第55話

「私は入れ替わることを了承しました。……両親の事故以来、私は美奈を避けるようになっていました。私の応援にさえ向かわなければ、事故には遭わなかったはず。私のせいで両親は亡くなり、美奈の体に大きな傷痕きずあとを残してしまったことに責任を感じていたからです。私はその後ろめたさから美奈をまともに見ることができなかった。大学に入る頃には私たちはほとんど会話をしなくなっていました。……その結果、美奈にお祖母様を押しつける形となったことにも気づかず、私は自由を楽しんでいたんです。だから、美奈の願いを聞かない訳にはいかなかった。――私は美奈をドイツに送り出したあと、水谷先生に事情を説明しに行きました。先生の耳はだませませんから。それに当時の私のレベルでは〈美奈〉を演じるなんて無理でしたし。なので、その相談も兼ねて。反対する先生をなんとか説得し、左耳の聴力を失ったことにして時間を稼ぐことにしたんです。それから三年間、毎日、先生は私にピアノの指導をしてくださいました。本当に、先生には感謝しています」

「では、実際は聞こえるのですか?」と若林。

「それが、左耳を使わないようにしていた為か聴力が落ちてしまい、今ではほとんど聞こえなくなってしまいました。……でも、それでよかったんです」

 美和は悲しそうに言う。

「〈美奈〉になって初めて彼女の苦しみが判りました。何を言っても聞き入れてもらえず、まるで操り人形のよう。自分が何の為に生まれてきたのか、そして今、本当に生きているのかさえ判らなくなることも何度もありました。透くんや他にも支えてくれる人たちがいたから今日まで生きてこられた。そしてパソコンがあったから、世界と繋がっていると安心することができた。……けれど、美奈には誰もいなかった。それでもあの子は独りで頑張ったんです。だから、私は〈美奈〉を大切に演じてきました。彼女の名前を汚さないよう、彼女のこれまでの努力を無駄にしないために」

「今回の国際ピアノコンクールで金賞を取り、あなたの努力は報われた」

 田村がそう言うと、美和は嬉しそうに微笑んだ。

「ええ、とても嬉しかった。この十年、その為に私は生きてきたのだから。美奈から手紙がきたのはそのすぐあとです。もうすぐ帰る、と。私は美奈が帰ってきたら、何よりもまず最初に彼女に謝ろうと決めていました。それから美奈と透くんと三人で一緒に生きていこうと考えていたんです」

「それが、どうしてこんなことに?」

 若林が尋ねた。

 本当にどうしてこんなことに。この部屋にいる馨以外の誰もがそう思っているだろう。俺は部屋にいるひとりひとりの表情を見ながら、美和の次の言葉を待った。

「赦せなかったんです」

 美和はスッと目を伏せ、低く押し殺した声で言った。

「ドイツから帰ってきた日、美奈はピアノの横に立つと私に言ったんです。『私を殺して欲しい』と。生きていくのが辛い、生きる意味がない、そう言ったんです。……私に」

嘱託殺人しょくたくさつじん……」

 俺が呟くと、美和は首を振った。

「違います。頼まれたから殺したのではありません」

 美和は俺に顔を向けると、きっぱりと否定した。

「美奈はドイツで恋人と幸せに暮らしていたそうです。突然、相手から別れを切り出されるまでは。……今まで恋愛経験のなかった美奈は、その一度の恋でボロボロになり生きていくことに絶望したんです。私は毎日説得し続けました。でも、美奈には私の声が届いてはいなかった。私が見えてはいなかった。ただ、死にたい、そればかり。ネットに書き込みをして相談もしました。けれど……。私は苦しみました。悩んで、悩んで、気が狂いそうになるほど。……あれは、どれくらい経ってからでしょうか。だんだんと美奈のことが憎いと思うようになっていきました。美奈は失恋してボロボロになって帰ってきました。私を、〈美和〉を生きるしかばねにしたんです。〈美奈〉としてお祖母様に殺され続け、自分の中の美和を殺して〈美奈〉を演じ、美奈に〈美和〉の自分を殺せと言われたんです。私に美奈を殺せと? 私に〈私〉を殺せと? あまりに理不尽りふじんだと思いませんか? 私は赦せなかった。――だから、殺したんです」

「……姉さん」

 水島がふらふらとその場にへたり込んだ。

「あの日、美奈がブロンズ像を私の前に差し出してきました。これで殺してほしい、と。あのブロンズ像は美奈の努力のあかし、でもそれはお祖母様の呪縛じゅばくによって得たものでした。だから、そのブロンズ像で自分の人生を終わらせようとしたんです。私は迷うことなく、ブロンズ像を受け取りました。そして、彼女めがけてブロンズ像を振り下ろしました」

 美奈は口許を手で押さえ、嗚咽おえつらす。

「最期の瞬間、美奈が言ったの。『ありがとう、』と。再会してから一度も名前を呼んでくれなかったのに、最後の最後で……私の名前を。どうして気付いてあげられなかったんだろう。美奈は、心から愛していた人に二度も……。どうして私は……」

 俺はピアノの前で立ちすくむ美和を想像した。

 手には血痕のついたブロンズ像が握られ、足許には美奈が倒れている。美奈は殺されることで、そして美和は美奈を殺すことで自分を取り戻した。取り返しのつかない現実を前に、震える美和の手からブロンズ像がすべり落ち、彼女は慟哭どうこくする。

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