「じゃあ、なんで料理店なんかに来たんですか。」
妻は少しいらいらしながら言った。
「このカードを見てください。」
青年は、雑誌の上に並べたタロットカードを妻の方に向けた。
「見てください。そもそもぼくは、タロットカードに現れた方角を進んでここに来たんです。」
「なぜタロットカードなんですか?」
「故郷で最初に出会った旅人が、教えてくれたからです。」
そう言って青年は、はにかむような笑みをうかべた。
「先ほど、ここでも占ってみました。カードによると、どうやらここに来れば、僕はコウモリに戻れるようなんです。」
妻は、この男は気が触れているのかと思った。人間が何だかコウモリのような格好をしているのかと思っていたら、こいつは人間の身なりをしたコウモリになりきっているのか。虫酸が走る思いである。だが、ここで狂人は帰ってくれなどと突き返しては、あとあと面倒なことになりかねない——そう思った妻はとりあえず男に合わせることにした。
「へえ。どうもコウモリのような見た目をしてらっしゃると思っていたら、本当にコウモリでいらしたの。びっくりしたわ。」
「そうです。もともとはこの村と、隣の村との間にある森に住んでいました。最近はコウモリも減ってきていて、僕に知り合いは十人もいませんでしたね。でも僕には恋人がいましたその娘はヌメリといいます。」
どうも、この男の妄想は激しいうえに複雑なようである。しかし妻は、こいつの妄想をちょっぴりファンシーだと感じてしまった。だからもう少しくらい話を聞いてみてもいいだろうと思ってしまったのだ。
「なのに人間になってしまって。恋人は大丈夫なんですか。」
「いえ。そもそもヌメリと僕は心こそ通じ合っていたけれど、言葉が違いました。きっと彼女はコウモリの言葉を話していたのでしょう。しかし僕は、生まれつきコウモリの言語は話せませんでした。当時、何故かは分かりませんでした。でも、幼い頃から一緒にいた仲間のコウモリたちは、そんな僕を優しく受け入れてくれました。いい飛び方も、エサの取り方も教えてくれた。彼らのことは一生忘れられません。」
そう言って青年は目頭をそっと抑えた。声も微かに震えている。
「多分、言葉もまともに話せない僕にうんざりしたんでしょう。ヌメリはある日僕らのすみかから居なくなっていました。その時の辛さと言ったら、表現のしようがありません。僕は一日中泣きました。もう仲間のコウモリたちも、どこかへ行ってしまったんです。きっとここは男ばかりだったからでしょうね。ヌメリが唯一の女でした。」
青年は天井を見上げ、涙をこらえるようにしながら目を閉じた。元恋人との幸せな日々を思い出しているのだろうか、などと勝手に妻は推測し、センチメンタルな感情に浸った。
「僕は泣き疲れて、その日は夕方には眠ってしまっていました。そして次の日、目覚めると僕は人間になっていたんです。」
妻はもはやその物語に引き込まれていた。真剣な目つきで相槌を打つ。
「僕は突然変わった自分の見てくれに驚きながらも、おそるおそる村に出ました。目を覚ました時からすでに着ていたコートには、少し金が入っていました。空腹で果物が欲しくなって、果物屋を探しました。ほんの少し歩けば、すぐに小さな青果店がありました。僕は林檎をもらおうと、店を見ている男のもとに行って、『林檎をもらうよ』と銀貨を差し出しました。するとその男は、怯えるような目で僕を見ながら、こう言ったんです。」
そこで青年は一度息をついて、初めて妻の瞳をじっと見つめながら低い声で続けた。
「『あんた、コウモリの子だろう』と。」
妻はヒッ、と声を出して、青年の方を見つめ返した。
「男は顔が僕によく似ていました。男は、僕の父親だったんです。つまり、僕は人間の男とコウモリの女から生まれたってことです。
男は、『お前は生まれた時は人間の赤ん坊だった。でも数ヶ月するとだんだんコウモリに変わっていったんだ。俺はお前を森に置いてきた。そうするしかなかったんだ——でもお前は、今も赤ん坊のときと同じ顔をしているよ。一目見て分かった。』そう言いました。お父さんは僕に金貨を数枚くれました。でも一緒に住むことは許してくれませんでした。重い病気を患っているのだそうです。
それから、しばらく通りを彷徨いていると、旅人に声をかけられました。悩んでる様子だったから、何か迷っているなら聞いてあげよう、と。占いが得意らしいのです。とても優しい顔をしていて、気が許せるような気がしました。
だから僕は思い切って、コウモリと人間の子どもであったことだとか、いきなり人間になってしまったことだとかを話したんです。彼は真剣に聞いてくれました。
正直なところ、その時からずっと、そして今も、僕はコウモリに戻りたいんです。例え恋人がいなくて孤独だとしても、どうしても人間の世界は肌に合わないようだから。彼は、僕が人間に戻る方法がひとつだけあると教えてくれました。
そもそも僕は恋人のヌメリと別れた次の日に人間になりました。だから、また恋人を見つけることができれば、コウモリに戻れるのだそうです。
ただし、恋人は人間であることが条件で、コウモリに戻るときは、人間の恋人も一緒にコウモリにならなくてはならない。そう教えられました。」
そう言うと、青年は妻の方を向き直し、妻の手に自分の手のひらを重ねた。
「奥さん。あなたは僕の話を本気で聞いてくれた、旅人以外では唯一の人です。どうか僕の恋人になって、一緒にこれからの人生を過ごしてくれませんか——コウモリとして。」
妻は、まるで自分が少女になった、すなわち老婆ではなくなったような気持ちになった。だが決して青年の言うことを信じたわけではなかったし、また信じていないわけでもなかった。夢の中で、夢だと分かりながらも真面目に言葉を選んで話すときのような気分で、妻はゆっくりと、何度も頷きながら言った。
「ええ。いいわ。恋人になりましょう。あなたとなら、コウモリになって一生を過ごしてもかまわないわ。」
夫はしばらくの間、二時間後に来る友人たちのためにパスタを茹でたりソースを仕込んだりしていた。妻は話が上手だし優しいから、ああいう厄介な男も上手く対応できると思って彼は任し切っていた。だが妻は全く厨房に戻らない。ひょっとして男に絡まれたり嫌がらせを受けたりしていないか——そう不安になった夫は厨房の外に出た。
そこには誰もいなかった。少し、いちばんドアに近い席が左に傾いている以外は、いつもと変わらない景色がすっぽり部屋に収まっていた。
奇妙なまろうど むきむきあかちゃん @mukimukiakachan
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